第十一章:めぐるもの ―師走― 其の参
「お兄ちゃん、小夜子は!? 楠木は!?」
桐谷の背中を見たり、周りをくるくると回ったりと忙しく動き回る妹。それも期待を込めた上での行動。そしてそれは知らず知らずのうちに、さらに桐谷に追い討ちをかけることになる。
「いたんでしょ!? 見つけたんでしょ!?」
「……いたにはいたし……見つけたには見つけた……」
「で、今どこにいんの!?」
ここで放たれる、答え辛い質問ナンバー1。静音の純真無垢な目の輝きは、幼い子供のそれを思わせた。
「えー……と、ね」
言いよどむ桐谷に、期待から懐疑に変化した多数の視線が送られている。しかし隠していたとしても、小夜子がここにいないということは変わらない事実で、
「さよさよは……美少女と埃をかぶり……救急車に乗せられ病院に……」
「……は?」
そして、桐谷が昔から説明下手なのも限りなく真実だった。彼もこのことは自覚しているため、“説明上手”と学生時代から謳われていた親友の顔を思い出さずにはいられない。
「……ああ、こんなとき……きょーやがいてくれたら……」
「ちょ、お兄ちゃん!? そんな無責任百パーセントの発言して空を仰がないで! 小夜子はどこ行ったのさ!?」
呆れムード、そして諦めムードがクラス中を包んだ、そのとき。
「萩尾さんは来ない」
凛とした声が、場を静まり返らせた。そして暫く後には、歓声に似た驚倒の声。
* * *
「楠木……!」
「楠木だ!」
彼女は先ほどまで整っていたはずのポニーテールを解いていて、波打つ黒髪を解放させていた。まるで一戦を終えてきた、それこそ騎士のような出で立ち。荒々しさとも取れるその殺伐とした雰囲気に、行方をくらましていた彼女を責めるどころか皆、固唾を呑んでいる。
が、ぽかんと口を開けたままでいられないのは静音だった。
「なに、それ……『来ない』……って、どういうことだよ!?」
信じられないとばかりに目を見開くも、芽衣は冷静な声色だ。
「悪いけど説明している暇はない。とにかく、萩尾さんは来ない」
頑なな言い方。だが、彼女が告げているのは厳然たる事実なのだと、それのおかげで皆に伝わったようだった。そんな彼女に、桐谷は小さく拍手を送る。周りから言わせれば桐谷と芽衣は、説明下手と説明不足の嫌なタッグなのだろうが。
しかし、場の雰囲気は最悪だった。一人ひとりに公平に役を与えているため、補欠はいない。その上、小夜子の流れ星役は出番も多い。主人公を除けば、物語の中でも最も重要な役どころなのだ。
劇の失敗しか、もはや未来は残されていない。彼らの頭の中には、“失敗”の二文字がくるくると回り始めていることだろう。
だが、そこで。
「流れ星は、私がやる」
芽衣の毅然とした一声。一瞬にして、再び皆が固まる中、静音の反応は比較的早かった。
「……はぁ!? 無理に決まってんじゃん! 騎士役は誰がやんのさ!?」
「私が、騎士役と流れ星役の両方をやる」
「二役同時に出てくるシーンはどうすんの!?」
「そこはどうにか工夫する」
二の句が告げない妹の姿を、そして無表情ながら圧迫感を持つ芽衣を交互に、桐谷はまじまじと見つめる。妹に口で勝てる相手がいたのか、と。そしてそう思ったのは、その場にいた全員だ。
「流れ星の台詞も、動きも、全部覚えてる。大丈夫。できる」
自信に満ち溢れた声は、まるで劇の台詞のよう。そして、自己暗示のようだ。
「萩尾さんがいないなら、私がどうにかするから。だから……」
右手には、純白だった彼女の羽織。もうそれは、埃をかぶって汚れていて。だけど、それを叩いて綺麗にすることしか……それを代わりに纏うことしか、今の自分にはできない。
そして、それが今自分がやるべきことなのだ、と彼女は理解していた。
「だから……ごめん。……今だけでいい。今は、それで許してほしい」
そう真っ直ぐに言い切った彼女の一言が、皆の胸にどう響いたか。それはきっと三者三様、十人十色。
意味のわからない者もいるだろう、否、大多数がそうだろう。
しかしそれでも、静音はしばらく黙った後、諦めたように目を伏せて。
「……照明、準備と。大道具の設置位置、確認」
静かにそう指示して、皆の中心から逃れようとその場から姿を消した。周囲はざわついたが、それも一時。照明の準備、大道具のセットの位置確認に皆が東奔西走し始める。
* * *
「……しーずね。俺、何やればいい?」
拗ねたようにその場を去った静音に、桐谷がそろりと近づく。明かりの無い暗闇に身を置いた彼女は、ぱちん、ぱちん、と自身の頬を叩き、乾いた音を生じさせていた。泣き出さないように、冷静になるように、と言い聞かせているのだろう。
「……お兄ちゃんは、何もしなくていいから。観客席、行ってればいいから」
「そーいうわけにもいかんよー……。さよさよ、ここに連れて来れなかったし……」
――……きょーやに、手伝ってやれって言われてるし。
心の声をそのまま口にしようとするも、桐谷はその言葉を、口を閉じることで封じ込める。ああ、違った、と。そういうことじゃない、と。
「……静音に協力、させてよ」
第一にその気持ちを先行させなければいけなかったのになぁ、と後悔しながら、頭を撫でてやる。
しかし静音は、唇を噛み締めるだけで何も言わなかった。
恐らく、小夜子のことが心配なのだろう、と思った。劇のことよりも、何よりも。静音は親友の安否が心配なのだ。
「……静音。さよさよは、大丈夫だから。無事だから」
そう言いながら、頭を撫でてやることしかできなくて……桐谷は歯痒く思う。
妹のためにできることが、本当にこれしかなくて。これしか思いつかなくて。
兄としても、人としても、男としてもこれでは失格だな、と思いながら、病院に着いたであろう少女と、そしてそれを追う親友を想った。
* * *
『萩尾 小夜子の知人だ』と救命士に言うと、橘は自動的に病院の待合室に案内された。待合室は時間帯の都合上だろうか、やたら人でごった返していて、マスクをしている人がやたら目に付く。
ああ、風邪が最近流行っているからな……。そんなことをぼんやりと思いながら、自動販売機へと移動する。どうにも落ち着かないのだ。
やるせない気持ちは、携帯電話へとその手を運ばせる。暇潰しとして扱うかのように、桐谷から先ほど受け取ったメールを、再度開いてみた。
[さよさよ、みつかったよ。なんか、びしょうじょといっしょにだいさんそうこにとじこめられてた。はんにんもすぐそばにいたけどね。なんとかなった。
でもさよさよ、こころやさんいわく ほっさ らしいんだよね。だからきゅうきゅうしゃよんだ。]
脈絡の無い、漢字変換も無いメールに最初は額に青筋を浮かばせようとしていたのだが、“ほっさ”の二文字がそれをさせてくれなかった。
肝を冷やしたものだ。だが救急車も既に呼んであると聞いていたから、少し気を抜いてしまっていたのかもしれない。そこからまた、彼女が現場に戻る可能性なんてこれっぽっちも考えていなかった。
加えて、目の前で彼女が発作を起こしているのを目の当たりにしてしまったから……冷静になれそうもない。
人の生死というのは、心臓に悪く響く。臓腑を直接手で掴まれたような、生きた心地のしない不快感。
初めて味わうわけではないが、慣れない感覚だ。
目の前を縦横無尽に行き来する看護師や、医師。彼らは、この感覚に慣れてしまっているのだろうか。そちらにばかり意識を囚われていたせいか、無意識に橘は硬貨を自動販売機に入れ、ブラックコーヒーを選んでいた。
自動販売機は静かな待合室には不似合いな音を容赦なく出してくれる。手に掴んだ瞬間から、冷えた指先を徐々に温めてくれるブラックコーヒーは、今の彼には有難い。だが、その熱が全身に行き届くまでに、まだ相当の時間がかかりそうだ。
そのとき、ハスキーな声が待合室に響く。
「橘」
振り返ると、そこには十年ぶりに見る顔があった。
「杉田先生……」
「久しぶりだな」
杉田は緩くはにかんで、自動販売機の前に立つと、彼女もまたブラックコーヒーを選んだ。
「お久しぶりです、先生。変わらずお元気そうですね」
お世辞でも決まりきった挨拶などでもなく、本心から橘はそう言った。当時から整った容姿の人だとは思っていたが、十年経った今でも老けて見えないその若々しさには恐れ入る。
「おお、ありがと。お前こそ、相変わらず賢そうな顔してんな」
そう言って、杉田はにっと笑った。
生徒が一人、発作を起こして治療を受けているのにもかかわらずこの余裕ぶり。見習いたい、と思う反面、違和感を覚える。
そんな橘の心情を表情から読み取ったのか、
「大人の辛いところでね」
杉田は口を開くと、そのまま続けた。
「何があろうと、大人ってのはしっかり踏ん張って立ってなきゃダメなんだよ」
そう言って、親指で外を指すと先に行ってしまった。橘も半分躊躇いつつ、彼女の後を追う。
外の空気は冷え冷えとしていて、冬の到達を知らせてくれる。淡い色の広がる空から、既に雲は消え去っていた。
ベンチに座り込む杉田の傍らに、橘も腰掛ける。なぜわざわざこんな寒い場所で、と思ったが、ここは口を結ぶことにする。
しばらく両者共に黙っていたが、先に沈黙を破ったのは橘だ。
「先生は……どうやってこちらにいらっしゃったんですか?」
「え? ……ああ。裏門で見張り番してたんだけどさ。救急車が来てるってんで、しかも運ばれてくのが2-Aの生徒ですーって、生徒が教えてくれてさ。しばらくしたら病院から学校に連絡が来たんで、自分の車ですっ飛んできた」
そう答えて、缶の蓋を開ける。苦いコーヒーの香りが辺りに漂ったが、冷たい風が吹きぬけたこと、そして杉田が缶を自身の口に持って行ったことで、その香りはふわりと和らいだ。
「……そうか。先に、先生に知らせに行くべきでしたね。配慮が足りず、すみません」
素直にそう謝ると、いやいや、と彼女は首を振った。
「人命が優先。お前が知らせてくれなくとも、どちらにしろ病院が知らせてくれたさ」
短い言葉ながら、優しく励ましてくれるところも何も変わらなくて、どこか安心してしまう。だが、まだ悔いるべき点が橘にはあった。
「……もっと、早くに見つけてあげられたらよかった。そうすればもしかしたら、もっと軽度の発作で済んだかも。……いや、発作自体起こらなかったかもしれない」
先に見つけたのは桐谷。そして、その次に奏一郎で。自分は一番最後にあの場所に辿り着いた。だが、もしもう少し早くあの場所を思いついていたなら――……今、自分はこのベンチに座っていないかもしれないのに。
悔いる橘を、杉田は一笑する。
「はっはっは。お前なぁ、仮定の話で、そうそうマイナスな思考に走るもんじゃねえよ」
豪快に笑う彼女。だが、彼女はなかなかコーヒーの二口目に入ろうとはしない。ただひたすら、缶に表示されているカロリーや、成分表示を目に映しているだけのようだった。
「確定的な話をしてやるよ。お前らがいなきゃ、あの子らは見つかってなかった。発作だって、重度のものになってたんだ。……私は感謝してるよ、桐谷にも、お前にも」
彼女の言い方は女性らしさとはかけ離れたものではあるけれど、包容力に満ち溢れていると橘は思う。人を安心させられる、そんな力を持っているように感じられた。そこも、見た目同様十年前と変わらない。
しかし、彼女の今の台詞に、橘は眉を顰める。
「……“重度”ってことは……今回の発作は軽度のものだったってことですか?」
「ああ、今、お医者様から詳しく聞いてきたよ。萩尾さんはね、肺以外にも、呼吸器官が常人より弱くてね。今回みたいに悪い空気を長時間吸ってると、咳を催しちゃうんだ。で、呼吸困難。最悪の場合は、呼吸停止だ」
その、まざまざと“死”を見せ付けられたような台詞に、橘は息を忘れそうになる。「まあ、呼吸停止にまで至ったことはないらしいよ」という発言が彼女の口から発せられるまで、通常通りの呼吸はできなかった。
が、まだ疑問はある。
「“桐谷”が見つけたって、ご存知なんですか?」
「ああ。さっき救命士の人が、萩尾さんの症状を説明してくれた人の名を、教えてくれてね。で、あんたの名前も彼女を搬送するときに訊いたそうなんだけど。……覚えてないか?」
橘は首を横に振る。そんなこと、一切覚えていない。呼吸に苦しむ彼女のことしか、視界にも脳みそにも入れてなかったのかもしれない。
「そうか。まあ、“橘”と“桐谷”って聞いたらさ。ああ、お前らかって、すぐにわかったよ」
そう言って、クックッ、と杉田はおかしそうに笑って、やっと二口目を口にした。
「私の中では、あんたら二人は伝説だからさー」
「……は、なんですかそれ」
つられて笑うと、久々に頬の筋肉を使った気がして、外の寒さも相まってかぴりぴりと痛む。すぐに、笑うのをやめてしまっていた。
だが、笑うのをやめてしまったのは、橘だけではなかった。
杉田の頬からもいつの間にか、笑みが消えていた。どうしたのか、と問う前に、彼女はその問いを投げかける。
「なあ、橘。私もあと十六、七年もすれば五十になるし、それから十年経てば当然六十になるわけだけどさ。……もしそれくらいの年齢であの世に行ってしまうとして。それは果たして、長生きになるんだろうか」
木の葉が、冬の音を彩る。その音に耳を傾けながら、橘は思案した。そして、思ったことをそのまま告げる。
「……今の日本の平均寿命よりも、だいぶ下回りますので。……そういう意味では長生きとは、言えないかもしれません」
「……そうか、そうだよな」
彼女は、風に流れる木の葉にのみ視線を送り、顔を向けていたから、だから橘の目には、彼女がどんな表情をしているのかわからない。だが、少なくともそこにあるのは笑顔ではないのだろうと、思った。
「じゃあ、少なくとも“長生き”はできないんだろうな、あの子」
「……え?」
彼女から発せられた言葉の意味は、よく考えずとも自然と胸に浸透してきて。それは全身を痺れさせるようで。視界を揺るがす、事実だった。
「今から数年、なんて話じゃない。まだまだ先だ。あの子にとっては、先の話だ。……だけどよ、橘。悔しいと思わないか? あの子、素直ですんごくいい子なんだよ。この前なんかさ、下宿先の聖さんが美味しい料理を作ってくれるから……それで元気になれたからって。……そんだけの理由で、栄養士目指すって言ってたんだよ」
彼女の吐く息は透明な空間に、薄い白色で彩られていて。そしてその量は、尋常ではなくなっていた。




