第十章:かわるもの ―霜月― 其の十七
喉が張り裂けんばかりに名を呼びかけるも、小夜子の反応は無い。柔らかに瞼が閉じられているだけだ。にもかかわらず、咳は途切れることなく続いている。
なぜ、気を失ってしまったのかわからない……芽衣と桐谷が小夜子を連れ、外へと一歩踏み出したまさにその時、落ち着いた声が場を固まらせる。
「発作……だよ」
そこにいたのは、碧眼の彼。
彼は秋風に羽織を揺らして、落ち着いた口吻でそう言い放った。彼の突然の登場にもそうだが、彼の言葉にさすがの桐谷も目を丸くする。
「心屋さん……“発作”って? さよさよ、どこか悪いの?」
奏一郎が真顔になって頷く。
「すぐに救急車を呼んでくれないか、桐谷くん。さよ、肺の病にかかっているんだ。搬送しやすいだろうから、電話し終えたらゆっくり校門に向かってくれ」
「ん。わかった」
桐谷が携帯電話を開いて、押し慣れていないであろう一一九番を押す。
救急車を呼んでいる、その最中にも芽衣は、
「発作……なんて。萩尾さん……萩尾さん……っ!」
と、呪文のように繰り返し小夜子を呼び続ける。しかし、彼女の返事はいつも咳だけで、言葉を返してはくれない。意識の無い小夜子の代わりに、その咳が意志を持ってどんどん彼女の体を侵食していくようで。芽衣は生きている心地がしない。拳が震える。
「なんで……こんな……私の……せいでっ!」
結局、巻き込んでしまった。最も恐れていたことが、起こってしまった。また、自分のせいで人を傷つけてしまった――……。
湧き上がる罪悪感、それに似た負の感情が沸騰しているかのように、せめぎあい、芽衣の心を荒らしていく。
だが。
それを止めてくれる、ものがあった。
芽衣は、目の前で倒れている小夜子の頭を撫でる白い手に、釘付けになってしまう。そう、このとき初めて、彼女は奏一郎の存在に気づいたのだ。小夜子の短くなってしまった髪の毛をとても愛おしそうに、慈しむように行き来するその手から、どんどん視線を上げていき――碧い目を捉えた、刹那。
風がざわついて。木の葉が散っていって。それは一際大きな音を立てて。
芽衣の全身を、鳥肌が駆け巡った。金縛りにあったように、メドゥーサと視線がぶつかったみたいに――彼女は、石化した。
救急車を呼び出した桐谷の、
「よし、校門まで連れて行こ……」
という声が発せられるまで、彼女は本当に一言も言葉を発さず、そして動けずにいた。彼の声に乗せられるように、ふらふらと立ち上がる。
「心屋さん……?」
校門まで小夜子を運ぼうとする二人の足を、そこから動こうとしない奏一郎が止めにかかる。彼はじーっと、その碧い眼で倉庫を見つめていた。
「まだ、中に誰かいるね?」
そう言って奏一郎が振り返ると、体をビクつかせる芽衣。
「ねえ、桐谷くん。いるんだよね?」
「えー? ……うん、まぁ」
珍しく執拗な問いかけに、桐谷も怪訝な表情で応える。
「そう……」
納得したようにそれだけ呟くと、奏一郎はにっこりと笑って。
「桐谷くん、先に行っててくれないか? 僕は中にいる子を連れてくるからさ」
急かすようにして、桐谷の背中を押した。彼に向かって、桐谷も振り返らずに声を出す。
「心屋さん、気をつけてね……中にいる子、鋏持ってるし。カーッとなったら何するかわかんないよー? 刺されないようにね……?」
心配そうなその声に、
「あっはっは、大丈夫。刺されないよ」
奏一郎は、さも可笑しそうに笑った。芽衣はその間、一度も彼を振り返らずに、視線を逸らすようにしてひたすら俯く。
「……じゃあ。さよを、頼んだよ」
静かにそれだけ言うと、奏一郎は振り返って。“鬼”のいるであろう倉庫へと、足を踏み入れていった。
* * *
鬼が現れたのは、倉庫に入ってすぐだった。暗闇の中、力無い足でふらつきながらもどうにかして立っている。そして、呟くのだ。
「……なんで、私がいじめられなきゃ……なんで……こんな目に遭わなくちゃ……いけないの……?」
と。
虚ろな目を見開いて。視線を、どこへやらに送り続けて。そして、誰も応えることのない問いを、口にし続けるのだ。
「どうして……私がこんな目に遭わなくちゃならないのっ!? 私が、何をしたってんだよ……っ!」
その声に、奏一郎は思わず苦笑してしまう。
まるで、“あの子”のようだと。
誰も応えられない問いを自分に問い続け、結局答えなど見つけられずにいた“あの子”に。そっくりだ……と、奏一郎は笑う。
――……なんて、愚かで。可哀想で。愛おしい生き物だろうね。
奏一郎は知っていた。こういう人間は、答えを知っている者を探そうとするのだと。自分の中に見つけられない答えを、他者に見出そうとするのだと。
“あの子”もそうだったから。
そして、今目の前にいる彼女は。
足元に広がる髪の上、ぽつんと落ちている鋏に自分を重ねたみたいに手を伸ばし――。
その刃先は、再び他者へと向けられる。右手は固く鋏の柄を握り締め、彼女の両足は引きずられるように奏一郎のもとへと。
「ねえ。こういうのさぁ、因果応報って言うんでしょ? 私がいじめられて、それは、芽衣のせいなのにさぁ。なんで……私があいつに復讐しちゃいけないわけ?」
狂気に歪んだ笑みを携えたその口は、自らが錯乱していることさえも気づいておらず。だが奏一郎は、心からの笑みを抑えはしなかった。
「……ふ、ははは……」
三日月型に形成されたその口は――……彼女から表情を奪うには充分で。
「なに……笑ってんだよ……っ!?」
彼女の逆上を誘うにも、部員たちの意地悪い笑みを想起させるにも、充分だった。
充分すぎて。凶器を持つ手に、震えが走る。
「馬鹿に……しやがって。みんな……みんなして、私のこと馬鹿にして……っ!」
両手で掴まれた鋏が、天高く振り上げられる。一瞬だけ陽に当たって煌いたそれは、奏一郎の左目をめがけて振り下ろされた――。
「……!?」
たしかに左目を狙った、はず。だが梢の鋏の刀身は、奏一郎の左の拳に包まれて見えなくなってしまっている。途轍もない力に抑えられ、梢は鋏を離すまいと躍起に引っ張るも、効果は無い。
そして――彼女はこの時、本人がまったく気づかないところで重大なミスを犯した。
奏一郎に、“鋏を掴まれてしまった”のである。
このことが、何を意味するか。それが彼女にとってどれほど恐ろしいことか――彼女は、まだ気づいていなかった。
彼の心の中へと流れ込んでくる、梢の心。
怨念。憤怒。屈辱。そして、嫉妬。
そして――……“殺意”までも。
元は梢から生まれた感情。それはやがて浸入し。浸透し。
奏一郎の、“モノ”となる。
彼が初めて手にしたその感情は――この上なく『負』を意味していて。彼の忌み嫌う、とても醜いもの。
だけど。
もう今の彼にとって、そんなことはどうでもよくなっていた。
「……『因果応報』って言葉が、好きみたいだね」
小声でそう囁くと、梢は目を丸くして。
そして次の瞬間には、恐怖に戦慄いた。
彼の顔に浮かんでいたのは、狂気に満ちた妖しい笑み。自分が先ほどまで浮かべていたであろう余裕の表情、そのままだったから。
鏡で映したみたいに瓜二つな“鬼の顔”は、この世の何よりも恐ろしく、それなのに鬼の口は、心底楽しそうに言葉を生み出すから。
「……でも君は、君に何もしていないさよに酷いことをしちゃったんだから……『因果応報』じゃなくなっちゃうでしょう?」
口調は柔らかなのに。
どうして、こんなに震えるのか。思わず、梢は鋏から右手を抜き取る。それでも目の前にいる“鬼”は、笑みをたたえていて。
「君は、僕に心をくれたから……だから、お礼をさせてね。君に、この言葉の本当の意味を教えてあげる。……僕が、教えてあげる」
“鬼”が、鋏を落とした。
その音は、誰の耳にも届かなかった。
* * *
水の中にぷかぷかと浮いているような、泡の中を漂っているような妙な感覚が全身を撫でる。そして体の右側面だけがやたら温かく感じて。小夜子はもう少しだけ、この心地良い感覚に甘えていたかったのだが。項や肩に慣れない寒気を感じて、そして次には息苦しさを感じて。
結局、ぼんやりと瞼を開く。
「……?」
だんだん開けていく視界に、自分とは別の、もう一人分の足が映る。そしてあまり自分が足を踏み入れることの無い校庭の、細かい土砂も。そして右隣には、眩しくも広い秋空を背景に、黒の騎士が自分を運んでくれていた。
「ごほ……っ……す、のき、さ……」
小さく名を呼ぶと、琥珀色に輝くその目がさらにきらりと瞬く。
「萩尾さん……!」
目を丸くした彼女を見て、今日初めて「怒」、「哀」以外の感情を見た気がする小夜子。息は苦しいけれど、笑うことはできる。
「よかっ……無事で」
「喋んな馬鹿!」
――……はは、なんか楠木さんには“馬鹿”って怒られてばっかりだな……。
「さよさよ、救急車呼んだから。今から病院行くよー」
「桐谷、先輩……」
背後には、芽衣のサポートをする形で桐谷がいてくれている。
だが“病院”と聞いて、小夜子は悲しげに眉を顰めた。それでは、迷惑をかけてしまう。クラスの皆に。
――……閉じ込められてたから、なんて言い訳に過ぎない……。私が、余計なことしなければこんな……。
「ごめ、なさ……っ! げほっ!」
「喋んなっての」
ちゃんと、言葉を紡ぎたい。だが咳が、滲む涙がそれを許さない。言いたいことを、はっきり言えないもどかしさ。
芽衣に『助かってよかった』、『役立たずでごめんなさい』と言いたい。
桐谷に、『助けてくれてありがとうございます』、『迷惑をかけてごめんなさい』と言いたい。
言いたいことを言えずにいる苦しみを、誰よりも小夜子は知っている。以前は聞いてくれる相手がいなかったから、言いたいことを言えずに苦しかったけれど――……今は、自分の言葉を聴いてくれる人たちがいる。いるのに。
それなのに、言葉を生み出すことができない。
クラスの皆、静音に、謝りたい。
『劇に出られそうもなくて、ごめんなさい』と。『迷惑をかけてごめんなさい』と。
本心では、我が侭を言うならば意地でも劇に出たい。
だけどもはやそれすらも、それを口にすることすらも叶わぬ願いだ。
「今、きょーやにメール打ってるから。たぶんこっちに来ると思う」
「…………」
――……橘さんにまで、心配かけてる……。
……劇、どうなっちゃうんだろう。……奏一郎さんだったらこういうとき、なんて言うかな……。
「……奏一郎、さん……は?」
桐谷がきょとんとしたかと思うと、ゆっくり自分の背後を指差す。
「さっきの鋏娘、あそこから連れ出してくるって……言ってた、けど。……そういえば、出てこないね……」
三人の背後――校庭の彼方に見える倉庫は、いくつもの樹木の影が重なっていて。不気味なくらいに、静かだ。まだ奏一郎も梢も出てきてはいないことに、芽衣は先ほどから気付いていた。
「……奏一郎さんに……なにかあったんじゃ」
虚ろな目に加え、感情の起伏の無い声での呟きは、救急車のサイレンによって掻き消される。
「あ、もう救急車来たみたい。急いで校門に行かなきゃ……」
「行かなきゃ」
『行かなきゃ』という桐谷の台詞に、もう一人が被さる。咳のせいで喉の水分を失ったはずの声。言わずもがな、それは小夜子の声で。
決心めいたそれと同時に、砂利同士の擦れる乾いた音。
全ては、一瞬だった。
* * *
芽衣も、彼女が異常な行動をしようとしていることに気づいてはいたけれど。芽衣自身、埃まみれの空気に晒されたせいで咳を起こしてしまう。図ったわけではないのだろうが、その間に小夜子は走り出してしまった。
自らを苦しめるあの場所へ、再び。奏一郎のいる、あの倉庫へと。
「萩尾さん! 待……っ!」
芽衣が苦しげに右手を伸ばすけれど。掴めたのは小夜子そのものではなく、彼女の身に纏う純白の羽織だけ。するりと華奢な肩から抜けたそれは、微かな温もりを孕んで地面に落ちる。埃のせいで汚れてしまったそれは、陽光できらきらと目に眩しくて。
小夜子の背中を、押したみたいに芽衣には見えた。
だが、彼女を理解できそうにない。
なぜ、発作を起こしているにもかかわらず、彼女は走ろうとするのか。
――……そんなに、あの着物の男が大切なのか……?
追いかけることなど許さないと言わんばかりの、むしろ止められることなど微塵も考えていなさそうな彼女の走り。たどたどしくもまっすぐなそれに、ただ目を奪われる。
だんだん遠ざかっていく砂利の音。それに耳を傾けることしか、芽衣にはできなかった。
一方の桐谷は、
「……あれ? さよさよ?」
救急車のサイレンに気を取られてか、再びあの場所に戻ろうと走っている小夜子の後ろ姿に、今更気づく。そして、
「おい! 桐谷!」
額に汗の玉を作りながら、橘が駆けつけてきた。だいぶ遅い登場となったが、膝を押さえてぜいぜいと息を切らしている。見当違いの場所を捜し続けていたのだな……と、桐谷はこういう勘に疎い親友を少し哀れに思った。




