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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十一章:めぐるもの ―師走― 其の四

「栄養士ってのが漠然とした夢だとしても、私嬉しくって、悲しくってな。あの子は、自分には周りと同じような未来が待ってると思ってんだなって。……生き物ってのは……どうして、死への期間は平等じゃないんだろうなぁ……って、思うとな」


 右手に握られた缶が、少しだけ形を変えていくのが見える。それと同時に、鼻をすする音も耳を掠めて。その時。何故、彼女がわざわざ自分を寒空の下に連れてきたのか……橘は、やっと理解したのだ。


 感情を、押し殺すためだ。

 大人は、どんなときでも踏ん張って立ち上がっていなければいけないから。子供が転んだり、立ち上がれなくなったりしたときに、手を差し伸べてやらないといけないから。

 涙を、隠さなければならないから。


「はーぁ。コーヒー飲んでも寒くって、ダメだな。鼻水止まんねぇわな」

 そう言って、口調だけ笑ってみせる杉田。缶コーヒーをほぼ垂直に傾けると、ほとんどビールを一気飲みするようにして、彼女はコーヒーを飲み終える。そのときの彼女の表情は、少なくとも橘の目には些かすっきりしているように見えた。


 彼女はそのまま立ち上がると、中庭の中心にある、空き缶入れに目を向ける。

「……どういう関係かはあえて訊かないし、詮索もしねえよ。でもさ、橘」

 辺りを包むのは、コーヒー特有の独特な香り。それはとても苦々しく、香ばしく、

「どんな関係であれ、なるべくあの子に優しくしてやってくれ。人並に生きられないんなら、せめてさ。……人の優しさには、人並に触れさせてやりたいんだよ」

 哀しくも、優しい香りに感じられた。


 突如、空き缶が(くう)に大きな弧を描いたかと思うと――……それは、仲間たちのもとへとダイブする。中庭に響く、カランカラン、という小気味良い音。『杉田の投げたものは、必ずゴミ箱に入る』という地味な伝説を思い出す。


「よっしゃ」

 一部始終を見送って、ガッツポーズを決める杉田の背中に、橘は苦笑を漏らした。


 ――……教師のくせに、相も変わらず男子高校生のような人だ。


「先生、人に当たったらどうするんです」

「安心しろ、そこまで考えて投げている」

「そこまで考えているなら投げないでください」

「私の選択肢を勝手に狭めるんじゃないよ」


 至極冷静に言い合ってから、二人は微笑んだ。しかしそれは、心からの笑みとは程遠いものなのだと、互いに理解している。二人の視線が合ったのも、その合図のようなものだ。

 必死なのだと、橘は思う。お互いに、目の前の現実を少しでも明るいものにしたくて、必死なのだと。


 それはきっと、傍から見たら痛々しいものなのだろう。


「杉田さーん」

 看護師の一人が、身に纏った白衣を風に惑わせながら、こちらに駆け寄ってくる。その晴れやかな表情は、吉報の証だ。


「萩尾さんの容態が落ち着きました。まだ目を覚ましてはいませんが、面会なさいますか?」

「はい、ありがとうございます。面会時間は、どれくらいですか?」

「発作が落ち着いて間も無いので、十分くらいでしたら」

 杉田は橘の方に振り返ると、

「来るか?」

 と尋ねてくる。橘が二つ返事で頷くと、彼女は満足げに目を細めた。


「そう言ってくれると思っていたよ」


* * *


 サイレンの音が意識の彼方から響いてきて、そしてそれはどんどんと大きくなっていって――……突然、プツリと途切れた。


 その瞬間から、自分がどこにいるのか、わからなくなった。そもそも、自分という概念すら無くなってしまっているような、妙な感覚だ。


 真っ暗なようでいて時折、瞼の裏を光が走る。さらには体が重く感じられ、だが、軽くも感じられる。ふわふわと浮いているような感覚なのに、だけどどこか……頭が重い。

 そんな矛盾だらけの世界を往復しているうち、真っ白な天井が視界に飛び込んできた。


「…………」


 重苦しい気だるさが体を襲う。重力を感じていた頭はさらに重みを増し、そしてそれは全身に広がっていく。何度か経験したこの現象。そして、目の前にある天井も、似ているものなら何度か見たことがある。

 自分は倒れて意識を失い、そして病院に運ばれたのだと理解するのにそう時間はかからなかった。それがたとえ、目覚めたばかりの頭だとしても。全ては経験の成せる業だ。


「萩尾」

 穏やかな声の主へ、視線は向けられる。


 ベッドの傍らには杉田、そしてその左隣には橘がいた。小夜子はその二人の組み合わせに少々眉を顰めながらも、彼らの空気感が少し似ていることを妙に思う。


「萩尾、発作で倒れたこと、覚えてるか? ……あ、無理して喋らなくてもいいぞ?」

 杉田が気遣ってそう言うけれど、小夜子は頷かずに「はい」と答えた。


「そうか。お医者様は三日間ほど入院することを勧めているけれど、どうするかは自分で考えなさい」

「……入院、ですか」


 ――……大袈裟な気もするけど……また倒れたりしたら奏一郎さんに迷惑かかっちゃうかな……。


 そこまで考えて、小夜子はふっと笑った。自分への、嘲笑だ。

 何を言い訳しているんだ。単に奏一郎と顔を合わせるのが気まずいから、逃げているだけのくせに……、と。


「……お医者様の話を聴いて相談しますけど、たぶんそうすると思います」


 言ってしまった後、なんて自分は狡い人間なんだろう、と思わざるをえない。病にかかっている自分の選択を、反対する人間なんかいないということを知ってしまっている。


「そうか。それがいい。聖さんにもそう言ってくるよ」

「……奏一郎さん、ここに来ているんですか?」


 小夜子の問いに、杉田が「しまった」という顔をする。

「そういえば、聖さんとの連絡手段は無いんだったな。下宿先ってたしか、電話無いんだよな?」

 頷きながら、ここに奏一郎は来ていない、と聞いて小夜子はほっと胸を撫で下ろしてしまった。

 そして、そんな自分の心に沸々と、マグマのような罪悪感が湧き上がってくる。


 その一方では、困り果てたように腕を組む杉田と、彼女に対し口を開く橘とのやり取りが交わされていた。

「先生、後で俺が言っておきますよ」

 彼の助け舟に、杉田も笑顔だ。

「そうか。ありがとう、橘。じゃあ、お医者様に目が覚めたことを伝えてくるよ」

 普段、豪快に喋る彼女が穏やかに話しているのを見ると眠気が襲ってきそうだ。

 だが小夜子は時計を見ると、眠たげな目をぱちっと開けた。

「せ、先生。まだ、劇は終わってないんですよね」

「あ? ああ、そうだな」

「いまさら劇に出たいなんて言いませんから、せめて……皆のところに行ってあげてくれませんか? 私はもう大丈夫ですから。皆には、私が抜けたことで相当迷惑かけちゃいましたし……って、いうか、劇はどうなったんですか!?」


 続けざまに言葉を発すると、さすがの杉田も小夜子の気迫に圧され気味のようだ。だが、彼女はすぐさま凛々しいながらも朗らかな笑みを浮かべた。

「開演ギリギリまで近くにいたんだけど、『どうにか工夫するから大丈夫』ってさ。……『自分たちに構うよりも、小夜子のもとに行ってやってくれ』って、原が言ってた。似た者同士だな、おまえら」


 小夜子は、言葉を失った。今回の演劇でクラスを一番引っ張ってくれていたのは静音だ。クラスの誰に尋ねても、そのことに異論は無いだろう。

 それを、自分は滅茶苦茶にしたのだ。たとえ故意でないにしても、それは変わらない。それなのに、彼女は自分を許そうとしてくれているのだろうか。


 心の広い親友に、感謝よりも申し訳なさが心を占めて遣る瀬無い。小夜子が瞼をぎゅっと閉じると、彼女の心情を察してか、杉田は少し困ったような微笑みに切り替えた。

「反省したいんなら、まずは元気になるんだな」

「……はい」


 今すぐにでも、静音に会いたい。だが、そんな我が侭は通らない。


「じゃ、橘。萩尾さんのこと、頼んだ。私はそのまま学校に戻って報告しなきゃいけないからさ」

「はい。近々、またお伺いします」

 杉田は手を振ると、そのまま何も言わずに病室を去った。後には、小夜子と橘だけが病室に残る。静かな白い空間は、傍らにいる人間の息遣いさえも難なく聴こえてきそうだ。

「あの……橘さん」

「ん?」

「ご心配とご迷惑をおかけしました。せっかくの文化祭だったのに。……こんなことになっちゃって」

 体を起こして、素直にそう謝る。


 不可抗力とはいえ、桐谷にも、そして橘にまで迷惑をかけてしまった。だが、今の自分には平謝りすることしかできない。


「気にするな」

 短くそう返されて、小夜子はもう話の種が無くなりかけてきていることに焦りを感じる。考えたくないことが、一気に思考を駆け巡って――……。それを食い止めるには、会話を繋げるしかない。


「あ、あの。楠木さん……騎士の格好をしていた子は、無事なんですか?」


 楠木の名を橘が知らないかもしれない、と思い言い直すと、彼は複雑な面持ちをし出す。

「ああ、あの子は……無事だ。桐谷に任せてある」

「……そう、ですか……」


 自分とは違い発作など起こすはずなど無いのだから、そんなことを訊いて妙に思われないか小夜子は戦々恐々だったが、橘は橘で、別のことを考えていたのだ。


 芽衣に言われた、意味深長な言葉、そしてその意味を。

 しかしその思考を遮るのは、必死な小夜子の声だ。


「橘さんは……杉田先生と、お知り合いだったんですね」

 先ほど、杉田が彼を呼び捨てにしていたことを思い出し、話題を転換させる。

「ああ。十年前、俺と桐谷のクラスの副担任だったからな」

「そ、そうなんですか?」

「ああ。男女問わず、人気のある先生だった」

 今もそうか? と問われ、小夜子は大いに頷く。

「私も杉田先生、好きですから」

「……そうか」


 そして再び、流れる沈黙。

 わざとなのか、と疑ってしまうくらい、橘は短く返してくる。

 やはり、自分の様子がおかしいことに彼は気づいてしまっているのだろうか。だとするならば、恐らく杉田も気づいていただろうが、触れなかったのだろうか。


 小夜子も自覚はしている。会話の途中で、己の目が泳いでしまっていることを。


 話題が尽きないように、精一杯、積極的に話しかける。発作で倒れているのにもかかわらず、比較的元気ではない状態であるにもかかわらず、ここまで饒舌になるのは、誰の目から見てもおかしく映るのだろう。


 そう、今だって。何かを話さなきゃと、目を泳がせて話題を探しているのだ。


「え、えっと……橘さん」

「ん?」

 橘の目はまっすぐだ。腹の中に抱えた本音を、全て洗いざらい吐き出したくなるような、澄んだ目。


「気分が悪いのか?」

 彼が唐突にそう問うので、小夜子は小首を傾げてしまう。

「え……。あ、そう見えますか?」

「ああ。命が助かったのに。劇に関しても、もう心配は要らないのに、だ」


 顔が青ざめているのだろうか、そう思って、近くにある手鏡に手を伸ばす。だが、


「なんで、そんな泣きそうな顔をしているんだ?」


 その手は、彼のその一言で止められてしまっていた。


「……そんな顔、してます……?」

 信じたくなかった。これでも精一杯、笑っているつもりだったのに。だが、真面目な彼は包み隠さずありのままを伝えてくれる。


「ああ。……泣きたそうな顔をしている」


 実に彼らしいその正直な返答に、思わずふふっと笑った瞬間に……その笑みには相応しくない、涙がぽろりと頬を伝った。


 あまりにも突然あふれ出たそれには、橘も目を丸くしている。しかし小夜子もまた、自身の目からダムが決壊したが如く現れるそれに、驚きを隠せずにいた。

 こんな、何の前触れもなく出てくる涙など、知らない。


「ど、どうした……?」

「すみ、ませ……橘さん」

 何に対して謝っているのか、小夜子は自分でもわかっていない。だが、泣き顔を見られたくはなかった。急いで体を横たえると、毛布をかき集めて自身の目鼻に寄せる。目頭が熱くて、火傷してしまえそうだ。


「な、なんで……泣いているのか、自分でもわかりませ……」


 嘘だ。

 本当は、わかっている。


 涙の源は、碧眼の彼の表情、行動、言葉……そして、己の行動だ。


 彼の表情を思い出す。冷たい笑顔だった。

 彼の行動を思い出す。あれは、常軌を逸していた。

 彼の言葉を思い出す。どうして止めたのか、と彼は自分に訊いてきた。


 そんなことを彼が問うから、小夜子は、彼の心を疑ったのだ。


 ああ、彼は人ではないのだ、とその言葉によって思い知らされ、彼に触れられることを瞬間的に恐れて、事もあろうに自らに伸ばされた彼の手を、叩いてしまった。


 自分を怖いか、と尋ねてきた彼に、何も……言ってあげられなかった。

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