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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十一章:めぐるもの ―師走― 其の壱

〈この章にはいじめ・残酷な表現があります〉

 時は、“めぐる”――命によって。


 人も、“めぐる”――縁によって。


 想いも“めぐる”――心によって。


 世の万物――全ては“めぐる”。


 だが。


 もしそれを彼が“知る”ことができたとしたら。


 人は彼を、何と呼ぶだろう。


 神か、あるいは化け物か。


 彼は、どちらを望むだろう。


* * *


 小窓から射す木漏れ日は、ちょうど二人の人物を暗闇から浮き彫りにしてくれていた。目を覆いたくなるような惨状を、小夜子に視覚で知らせてくれた。


 恐怖に大きく開かれた目と口。まともな息を吸うことを許されないまま、梢は己の首を両手で押さえつけてくる男を、ただ信じられない想いで見つめることしかできないでいた。そして、それを目撃してしまっている小夜子もまた、同じく。体を硬直させて、その凄惨な状況を(したた)めることを拒むかのように、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


「う、ああ……っ」


 引きつったように漏れる梢の声は、体内に残っている酸素が徐々に放出されている証だ。その様、そして恐怖と焦燥に崩れた彼女の表情に、奏一郎は満足げに笑っている。その笑顔はとても嬉しそうで、楽しそうで。梢の表情とはまるで正反対で。夢だと、錯覚だと思いたかった。

 が、非情にも、これは現実だった。


「ねえ、苦しい?」


 ふと、思い出したように奏一郎が問う。いつもであれば優しさに溢れるその低い声も、今は、そこに居合わせた者の鳥肌を誘う。冷たい氷のような声。

 梢は精一杯の抵抗なのか、奏一郎の両手首を彼女の両の手で掴んでいる。が、彼女の腕にはもはや力が込められていない。『無駄な抵抗』という言葉を体現しているかのよう。


「……っな、せ、よ……っ」


 『放せよ』。息ができず苦しい中、梢が体内の酸素を掻き集めてやっと出せた言葉がそれだ。それはひどく掠れていて、奏一郎の耳にしか届かない。そして、その言葉にゆっくりと目を細める彼。


「はは。放すわけが無いでしょう? まだ、全然、君は苦しくないでしょう……?」


 子供に言い聞かせるような穏やかな口調で彼は言う。その言葉に反して、梢の表情は苦痛以外の何物も表してはいないはずなのに。

 もっと苦しめ、と言っているのだ。


 心臓が早鐘を打つ。息が震える。全身が震える。指先から、熱がどんどん奪われていく。

「そ……いちろ、さん……」

 梢よりも掠れた声で小夜子が名を呟くけれど、それは奏一郎の耳には届いていない。彼の心には今、自身の中に蠢くものしか響かない。


 梢の表情をじっと見てから、

「うーん……」

 天井を仰ぐ彼。考え事をするときの、彼のいつものくせ。しばらくしてふと、梢の顔に視線を戻すと、


「まだまだ、こんな表情じゃなかったよなぁ」

 と言って、さらに両手に力を込める。小夜子は見た。青い血管が首筋に、ぐっと浮かび上がったのを。

「う、が、あ……っ」

 同時に、梢の眉間にも皺が追加されていく。焦点が合っていない目で、(くう)を見据えている。思わず、小夜子は自身の胸を押さえた。激しい鼓動に、活発化する体の呼吸。

 しかし次に発せられる奏一郎の言葉で、彼女の心臓が、一瞬だけその動きを止めることになる。


「さよはもっと、苦しそうな顔をしていたよ?」


 ――……え?


 奏一郎の言葉に、小夜子も、梢も固まる。彼は気にする素振りも見せずにそのまま続けた。


「因果応報って言葉が好きなんでしょう? だから君に、さよが受けたのと同じくらいの苦しみを与えてあげてるのに、どうしたの? もっと嬉しい顔をすればいいのに。もっと、苦しんだ表情を見せればいいのに」


 言い終わるのと同時に、彼の両手の筋が浮く。もう、梢にも限界が訪れているはずだ。


 ――……私のために。私のせいで、こんなことを?


 小夜子は信じられなかった。愕然とした。復讐のために、彼がこんなことをしているなんて。

 自分のせいで、その手を汚そうとしているなんて。


「……った、す」

「でも、どうしようかなぁ。さよよりも君は、髪が短いしなぁ……」


 無残にも、『助けて』という梢の言葉を奏一郎が掻き消す。次は何をしようか……彼は本当に楽しそうに、目尻に皺を寄せた。


「……だ、め」

 小夜子がそう呟くけれど、彼の耳に、この声は届かない。


 ――『さよの声、ちゃんと届いているから』――


 そう言ってくれた、彼だったのに――。小夜子の頬に、生暖かいものが伝う。

 そしてその間にも、奏一郎のその手は梢の首を、指が食い込むまでに締め付けている……。


 だが、それは突然だった。

「……あ、そっか」

 と、何かに納得したように無表情になると、彼は梢を拘束していた両手を離したのだ。

「っう……!」

 首の締め付けから解放され、久々に酸素を得た梢。だが、体内に取り込まれるそれも綺麗なものではなく、埃にまみれ、薄汚れたもの。


「げほっ! けほっ、は……っ!」


 すぐに、咳き込んでしまう。奏一郎から離れようとするも、彼女はあまりに混乱してしまったせいか、事もあろうに部屋の奥へと逃れ、自らの本来の逃げ道を放棄した。部屋の隅の壁を支えに、がくがくと震える膝でもどうにか立ち続けている。

「はっ……はっ……う、げほっ!」

 繰り返し浅い息と咳を繰り返し、腐りかけの床を見つめる彼女。だが、奏一郎は彼女が部屋の隅に逃げこんだ時もそして鬼のような形相で睨んでこようとも、その度に余裕の笑みを浮かべているのだった。

 まるで、実験動物を見ているかのような目で。


 彼が、何かをしようとしている。小夜子は直感でわかった。


 そして、


「代わりに君の体のどこかを、切っちゃえばいいんだよね?」


 そんな恐ろしいことを口にして、奏一郎が妖しく笑った、次の瞬間――天井が、目に見えてぐらついて。


「っ……奏一郎さんっ!」


 それと同時に小夜子は駆け出し――薄紫の、羽織を掴む。そしてその行為は彼に、背後にいる小夜子の存在を知らせた。彼にとっても、小夜子の登場は予想外だったらしく。


「……さよ」


 その、少し驚いたような声の調子で紡がれる名前も、轟音に掻き消される。


 天井の一部が、雷鳴を轟かせ――部屋の隅に、集中して落下した。


 そこには、梢がいるはずなのに。


「……っ」


 終わりを見せない轟音。次々に落ちていく天井。

 次第に、その音もパラパラ……と、砂が落ちてくるような音に変わっていって。埃の白煙を作り出し、粉塵の突風を巻き起こし、奏一郎の羽織をはためかせる。小夜子の短くなってしまった髪にも、それは少しこびりついて。


 だけど――……そんなことは、今はどうでもいい。


 心臓が、恐怖で震える。何が起こったのか、そんなことは明白で。ただ、目の前にある彼の背中で、暗闇で紫に見える羽織で、視界を埋める。


「だめ、です……だめ……です……奏一郎さん……っ」

「……さよ?」

「だめ……ですよ……っ」


 もう、起きてしまったこと。直視したくないこと。それでも小夜子は、呪文のように「だめだ」と言い、奏一郎の名を繰り返し口にする。


 固く握り締めた彼の羽織から、ふわりと力が抜けていくのを感じて――意を決して見上げると、部屋の隅にいたであろう梢は……気を、失っていた。身を横たえた彼女の周りを、天井の一部の木材が囲っている。まるで、彼女の体の線を形作ろうとしているかのように。よほど鋭利なものだったのか、中には、床にそのまま突き刺さっているものもいくつもある。


 もし、あれが彼女に直撃していたら――そう思った瞬間に、小夜子の体に悪寒が走る。しかし幸いなことに、彼女は本当に気を失っているだけのようだ。怪我をしていたとしても、かすり傷程度だろう。全身の力を投げ出しただけ。恐怖に、意識を持っていかれただけらしい。

 小夜子は、ほ……っと胸を撫で下ろす。


 梢に同情は、しない。できない。それは、変わらない。


 だけど、今はもう、そういう問題じゃない。

 もう、今はそんなことを話していられない。


 白く霞む視界。鼻から気道を不純物が通って、呼吸を苦しくさせていく。息を吸おうとしても吐こうとしても、気道の中の何かが邪魔をする。

 震える唇。漏れる吐息。

 それでも……紡がなくてはいけない。この目の前の存在に、言わなくては、いけない。


「は……っそ、いちろ……さ、こんな、の、だめです」

「何が?」

 間髪容れずに、そう問う奏一郎。その声は――いつもと同じ。穏やかで、静かで。だけど、幾許(いくばく)かの冷たさが、怒りが、まだそこには含まれていて。

 小夜子は自身の足が、震えていたことに気づいた。少しだけ、彼に体重を預けてしまう。少しだけ、寄りかかってしまう。縋ってしまう。


 彼の一問一答式の質問に、答えてやる(いとま)も余裕も自分には無い。とりあえず、「だめだ」ということは伝えた。今はそれだけで十分だ。

 いつまた、天井が落ちてくるかもわからない。今はここから逃げなければ。梢を連れて、逃げなければいけない。


 まだ、希望はある。


 ――後で話せばきっと、わかってくれる……。


 自己の行いを、反省してくれるだろう。今は、怒りに身を任せているから、彼も感情的になりすぎているから、そんな突飛な質問をするのだ。


 そう信じ、彼女は再び口を開いた。


「……奏一郎さん。は、早くここから、出ないと……っ」

 危険です、そう言おうとした時だった。


 奏一郎が、


「……さよ」


 彼女の希望を、


「どうして、止めたの?」


 打ち砕いたのは。


「……そ、いちろさ……ごほっ! な、なに言ってる……んですか?」

 こんなときに、悪い冗談は止してほしい。安堵と、奏一郎のその“冗談”に、体は苦しくとも小夜子は心の中で笑ってしまう。

 天井を落としたのは彼の仕業なのだろうが、ちゃんと彼女に怪我をさせないようにしていたのだろう。そう、思って。

 だが、それは違うのだと思い知らされる。思い込みなのだと、願望なのだと思い知らされる。


 小夜子は口をぽかんと開けずにはいられなかった。彼は何も言わずに、ただ鋭く冷たい視線を、こちらに浴びせていたから。いつもであれば、優しく、和やかな心地にさせてくれるその碧い目は、冷たく、残忍で。


「もう一度訊くよ、さよ」


 落ち着いた声はひどく低く、まるでこちらを侮蔑しているようで。


「どうして、僕のことを止めたの?」


 本気の、声色で。


「止め、た……?」


 梢が部屋の隅に逃げ出した瞬間。奏一郎が梢に何かをしようとしているのだと、小夜子はそう思った。


 だが実際には、それが彼女に掠り傷を負わせる程度のもので済んで、ああ、よかったと。奏一郎は彼女を本気で傷つけるつもりなど、やはり最初から無かったのだと。彼女が無事だったことよりも、むしろ小夜子はそちらに安堵していたのだ。


 何をするつもりなのか、なんてわからなくても、止めなければと思ったのは、たとえ掠り傷程度のものだったとしても、奏一郎の手を汚させたくはなかったから。

 だから、彼の元に駆け寄り、言ったのだ。『こんなことは駄目だ』と。

 自分のために、なんて言い方はしない。自分のせいで、彼の手を汚させたくなどなかったから――。だから、小夜子は奏一郎を止めに入ったのだ。


 だが……彼は、『どうして止めたのか』と尋ねてきた。


 つまり、今この現状は、梢が掠り傷を負っているこの状況は、“小夜子が止めた”結果なのだと。


 もし“小夜子が止めなかった”ならば――……梢は。奏一郎は。


「……そう、いちろ、さん……?」


 唇が震えた。この名を呼ぶのをこんなに躊躇ったのは初めてで。信じられなくて、信じたくなくて。だが、認めざるを得なかった。

 彼はまだ、冷たい笑みを宿したまま、こちらをその目で見ているから。


「さよ。どうして、質問に答えないの?」

 真っ直ぐな目で、そう問うから。


 彼は、本気で訊いているのだと。

 本気で、彼は“止めてほしくなかった”のだと。


 今、想定しうる中で最悪の結果を、彼は望んでいて。そして、それを平気で実行できる人なのだと――認めなくては、ならなかった。


 小夜子はその思考に辿り着いた瞬間に、羽織を掴んでいた両手を放した。一歩、また一歩と後退(あとずさ)る。すると奏一郎はその足に目をやってから、ふと視線を上げて怪訝な顔をする。それは比較的いつもの柔和な雰囲気を漂わせていたのだが、それでも小夜子は後退(あとずさ)る足を止めない。埃の舞う床は滑りやすい。彼女の履く草履が起こす摩擦の音だけが、この場に響いていた。


「……どうして……泣いているの?」


 まだ涙の渇いていない頬に、彼の右手が伸びる。涙を、拭おうとしてくれているのかもしれない。優しさからの行動、なのかもしれない。


 だけど、それでも。そう思うよりも前に。

 己に伸ばされた奏一郎の右手を――……小夜子は、(はた)いてしまっていた。


 無意識の、行動だった。

 渇いた空気の音が空間に木霊したと思った時には――もう、手遅れだった。彼の右の手のひらに、小さな赤い腫れが起きているのに気付いて。そして、次の瞬間には自らの右の手のひらに発生したじんじんとした痺れを、そして震える唇を隠すように、小夜子は口元にその手をあてがった。


「……あ……。ご、ごめ、なさい。……叩くつもりなんて、ごほっ! 無かった、のに。ごめん、なさ……っ」


 震える唇を開けば、出てくる言葉は『ごめんなさい』。そしてなぜ唇が、声が震えているのかも。指先がこんなに冷たいのかも、理由は明白で。そして事実を認めなければならなかった。


 奏一郎を、恐れているのだという事実を。


「……さよ?」

 彼は別段、痛がるような表情も仕草も見せない。叩かれた己の右手にも一瞥もくれず、ただ、彼は小夜子の表情だけを、目を丸くして見ていた。だが、今の小夜子にはそれすらも恐怖の材料でしかない。


「ごほ……っ! っ奏一郎さん……み、見ないで、くださ……っ!」


 気取(けど)られたくない。心を、読まれたくない。驚くくらい綺麗な碧の視線から逃れようと、小夜子は俯く。暗闇で見えない床にひたすら、視線を送る。


 ――……見ないで。読まないで。お願い。気づかないで……。


 心の声までも震えているような気がして。彼にそれが、届いてしまっているような気がして。小夜子の涙が一つ、二つと見えない床に降り立った。


 俯いているから、見えない表情。暗い場所であるから、見えないはずの涙。だが、それが地面に降り立つ音は、残酷なことにこの静かな場所では嫌に耳に響いて。泣いていることを誤魔化すことなど不可能なのだと、小夜子は悟った。

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