第十一章:めぐるもの ―師走― 其の弐
彼女も、奏一郎も口を閉ざし何も言わずにいる。自らの心臓の音が太鼓のようにどくどくと響いて、彼女の緊張感を誘う。果てしなく思われたこの沈黙。だが、それを破ったのは奏一郎だった。
「……さよ」
穏やかな声。いつもと同じ調子で紡がれたそれも、今ではなぜか哀しく響く。彼が口を開いたその気配だけで、小夜子は肩をびくりと奮わせた。そして、どうしてだろう。未だに奏一郎と目を合わせることはできない。
だが、彼はまったく気にしていないのか、もう諦めたのか、悟ったのか――そのまま言葉を続けた。
「さよは……僕のことが、怖いの?」
「……っ」
心臓が、大きく揺らいだ。全身に、血液と共に緊張を送る。呼吸を速める。咳を、促す。
「そっ……ごほっ! ごほ……っけほっ!」
固く瞼を閉じて、溢れる涙を閉じ込める。だが涙も、咳も容赦なく外へと吐き出される。本当に仕方なく吐き出されるそれら。だが後者に限っては、今の小夜子には都合がよかった。
咳き込んでいる間は……答えなくても済むのだから。
――……本当に……私は狡い……。
口元を押さえながら、小夜子は奏一郎の質問を頭の中で反芻させた。そして、思い出す。まだ夏の匂いの残る、秋になりたてのあの夜の空気を。その時の、彼の問いを。
――『怖くなった? 僕のこと』――
今と同じことを問われたのは、ずいぶん昔のことのように思われる。だが、覚えている。その問いに、小夜子は即答したのだ。
――『怖くなんかないですよ』――
と。
あの頃は、必死になって否定した。面と向かって、目を見て言えた。彼に、そんな風に思われたくなくて。勘違いなどしてほしくなくて。
笑っていてほしかった。何の屈託も、躊躇いも、遠慮も、気後れも無く……心から、笑っていてほしかった。
何故ならそう尋ねてきた時の彼は――どこか、寂しそうに微笑んでいたから。
なのに、今は。
顔も見ることも、その問いを否定することもできない。“人間ではないのだ”と確信したのは、あの時だったのに。あの時から、何も変わらないはずなのに。そのはずなのに。
「そ……いちろう、さん……私……」
名を呼ぶことさえも、難しく。顔を見ることもできないのは、暗闇のせいじゃない。否定することができないのも、咳のせいでも何でもない。
今の小夜子を縛るのは、たった一つ。
「……ごめんな、さい……」
奏一郎に対する、恐怖心だ――。
嗚咽の混じる、絞り出したような彼女の声に――……奏一郎は、ふっと瞼を閉じた。
「……おい! ここにいるのか!?」
聞き覚えのある声に、小夜子はハッとする。振り返ると、入り口から射す光の中心にいたのは――橘だった。
「た、ちばな、さん……」
思わず、名を呼ぶ。それはまるで助けを求めているみたいに、奏一郎の耳に響いたはずだ。しかしそれに小夜子が気づいたのも、橘の名を口にした後だった。
三人のいる奥の部屋へと、躊躇うことなく進んでくる橘。袖を鼻と口に当て、まっすぐこちらに駆け寄ってくれる彼を見た瞬間に、小夜子は――……もう、彼に全てを預けようと思った。
とても無責任な話だ。いなくなって心配をかけた上に、この場を全て任せて、自分は意識を手放そうとしている。勝手で、甘い考えだ。
だがもう、呼吸も、心臓も、心も。限界で。とても自分一人では、無理だと。対処できないと。
ゆっくり、自らの意志で目を細めるようにして瞼を閉じると……小夜子はそのまま、気を失った。膝から力が抜けていく感覚は、思いの他しんどいもので。だが、橘の腕が、そんな自分を支えてくれたのだと……最後に体温で、わかった。
* * *
気を失った小夜子の肩を掴み、橘は揺らす。
「おい! しっかりしろ!」
何度も意識を呼び戻そうとするけれど、ぴくりとも反応が無い。ここに来るのが一番遅かった上、居場所がわかってもすぐに助け出せなかった自分に、橘は心の中で大きく舌打ちする。
「……っおい、奏一郎! なに、ぼーっとしてるんだっ!」
目の前で小夜子が倒れていながら、身動き一つとらない奏一郎に怒号を飛ばす。なぜ、こんなときにこうまで落ち着いていられるのかその神経が理解できず、そして、なぜ天井の一部が落下してしまっているのか――さらには、小夜子らを閉じ込めた犯人と思しき少女までもが、天井の一部に囲まれて気を失ってしまっているのか。何もかもわからない。
たった今ここに足を踏み入れたばかりの橘には、状況が何一つ掴めていないのだ。
しかし当の奏一郎はと言えば、橘の剣幕に二、三度瞬くと、
「……ああ……すまないな」
そう言って、珍しいことにその碧い目を泳がせた。
まるでたった今の今まで橘の存在に気がつかなかったような、悪夢から目覚めたかのような――……妙な反応だと、橘は思う。
だが、今はそんなことよりも腕の中に眠る小夜子を早く移動させなければ――。彼女は橘の声にぴくりとも反応はしないのに、咳だけは休むことなく吐き出しているのだ。
しかし、心配の種は小夜子だけではない。桐谷がメールで教えてくれた、“閉じ込めた犯人”。どういうことだか、彼女までも気を失っているのだから。
「そっちの子は……大丈夫なのか?」
橘の問いに、奏一郎はにっこりと笑ってみせた。暗闇の中で微笑むその碧い目は、氷を連想させるもの。橘の背中に、鳥肌を立たせる。
だが、当の本人は至極穏やかに笑っているつもりらしい。
「うん、大丈夫だろう。気を失っているだけだから。直に目を覚ますさ。……僕がこの子を保健室まで運ぶから、たちのきくんはさよを救急車まで運んでやってくれ」
ずいぶんと突き放したようなその判断に、橘は眉を顰める。初めて会った時の奏一郎に逆戻りしてしまったような、嫌な予感に囚われてしまう。だが、
「……ああ、わかった」
それを振り切るようにして小夜子を抱え、この埃に塗れた空気から急いで逃れようと、橘は一歩、足を踏み出す。奏一郎はそんな彼の背中に、密かに笑みを送っていたのだが――それはすぐに無表情になって、背後の存在へと非情なそれは向けられた。
* * *
梢を捉えるのは、冷たく、だが哀しい視線。だが、そんなことは……彼女からもらった心をここで呼び起こすことなど、もはや無意味に等しいのだと、奏一郎はとっくに気づいていた。
否、気づかされたのだ。瞬時に烈火のごとく湧き上がったあの感情は、冷や水を浴びせられたかのように沈静化していった。
小夜子が、彼女そのものが冷たい水となって、心を刺したのだ。
彼女には、自分に誤魔化さねばならない感情があるのだ。その正体も、もうわかっている。彼女は、はっきりとは言わなかったけれど。
目は、恐怖に見開かれて。見るからに呼吸が速くて。指先が、震えていて。言葉でどんなに言い繕っても、誤魔化せないものはある。
自分を、恐れているのだと。そして、そのことに再び生まれ出る感情の名は――……これまた、苦手な感情で。
目の前で安らかに眠る、梢。彼女から流れてきた感情は、今までに会った多くの人間の中でも、複雑なものだった。
複雑な感情ほど、自分には理解できない。人間の複雑な感情は、理解できない感情は、時として奏一郎を惑わせる。
だが、こうしてまた一つ、心を手に入れた。
気絶し眠る梢に、自分の声は届かない。わかっていてもそれでも、奏一郎は言葉を紡ぐ。
「……厄介な、もの。……それでも、心をくれて、ありがとう」
ついに手に入れてしまった。できることなら、手に入れたくはなかった。まだ、知りたくはなかった……。
厄介で、下賎で、浅ましくて、醜い。
醜い、心。
それでも、手に入れた心は自分には貴重なもので。嬉しくて、嬉しくて。
あまりにも、嬉しくて。
だが、それを手に入れるために手放した代償は――……あまりにも、大きすぎた。そんな気がして。
“嬉しい”の後に、“悲しい”がへばりついて。
胸を掻き毟りたくなるような、その衝動を抑え込む。
「……君にも……いいことが、起こるといいね」
薄い笑みを浮かべて、泣き出しそうな目でそう呟く。その笑顔は、やたらに暗闇に溶け込んで。
絵の具が溶かされるように、一つになった。
* * *
抗えない感覚が気道を刺激する。
暗闇から一転、秋空に流れる空気は清潔そのもの。それでも、自らが今発しているものは、それとは不似合いなものだった。
「っけほ……」
埃で満ち溢れているとはいえ、たった数十秒、あの空間にいただけで乾いた咳を催してしまう。あんな所に、この子はずっと閉じ込められていたのか……不憫に思いながら、小夜子を見てしまう。
腰に届きそうなほどであった胡桃色の髪も、乱暴に髪を掴まれた上で切られてしまったせいか、長さはまちまちだ。一番短い毛先は、華奢な肩にふわりとかかっている。
小さな女の子が美容師の真似をして、人形の髪の毛を切ってしまうことがたまにある、と聞いたことがあったが、その人形もきっとこんな風なのだろう、と冷静に分析してしまう。そして、そんな自分に腹が立つ。
己の腕の中で眠る小夜子は、綺麗な空気にさらされても一向に咳を抑えることはできないでいた。橘はなるべく急いで、校門へと向かった。背後に奏一郎がついてこないことに釈然としない思いでいながらも、一度も後ろを振り返らずに。
校門に近づくのに比例して、救急車がだんだんと存在感を露にしてきた。しかしそれよりも目に付くのは、その周りにある大勢の人だかりだ。興味津々、といった様子でその場を見守っている。
橘は心の底から、そんな彼らを邪魔に感じた。橘のそんな気持ちをよそに、周囲は気絶している小夜子を、そして彼女を運ぶ橘にまで好奇の視線を送る。
救急車が来ていることがそんなに珍しいか、と。苦しんでいる人間がいるのに、興味本位でまとわりつくな、と。
見せ物じゃないんだ、と。言いたい唇を、橘は必死に噛み締めた。
桐谷が事前に説明してくれたおかげか、彼女はすんなりと救急車の担架に乗せられる。だが、それでもすぐに搬送されるわけでもなくて。
「萩尾さん、萩尾 小夜子さん、聴こえますかー?」
救命士の事務的な問いかけ、そしてその間に、搬送される病院先と連絡を取る。
「市立の総合病院が受け入れ可能だそうです!」
その忙しいやり取りの中で、 ふと気づけば、先ほど意味深長な言葉を己に投げかけてきた芽衣も群衆の中、小夜子の様子を呆然と見つめていた。彼女もまた、今回のことで傷ついたはずだ。どういう因果かは橘には知る由もないが、彼女の一件に、小夜子が巻き込まれたらしいというのは少し考えればわかることで。そしてその結果が、今こうして目の前に広がっているのだ。
自責の念は彼女の手をも支配し、小夜子の落としてしまった羽織を固く握り締めさせる。純白だったそれは、これまた少し埃がかぶって、薄汚れてしまっていて――どうしてか、やたら不気味に橘には感じられた。
「……桐谷。俺は病院まで付いていく。車のキー貸してくれ。後でここに迎えに行くから」
「え……俺も付いていっちゃだめなん……?」
心配そうに眉を八の字にする桐谷。彼もまた、小夜子の容態を案じているのだろう。気持ちはわかるが、彼にはそれよりもすべきことがある、と橘は判断を下す。
「お前は残って、静音の劇を手伝ってやれ。妹の‟晴れ舞台”なんだ。役者が一人いなくなっては多少の混乱もあるだろうが、協力してやれ」
「……まじ、きょーやって人格者」
ぼそっと褒めると、「じゃ、また後で」、そう目配せすると、二人は互いに入れ違った。橘は校舎を飛び出して駐車場へと、桐谷は体育館へと歩を進める。救急車のサイレンが鳴り響いたのはほぼ同時だった。
* * *
「ほらー、美少女、行くよー」
桐谷ののんびりとした声に、芽衣は肩をびくりと震わせる。するべきことがあるのだ、彼女にも。しかし担架に乗せられた小夜子の姿が見えなくなっても、サイレンを鳴り響かせる救急車が道の彼方に消えても、彼女は、視線を揺るがさない。ひたすら小夜子の羽織を見つめ。野次馬が去っていった後も、ずっとそうしていて。
彼女がようやっと一歩足を踏み出したのは、
「劇開始まで、あと十分~……」
という、緩慢な脅し文句が桐谷から発せられてからだった。
* * *
体育館の観客席は劇の上映時間に伴い、既に人、人、人でごった返していて、ざわざわとした騒ぎ声は、高い期待に満ちたもの。そしてそれは、2-Aの面々を緊張の渦よりも焦燥の渦へと巻き込んでいく。しかし不幸中の幸い、舞台裏での2-A の叫びは観客席のざわめきが打ち消してくれているのである。
「ど、ど、どうすんの静音!? もうお客さんたくさん入ってきてんのにっ!」
「楠木さんも萩尾さんも戻ってきてないよ!?」
次々にクラス全員から捲くし立てられても、静音はいたって冷静だ。
「はいはい、慌てない慌てない。私のお兄ちゃんが捜してきてくれてるんだから、大丈夫だって。心配ご無用、鳩ポッポー」
「鳩ポッポて……余裕だなおい!」
静音の余裕綽々振りに、むしろ皆が冷や汗を掻き始めている。しかし彼女のこの落ち着きはもちろんポーズなどではなく、本心からだ。
桐谷が「捜してくる」と言うからには、きっと見つけてくれる。そう、信じて。
* * *
そして、その時だった。
「しーずーねー……」
静音が、いやむしろクラス全員が待ちに待っていた存在、桐谷が舞台裏に現れたのは。
「お兄ちゃん!」
「静音兄!」
純真かつ期待を込めた若さ溢れる眩しい眼差しが、一斉に桐谷に注がれる。
――……うわぁ~……なにこれ、居た堪れない……。
心底、この報告をするのを避けたくなる。




