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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十一章:めぐるもの ―師走― 其の六

 その刹那――彼から紙袋を受け取った指先から、体温が奪われていく感覚が走った。

 何故そんなことを知っているのか、と問う気は起きない。何故なら……橘にはもう、わかっているからだ。


「……奏一郎」

「ん?」

 名を呼ばれ、無邪気な表情を見せる彼。いとも簡単に人間を惑わせる、純真無垢を飾ったその表情。


 もしかしたら、訊いてはいけないことなのかもしれない。興味本位で訊いてはいけないことが、世の中にはたくさんある。

 そうわかってはいるが、橘は口を開く。もちろん、興味本位などで訊こうとしているのではない。


 人を突き動かすのは、恐怖に抗おうとする心だ。


「おまえは……いったい、何者なんだ」


 無邪気な笑顔は一転、あどけないきょとんとしたそれに変わる。また誤魔化されるかもしれない、そう思っても、訊かずにはいられなかった。むしろ、それでもいいと。

 それで何かが変わる、そんな気がしたから。


 長い沈黙。だが、それを破ったのは、

「……そんなことを訊くことに、何か意味でもあるのか?」

 体温を奪う、冷たい声だった。


 奏一郎は、笑みを湛えてはいた。だが、温かさなど微塵も無いそれは、初めて会った時の彼のそれと重なって。当時を思い出させようとするかのようで、橘の体に鳥肌がざわめく。


「君が僕を化け物だと決めつけてしまえば、僕は化け物になる。同時に、君が一瞬でも僕を『神だ』と思ったならば、そうだね。僕はその瞬間だけだとしても、神になれるだろうね。……僕の言っていることの意味が、わかるか?」

 橘の答えなど最初から求めていないのだろう、間髪容れずに彼は続けた。

「そんなことを問うのは、時間の無駄だということだ」


 橘は正直、狼狽(うろた)えた。こんな奏一郎は、初めて見るからだ。

 感情的な台詞。だが口吻そのものは冷静で、そして表情は変わらず笑顔。表情と、言動と、態度がちぐはぐだ。


 噛み合っていない。


 笑みを浮かべている腹話術の人形が、怒った演技をしているような……不気味な感覚。


 そして、次に目に入るのは、

「……そんなことを、よりにもよってどうして……君が僕に訊いてしまうんだ?」

 泣く演技に入る、腹話術の人形。だが表情は、作られた笑みを湛えたまま。


 橘は唇を固く結びながらも、心中ではひどく困惑していた。今目の前にいる存在が、今まさに壊れようとしているかのようで。

 自傷行為に走っている様を、目の当たりにしているようで。


 だが、一度(ひとたび)強い風が二人の頬を撫でた次の瞬間には――……奏一郎の笑みは、いつもの穏やかなものに戻っていた。


「……少し、感情的になってしまったね」


 いつものゆったりとした口調でそう言う彼を目にし、深い安堵と、そして静かなる恐怖心という、矛盾した感情が橘の中で錯綜する。


 そう、彼の怖いところというのは、こういうところだ。


 いつ、その長く安定した“いつも”を突き崩し、感情を露にするかわからないから――。だから、怖いのだ。


 そう、彼そのものが、先の彼が言っていた“瑞雲”だったのだ。


 “いつも”が突き崩されるのは案外と突然で、簡単で、そしてそれは、とても恐ろしいことなのだ。


 そんなことを考えていると、奏一郎は眉を八の字にしながら弁解をし始める。

「最近、どうも調子を狂わされてばかりでな。……さよと一緒に暮らし始めてから、かな」

 すまなかったと言って笑う彼は、やはりどこか寂寞が香っていて。そしてその姿はとても、人間らしいと橘は思うのに。

 何が、彼をここまで“人間らしく”させないのだろうか。


「……まあ僕が言いたいのは、僕の正体なんて君が勝手に決めていいぞ、ということだ」

 君がそう思えばそうなるし、そうでないと思ったならばそうはならないから、と付け加えた彼は、踵を返す。


「また近々会おう、たちのきくん」

 そう言って、橘に背を向けた。


 張り詰めた空気は、きっと冬の訪れによるもの、それだけではないのだろう。


 ――……空気を、呑みこむ。こいつは、そういう人間だ。


 改めてそう実感しつつ、車のドアを開けた、その時。


「僕は……君が羨ましいよ」


 枯れ葉の舞う乾いた音に乗せられたのは、はっきりと耳に響く声だった。奏一郎は足を止め、まっすぐに正面を向いている。それ故、橘からは彼の表情は見えない。


「怒りたいときに、悲しいときに、嬉しいときに。君は行動や表情で、まっすぐに感情を出せる。……隠せていないだけなのかも、しれないけれど。……僕のこの感情は羨望を通り越して、むしろ……(そね)みなのかも、しれないけれど」


 でも、と言ってから、彼は振り返って微笑んだ。その頬には涙も、その跡すらも見られなかったけれど――。


「どうせなら僕も、君のような人に。……いや、君のような人間に、生まれてきたかった」


 泣くのを我慢しているみたいに、眉間が歪んでいた。


 本当に泣き出してしまうんじゃないか、橘はそう思った。視界に映る奏一郎の表情は、先ほど、病室で見た小夜子のそれと、まったく同じだったから。


 しかし同じ表情を浮かべようとも、彼女と奏一郎のそれにはどこか差異があることに、橘はすぐに気づかされた。


 目だ。


 眉間に哀しい歪みをいくら浮かばせようとも、奏一郎の目は枯葉のようだ。乾いていて、潤いがまったく無い。そのくせ、誰かに一度(ひとたび)触れられてしまえば容易く壊れてしまいそう。

 形を失くして、消えてしまいそう。


 彼の碧い目はとても深く、濁りがない。だが、その碧も海のそれとは似て非なるもの。


 空。


 今まさに頭上を巡る、乾いた秋の空だ。諦観に満ちた、憂愁の色。

 いつまたその色を変えるかわからない、気まぐれに雨を降らすかもしれない、そんな、奔放で孤独な空だ。


 そしてその空は、今や厚い雲に覆われ、その色さえも失おうとしている。真っ白に染め上げられて、消えていこうとしているのだ。

 ちょうど彼から、彼自身が失われていくように。何かの感情に、心が埋め尽くされていくように――。


「いつだって、僕には“一つ”足りないから……だから、羨ましい」

 そう言って、彼は目を細めた。

「そういうところが。……僕と、君たちは違うんだ……」


 白い雲は、空を覆って――その哀しい色を隠す。哀しい色を、真っ白に塗りつぶしていこうとする。

 真っ白に塗りつぶそうとも、見えないだけでそこに在るのは変わらないのに。それでも、雲は広がって。徐々に、徐々に空は白に占領されていく。


「……愚痴を聞かせてしまって、すまない……」

「……奏一郎?」

 消え入るような声は、掠れていて。そしてそれは、彼の名を呼ぶ橘の声も同じだった。


 しばらく口を開いていなかったせいだろうか。口を開いてから声を出すまでに、少々時間がかかった。

 奏一郎の言う“一つ”というのが何なのか、それすらも判らないこの状況では、彼が何に憂い、怯えているのかまったく判らない。


 だが、それが何なのかを問うことも、もはや叶わないのだろう。

 彼はもう既に、歩き出してしまっていたから。その歩みに、迷いなど無く。立ち止まる気配さえも無く。


 枯れ葉が音を立てて、風向きが変わったことを知らせた。色鮮やかなそれらは、奏一郎を追いかけるようにして地面を這い、時に舞い上がる。いや、追い立てようと、しているのか。


 別れ際に謝罪をされたのなんて、橘にとっては初めての経験だった。

 なんとも腹のすとんと落ちない、後味の悪い別れの仕方だ。調子が狂わされているのはこちらの方だと、毒づきたいと思ってしまう。

 だが、今の彼に響く言葉を自分は持ち合わせていないのだ、と橘は自覚していた。奏一郎の求めるものも、求めている人も、それが何で誰なのか、橘にはもうわかっている。


 だがその存在さえも、今では彼を恐れ、避けようとしているのだ。


「……参ったな」


 そう独りごちながら、忘れられていた車のドアから中に入る。その動作が少しだけ乱暴になってしまったのも、ほんの少しの焦燥からだ。


 自分には無関係な話――。

 そうわかってはいても、同時に二人もの人物の泣き顔を見せられては、こちらだってなんとかしてやりたくなるものだ。一人は別に涙を流さずとも、心では泣いていたはずなのだから。


 だが――。


「……人間の常識で、あいつのことを考えるのは……」


 ――()めたほうがいい。


 橘は望まずとも、その結論に達してしまっていた。


 すまない、そう言った奏一郎の先ほどの笑みは、人間らしく見えたのだ。少なくとも橘の目には。

 それでも、だが、と考え直してしまうのだ。それは、橘自身がそうしたいわけではなくて。奏一郎の何かが、そうさせてしまうのだ。今までも、ずっとそうだった。


 何がそうさせるのか、その答えがずっとわからなかった。むしろわかろうとすることすら、避けてしまっていたのかもしれない。

 ほんの少しの疑惑を、検討などしたくなくて。もし仮にそうだったとしたなら、と考えたときの、その状況を受け入れたくなくて。ちょうど、先ほどの杉田との会話に同じだ。


 ――そう、この紙袋だってそうだ……。


 紙袋を助手席に乗せると、橘はふと思い出したように車のエンジンをかける。するとその直後に、埃っぽい暖房の熱が自身の顔にかかって――橘は少しの間、軽く咳き込んだ。これだから暖房器具は苦手なのだ。


 咳き込んでいる間、無意識ながら盗み見るようにして、その紙袋に一瞥をくれる。傍らにあるその紙袋が、まるで一つの意志を持ってそこに()るような、奇妙で嫌な感覚が先ほどから逃げてくれない。生き物をそこに入れてしまっていて、いつ動き出すかわからないときのよう――簡単に、人を急かすのだ。


 だがそれも、その紙袋を過剰に意識してしまっているから、そう感じるだけなのだ、と橘はすぐに思い直す。


 奏一郎はわざわざ、自分にスーツを返すためだけにここへ来た。否、それだけでなく、スーツを返すだけのために、一度帰宅したのだ。

 それが喜ばしいことであるはずはない。むしろ、逆だ。


 自分の下宿生が、呼吸の発作を起こして病院に運ばれたにもかかわらず、そんな悠長なことをしていられるものではないだろう。


 奏一郎が一度帰宅した、と知って信じられなかったのはこの点だ。

 一刻でも早く彼女の元に駆けつけ、傍にいてやるべきなのだ――本来であれば。“普通”であれば。


 そしてそこまで考えて、やっと思い知らされたのだ。なぜ、彼が人間らしく見えないのか。ずっと隠されていた、否、自ら目隠しをしていた、その答えを。


 彼の言動、行動、思考、表情、そして、心。

 彼を形作るその全てが、存在そのものが――。


 人間のものでは、ないのだと。


 確定してしまうのが恐ろしかったのか、そんなふうに疑うことすら人道に反すると思っていたからか、無意識の内にその可能性から目を背けてしまっていたのかもしれない。


 感じてはいたのだ、人間以外の者と話している――そんな気がしてならない、と。だから、奏一郎と接するのは恐怖でしかなかった。


 そういえば、と。

 出会ったばかりの小夜子に同じことを言ったことがあったが、彼女は橘のその言い分にこう返したのだった。


 『たとえ奏一郎さんが何であろうと、私はあそこから、心屋から出て行きたくないんです』と。


 まっすぐな瞳で、揺らぎの無い言葉だった。そうだったはずだ。

 だが、今やその彼女さえも、奏一郎と共に在ることを恐れている。


 橘よりも出会うのが遅かったとしても、三ヶ月も一つ屋根の下で暮らしていれば、奏一郎の存在について思案すべき場面は多かれ少なかれあったはずだ。

 それが今更になって、この状況。


 いったいどうして、と考えてみるも単純な話、奏一郎がなにか――常人であればしないようなことを、してしまったことは確かだ。


 そして、彼女は自分とは違い、彼が人間ではないということを改めて思い知らされたのだ、ということ。


 彼女はきっと以前から、奏一郎の正体について――少なくとも人間でないことは認知していたのだ。それでも、その事実を受け止めきれてはいなかったのかもしれない。

 本当は心のどこかで、懐疑、否定、それらを水面下で繰り返していて、それでも日常を紡いでいたのかもしれない。


 一見平穏に見えてその実、不安定な日常だったのだ。それでも、どうにか続いていたのだ、見せかけだけは。


 そしてそれを――“いつも”を突き崩すきっかけを、よりにもよって奏一郎が作った。


 ――……あいつ……いったい何をしたんだ。


 未だ発進しないセダンの中、橘の怒りのボルテージは上昇していく。

 そしてさらにそれを増長させていく、杉田の一言。


 『人並みに生きられないんならせめてさ、人並みの優しさに触れさせてやりたいんだよ』。


 今すぐにでも奏一郎を引き留めて、彼女の台詞を浴びせてやりたい。胸座を掴んで、叱咤してやりたい。


 『俺よりもそういう優しさを与えられるくせに、お前が今、そんな態度でどうするんだ』と。

 『どうしてあの子に気苦労を持たせるようなことをするんだ』、と。


 だが今の奏一郎に、何を言っても無駄だろう。今の彼が自分の言葉など素直に聞き入れるはずがない。橘はそう確信していた。


 はっきりとした正体など知らない。だがこれだけは言える。

 今の彼は、完全なる独り善がりなのだと。見た目が大人であるというだけで、中身は子供なのだ、きっと。


 暖房から排出される空気が車内を満たしてくれているにもかかわらず――橘の体は怒りという形で以って燃え盛っているはずであるにもかかわらず――指先は冷えたまま、いっこうに温まる気配を見せない。しかしこれも、寒さによるものなどではないのだろう。


 ――……情けないが、大の大人である自分がこんな体たらくだ。一緒に生活している彼女が、耐えられるはずはない。

 ……かと言って、入院して奏一郎と離れていれば自然と解決するような問題でもないし……。ああ、くそ、どうすればいいんだ……?


 他人事だという考えは、もう既に忘却の彼方……橘は頭を抱える。

 彼がセダンを発進させ、母校へと親友を迎えに行くのにはもう少し時間がかかって。その間にも、彼の購入したコーヒーは自身の熱を、空気中に惜しげもなく明け渡していた。

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