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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第三章:よわいひと ―葉月― 其の壱

 蝉の鳴き声が幾十にも重なって鼓膜を震わせる。小川の水面がきらきらと太陽の光に反射して眩しい。太陽の光が地面を温めて、熱して、それにより湿った空気も熱を帯びて。それらは体にまとわりついて。


「暑い……」


 思わず、レジの置かれた机に顔を埋める。今日はいかにも夏らしい、雲一つない快晴である。冷房機器の無い心屋に居ては否応無しに、汗が滝のように溢れてくる。一方の、奏一郎はといえば──、

「そんなに暑いか?」

 と文字通り涼しい顔でひょこっと茶の間から現れた。身に纏った着物も、白地に青の桔梗の花の柄。彼の姿を見ているとこちらまでも不思議と涼しい気がしてくる。


 頬から喉仏へ、そして首から鎖骨へと視線を移す。今の季節には似つかわしくない、新雪のゲレンデをも思わせるその肌の色に、今更ながらぎょっとする。小夜子自身、生まれつきというのももちろんあるが、インドア派でもあるので決して色黒ではない。それでも、自分の肌はただ生っ白いだけで不健康に見え、奏一郎の雪肌には透明感がある。ほんの少しだけ、羨ましく感じたのだった。


「奏一郎さんって、あまり外出しなさそうですよね」

「……日の光が苦手だからなぁ」

 それだけ返して、奏一郎は再び茶の間に姿を消した。

 ──……ドラキュラみたいな人。


 机上に広げたのは、新しい学校から出された課題だ。計画的にこなしてきたため、あとは数学の問題文が羅列されたプリントを三枚分解けば終わりである。が、溶けるんじゃないか、という暑さの中で、数学の問題を解くのは難儀だ。シャーペンを握る手にもいまいち力が入らない。集中力が削がれているらしい。

「んー……」


 全身の力を抜いて椅子の背もたれに預けた、その時だった。

 目の前を、黒い何かが音を立てつつ、凄まじい速さで通過したのは──。

「う、わっ」

 驚いて。あまりにも驚いて。

 小夜子が腰かけていた椅子は、後ろにひっくり返った──もちろん、小夜子を乗せたまま。


 頭の中で鈍い音がしてから少しして、痛みがじんじんと、後頭部の全域に広がっていく。

「う~……う~……ッ」

 今のところ、頭を抱えて唸ることしかできない。背中よりも頭の痛みのほうが重傷だ。

「な、何? 今の……」

 涙の溢れそうな目を店先に向けると、黒い“何か”の正体が、すぐにわかった。


「カラ……ス」

 夏の日差しには極めて不似合いな色の羽を携えながら、そのままの色の瞳でこちらを見つめている。そして、まるで小夜子に見せ付けるかのように(くちばし)にくわえているのは、銀色に光る──、

「ちょ、待って……!」

 頭の痛みも忘れ、カラスに駆け寄る。しかしそんな彼女を嘲笑うかのように、わざとらしくばさりと羽音を立てて、カラスは森の奥へと姿を消した。


「……ど、ど、どうしよう」

 心臓が嫌にざわつく。すると、

「どうかしたか?」

 きょとんとした目で、家の中からこちらを見つめる奏一郎。瞬時に、以前の彼の言葉が、ここでのルールが脳内を過る。


 ──『商品を、万引きされないようにすること』──


 ──『もし、破ったら』──


 ──『出てってもらうだけだ』──


 サーッと、顔から血の気が引いていくのが分かった。


「お、怖いな。顔が真っ青だぞ。どうしたんだ?」

 こちらに歩み寄る彼を制止すべく、両手を突き出す。自分が引きつった笑顔をしているのは、鏡を見ずともわかった。


「そ、そ、奏一郎さん! 私、急用……いや、出かけます! ので、なので、だから、だから……店番、お願いしまーす!」

 こういうことは先に言ったもん勝ちだ。深々とお辞儀をするやいなや、小夜子は走り出した。行き先は店の裏に広がる森林……とは、彼には言わなかったけれど。


 だが、彼は知っていた。彼女が向かう場所もそこへ行く理由も。そう、知っていた。


「……困った、ことになったなぁ」

 銀色の商品が安置されていた場所を、手のひらで優しく撫でる。

「うーん、どうしよっかなぁ」

 言葉の持つ響きとは裏腹に、それからはとても楽しそうに、歌うように、奏一郎は店のロッキングチェアに腰かけた。今にも壊れてしまいそうな脚が、キィ、キィと小さな悲鳴を上げている。


「……どうするかなぁ、彼女」

 ぽつりとした独り言を、空に放ちながら。


* * *


 初めて足を踏み入れた森は予想以上に鬱蒼としていた。木の葉が日傘になってくれるおかげか、涼しい風が通り抜ける。

 しかし風とともに森を通り抜けながらも、小夜子は体中から流れる汗を止めることはできなかった。俗に言う、冷や汗というものだ。

 恐らくこちらに飛んでいったと思われる方向に向かえど向かえど、カラスはおろか動物の気配すらしない。


「はあ、はあ……」

 走り続けたせいか、それも久々に。息が上がる。発作に似た症状が出てもおかしくはないほど走ったように思う。だが、今は息切れだけ。

 ──大丈夫、まだ走れる……。


 渇いた喉が鳴る。汗を袖で拭いつつ、きょろきょろと辺りを見渡す。

 先ほどのカラスは見当たらない。追いつけないほど遠くへ行ってしまったのだろうか。


「どこに、いるの……。どうしよう……本当に、見つからなかったら……っ」

 ひとりごちても、カラスや商品が自ら出てくるわけでもない。たまたま目に入った大樹にもたれかかりながら、小夜子は眉を顰めて頭を抱える。自覚はあった。自分は焦っているのだと。


 ──……もし。もしこのまま、見つからなかったら。奏一郎さんにこのことを知られてしまったら。心屋から追い出されて。そしたら、私は。

 ……戻るの? あの家に……。……戻れる、の?



 息が、一瞬だけ止まった気がした。



 ──……私、戻りたいの?


 今、何をすべきなのか。

 何をすればいいのか。

 何ができるのか。

 自分の本当の気持ちすら、わからない。

 わかりたくても、頭が回らない。


 ──……誰に言えばいいの。こんな気持ち。自分でも、整理できないような気持ち……。

 誰が、聞いてくれるの? ……いないじゃない。

 もう、そんな人、いなくなっちゃった……。


「…………」


 ざわついた風が頬を撫でる。髪をなびかせていく。その感覚を、小夜子は知っていた。頬を冷ましてくれる涼しい風を。途方に暮れた道の末、ようやく辿り着いたあの場所の心地よさを。


 ──……“いなくなった”って。……本当に……?


 小夜子は、突然何かを思い出したかのように目を見開いた。

 聴こえた。確かに、聴こえたのだ。この森には不自然な、金属が擦れるような鈍い音を。


 ふと首を上向けると、今までもたれかかっていた大樹の、太い幹と細い枝の間には、藁をいくつも掻き集めて出来たような──鳥の巣。そして、そこから垣間見えたのは銀色に光る──。


「あ! ……ったぁ……っ」

 声を押し殺して、辺りを見回す。幸運なことにあのカラスはどこへやら出かけているようだ。今が取り返す絶好の機会。


 木登りは得意じゃない。いや寧ろ、したことも無いから得意も苦手もない。

 しかし、今はそうも言っていられない。

「よい、しょ……っ」

 一番背の低い枝に手をかけ、一気に地面から足を離す。そうして、また手近にある枝に体重を乗せる。時折、腕を滑らせそうになりながらもよじ登って、よじ登って──。


 その間、蘇ってきたのは……頭の中を走り抜けたのは何故か、奏一郎の言葉だった。


 ──『挑戦だらけの人生なんて、誇っていいものだと思うぞ』──


 細い枝の上で背伸びをすると、巣がようやく目の前に現れる。今までカラスが奪ったものなのか光り物が目立つ中で、探し求めていた銀色の商品を手探りで──掴んだ。

「やっ……」


 やっと。やっと、取り戻せた。


 歓喜の声を上げようとした、まさにその時。何というタイミングの悪さ。カラスが戻ってきたのだ。その黒い羽をはためかせつつ、こちらに猛スピードで向かってきた。巣を守ろうと、小夜子を執拗に攻撃する。耳元で繰り返されるカラスの煩わしい羽音と鳴き声に、思わず目を瞑った。


 かばった、その勢いのせいもあろう。これまた彼女のドジなのだが……せっかく掴んだ商品は、手からするりと離れ、そのまま無情にも落下していった。

「あ……!」

 円筒状のその商品は、地に降り立った瞬間、見る見るうちに森の道を転がっていく。小夜子は急いで木から飛び降りると、その後を追う。

 巣から離れた彼女のことなどどうでもいいのか、もうカラスは追ってはこなかった。


 そこまで急な傾斜があるわけでもないのに、その商品は凄まじいスピードで転がっていく。小夜子は、だんだんと息がし辛くなってきていることを自覚した。

 それでも走った。

 息苦しさなど忘れられるほどに、駆けた。


 何故、こんなにも自分が必死になるのか──小夜子はわかり始めていた。

 心屋を追い出されるのが嫌だから、それではない。それだけではない。


 嬉しかったのだ。失敗をして誉められるのなんて、初めてだったから。

 あの瞬間、自分という存在を、受け入れられた気がした。まるで──そう、母のように。受け入れてくれた気がした。

 だから、守りたいと思ったのだ。奏一郎を。奏一郎の愛するものを、自分も──。


「待……ってっ!」

 タックルのような、ほぼ前のめりの状態で、銀色の商品を両の腕で抱きしめる。ああやっと、戻ってきた。


 喜びも、束の間。


 小夜子は足を踏み外したことに、気づかなかった。いや、空を踏んだのだ。


 ──……崖……?


 そのまま、小夜子は落下していく。胸元には、銀色に光る水筒があった。


* * *


 奏一郎は、心屋の机に肘立てしつつ、ただぼーっと空を眺めていた。そしてどこを見るでもなく微笑んでいた。しばらくして徐に立ち上がると、小豆色の番傘を広げ、日光から自分を隠す。


「……さて、出かけるとしよう」


 鼻歌を交えながら彼は歩いていき、やがて陽炎になった。店のシャッターはそのままに、開けたままに。

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