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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十一章:めぐるもの ―師走― 其の五

「……わた、し……奏一郎さんと、もう、一緒にいられないかもしれなくて……っ」


 言葉少なに、それだけ言っても橘には理解できないだろう。現に、彼は小夜子の言葉に目を丸くしている。


 だが、不安を口にしなければ、自分が壊れてしまいそうだ。聞いてくれるだけでいい。理解なんてしてくれなくてもいい。

 また甘えてしまった、と自己嫌悪に陥ることなど、目に見えているのに。


 それでも、言葉を続ける。ありのままを。枕が涙色に染められているのがわかる。だが、今はもうそれでいい。

 今はただ、本音を紡ぎたい。


「奏一郎さんのこと、“怖い”って思ってしまったから……っ! もう、一緒にいられないかもしれない……っ」


 それが、自分はたまらなく嫌なのだ――……。


 そう言葉を続けようとした、その時だった。


「萩尾さん、ご気分はいかがですかー?」

 先ほどの看護師が、扉の隙間からひょっこりと顔を出してそう告げてくる。

 しかし次の瞬間に視界に広がるのは、泣きじゃくる小夜子と、そしてそのすぐ傍にいる橘。


 何が起きたのかなんて想像はいくらでも、何通りにでも広がる。

 そしてこの看護師は何を勘違いしたか、抗議の目、叱責の目を橘に容赦なく送りつけてきている。

「面会時間、そろそろ終わりです」

 ぴしゃりとそう言い放たれ、ブリザード並の冷たい視線が背中にかかる。

「あ、はい、もう出ます……」

 大人しくそう言うと、ふんと鼻を鳴らして看護師は出て行った。


 一体どんな勘違いが彼女の頭の中で繰り広げられているのか橘は気になったが、未だに泣き止む様子のない小夜子に一瞥をくれると、

「……また来る」

 それだけ言って、病室を出た。扉を閉める際、


「起きるまでついててくださって……ありがとうございました」


 か細い涙声でそう言われ、振り返ると――。長さがまちまちの髪が扇状に、枕に広がっているのを目にしてしまい、橘の胸はちくりと痛んだ。


* * *


 視界を端から端へ行き交う患者や看護師を、数十人ほど見送る。

 どれくらいの時間が経ったろうか。橘は扉の前に、依然立ち尽くしていた。どんなに泣き崩れようとも礼を口にするあたり、律儀な子だとも思うけれど。それ以上に、気になるのは。


 まだ、泣いているんだろうか。目を充血させて、涙を流して、一人で葛藤と闘っているんだろうか。

 そんな想像を働かせてしまうと、今すぐにでもこの扉を開けて、傍にいてやりたいと思ってしまう。

 だが、自分にできるのはせいぜいそれくらいだ。傍にいることはできても、恐怖心を拭い去ってやることも、涙を止めることもできない。


 さして親密な間柄でない分、できないことは増えていく。

 親密度など関係なしに傍にいてやりたいと思っても、だ。


 奏一郎を怖い、だから一緒にいられないかもしれない……そう言って泣いていたが、あの短時間で二人の間にいったい何があったのか、など……橘は想像するしかなくて。


 第三倉庫に倒れていたあの少女が関係しているのか、とも思うが、やはりそれも憶測の域を出ない。


 だが、無意味な想像をする必要はもはや無くなったのだと、橘は悟った。

 噂の人物。渦中の人物。扉の傍らには、壁を背に立つ奏一郎がいたからだ。


「……いたのか」

 率直に正直な感想を述べると、

「ひどいなぁ、たちのきくん」

 のんびりとそう言って、彼は呑気ににへらと笑う。その表情は、いつもと同じ。倉庫で垣間見えた、突き放したような冷たさは纏ってはいない。


 ふと気になって、橘は躊躇いながらも口を開く。

「まさかとは思うが、今の……聴いてたのか?」


 小夜子の独白は、奏一郎に関することだ。それも、かなり本人に聞かれてはまずそうな話。小夜子のためにも、彼自身のためにも、どうか否定してくれますように。そう願う橘だったが、奏一郎の答えは無情にも、

「立ち聞きする趣味は、無いんだけどな……」

 というもの。


 そしてそこには、冷たさこそなくとも憂いを帯びた笑みがあった。


 白い背景の多い病院に、蘇芳の着物がやたら映えている。よく、扉を開けてすぐにこの存在に気が付かなかったものだと、橘は不思議に思った。

 その着物をするりと壁から離すと、奏一郎は橘に背を向け、そしてそのまま歩を進めようとしている。


「おい、会っていかないのか!?」


 今、小夜子に会わせるのは得策ではないように思われたが、奏一郎があまりにも当然のようにその場から離れようとするので、咄嗟にそう訊いてしまう。だが、振り返った彼は黙って頷いてから、

「僕が傍にいれば、さよの体が良くなるわけでもないし」

 それに、と付け加え、

(かえ)って、悪くなるんじゃないか?」

 そう言って、笑った。


 この二人の間に何があったのかを訊くべきか否か、橘にはわからない。興味本位で訊いてしまってはいけないこともある。だが、小夜子が奏一郎を恐れているらしいことは誰の目から見ても明らかだ。

 そして、なにより。そんなことを笑顔で言ってのける彼を、やはり人間離れしているようにしか思えなかった。


「たちのきくんは、もう帰るのか?」

「……ああ」

「そうか。……迷惑をかけたな」

 奏一郎は微笑んでそう言うと、さらには「ありがとう」と消え入るような声で呟く。静かな所作や落ち着いた性格はいつものことのはずなのに、やはりどこか彼の様子がおかしい――。少なくとも、橘の目にはそう見えた。


「……別に、気にしなくていい。彼女、入院することになりそうだから一応ご両親に連絡したほうがいいんじゃないか?」

「おや、そうか。電話をかけたことが無いのだが、電話というのは外国にも通じるのか?」


 ――すごいことを訊いてきたな。


 奏一郎のこの無知さ加減はいったいどういうことなのだろう、と思うけれど、今は彼に早々と真実を教えてやるべきなのかもしれない。


「『国際電話』……と言ってな。海外にいる相手とも、通話はできる」

 そう教えてやると、彼は感心しきったように頷いていた。その反応は、本当に冗談抜きで知らなかったのだな、と思わせてくれる。

 ふと気になって、橘は口を開く。

「なんだ、彼女のご両親は海外にいるのか?」

「父親だけな。さよの母親は既に亡くなっている」

「……そうか」


 ――……俺と、似たようなものか。


 そう思った瞬間から、一方的ながらも親近感を覚えてしまったのかもしれない。


 湧き上がってきたその感情自体にそこまで良い印象を持ち合わせていないのだが、まだ高校生なのに片親を亡くし、しかも病まで抱えて長生きできないとは……と、したくなくても同情してしまう。


 そして、泣いているかもしれないその一人の少女に、何もできない自分はひどく無力だ、と。


「……本当に、会っていかないのか」

「うん」

 奏一郎は小夜子と一緒に暮らしているのだから、自分のそれより彼の存在は響くはずなのに、と橘は思うのだが……その彼も、そして小夜子も、お互いに会うことを避けようとしているように見える。

 彼のことを、小夜子が恐れているから……本当に、それだけなのだろうか。


 そんなことを考えていると、奏一郎はにっこりと笑みを作って、

「それに僕は、君に渡したいものがあって来たんだよ」

「渡したいもの?」

 見ると、彼の手にあったのは紙袋。


 外まで見送るから車の前で渡すよ、そう言われ、橘は先行く奏一郎の背中を訝しげに見つめつつ、病室を後にした。


 時々、閉ざされた扉を振り返りながら。


* * *


 吹いてくる風は鳥肌が立つほど冷たくて、雲間から見える日差しも遠慮がちなもの。午前中は秋らしく乾いた空に陽気が広がっていたというのに、満遍なく空に広がる雲は、秋を追い出そうと急かしているかのようだ。


 枯れ葉がさらさらと音を立て、駐車場までの並木道を彩ろうとしている。日陰の霜に触れたそれは踏みつけると無残にも崩れ落ち、地面にぴたりとその身を寄せた。


「もう、冬がやってくるなぁ」

 空を仰いで、奏一郎は微笑む。着物に羽織一枚で寒くないのだろうか、と橘は思ったのだが、当の本人は不思議とそんな気配すら見せない。


「そうだ、たちのきくん。君、年末年始は忙しいのか?」

「え? ああ、いや。仕事も休みだし……俺には、帰省する所も無いしな」

「ああ、そうだったな」

 あっさりと納得する奏一郎。


 枯れ葉がかさり、と地面にぶつかる。橘が、ふと足の動きを止めたためだ。


 なぜ足を止めたかって、それは奏一郎が容易に“納得したから”だ。


 橘は、身の上話を彼にしたことはない。自分にはもう両親がいないことを、彼には話していないはずだ。

 それなのに、彼は「そうだったな」と言った。

 まるで、ずっと前から知っていたけれど、うっかり忘れていたかのような言い草だ。


 しかし、何故知っているのか、と尋ねても、どうせいつものようにはぐらかされるか、その笑みで誤魔化されるのが関の山。聖 奏一郎という存在と出会ってから早四ヶ月だ。いい加減この展開にも慣れねばならないな、と橘は心に決め、止めていた足を進める。


「……で、そんなことを訊いてどうするんだ?」

 平静を極めた声でそう問うと、振り返った彼は楽しそうに微笑んだ。

「お節を作るから、都合がよければ元旦に食べに来ないかなぁと思ってな。桐谷くんも一緒に。あ、お酒は出さないから安心していいぞ」

 桐谷の酒癖の悪さは一度見てもらいたいくらいだ、と思うが、心屋の商品の安全は保障できない。


「ぜひそうしてくれ」

 そう返すと、当たり前のように出てきた“お節”という単語に今更反応する。

「それにしてもお前、そんなものまで作るんだな。……まさか最初から自分で?」

「ああ。お口に合わないかもしれないが、そのときには率直な感想を聞かせてくれ」


 最近では大晦日になるとスーパーでもそのまま出来上がったものが売られているらしい、さらには百貨店のものとなると予約でいっぱいになるらしい、ということは聞いたことはあったが、自分で最初から作る人間など、橘は見たことがなかった。

 男で、しかもその若さで。


「何度か作ったことはあるから、失敗はしないと思うんだがな……」

 空を見上げつつそう呟く奏一郎に、思わず苦笑を漏らしてしまう。

「何度かって……いつからお節作ってるんだ、おまえ」

「十年前くらいからかな」


 思っていたよりも膨大だったその数字に、橘は目を丸くした。十年前というと、彼はまだ高校生だったから。当時の彼は、お節を作ろうなんて発想はしたことが無かった。そして二十六、七になった今でも当然、無い。


 つくづく、違う人生のレールを歩いていると思考もずいぶん違ってくるものだと納得してしまう。同じ年代に同じ街で生まれたにも関わらず、こうも違うものなのか。


「十年前……って、お前。大した十六歳だな……」

「ええ? 何を言ってるんだ、たちのきくん」

 奏一郎は目を細めると、

「僕は十年前でも、二十六歳だよ」

 そう言って、妖しく微笑んだ。


 一瞬、橘は彼の言葉の意味を理解できずにいた。

 十年前でも二十六ということは、彼はこう見えて三十六なのか、そんなことを思ってしまう。ずいぶんと若い見た目だ、なんて、思ってしまう。

 だが、それは橘が混乱しているから、だからそんな風に思わされてしまったのだ。

 もし彼が平生のように冷静になれたなら、文脈がおかしいことにすぐに気づけたはずだ。


 “十年前でも”という言葉の、奇妙さに。


 風がざわめいて、枝を揺らす。木の葉は揺らされる間もなく、容易に枝に別れを告げると、どこへやら飛ばされていく――……。


 その僅かなはずの時の流れが、やたらに長く橘には感じられて。だがその間にも、奏一郎は黙ったまま、口角をふわりと上げている。そして、睫にかかりそうなほど長い前髪の隙間からは、奥の深い、空に似た碧色が広がっていた。


 碧い目が、問う。


 『もう、わかっているんだろう?』と。


 そう、橘は知ったのだ。

 突然、小夜子が彼を恐れ始めたわけも。そして、先の彼の言葉の意味も。ゆっくりと、染み込むように、浸透するように。橘の胸中に入り込んでくる。


 そしてそれに比例するようにして、だんだんと白のセダンが目の前にやってきた。奏一郎も、橘の視線からそれに気づいたのだろう、

「おや、ここでお別れだな」

 そう言いながら、セダンを物珍しげに眺めている。彼の言葉に促されるようにしてか、気づけば、橘は桐谷から手渡されたキーを使って、ドアを開錠していた。


「……お前、帰りはどうするんだ?」

 徐にそう問うと、奏一郎は車の観察をやめる。そして、先ほどの紙袋を差し出した。

「歩いて帰れるさ。さっきだってそうしてきたんだから」


 『さっきだって』という言葉に些かの疑問を抱きながら、紙袋の中身を見ると――……その中には、丁寧に畳まれたスーツがあった。以前、奏一郎が橘の家に来た際に借りていったものだ。アイロンを既にかけてあるのか皺も無く、青のネクタイも、まるで店に置かれていたときのような新品同様の張りを見せている。


「返すのが遅くなってしまって、すまなかったな」

「……いや」

 自然と返答が短くなってしまうのは、何も考えさせてもらえないからか。別のことが、頭を占めてしまっているからか。


 だが、それでも奏一郎はまたも言うのだ。笑顔を絶やさずに、

「お母さんとの思い出の詰まった大切なスーツだろうに、貸してくれてありがとうな」

 彼が、知り得るはずの無いことを。

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