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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十章:かわるもの ―霜月― 其の十五

 彼女が小夜子に“私に関わらないで”と言ったのも、誰に話しかけられても素っ気無いのも。全ては、守るため。ずっと一人で、彼女は孤独と闘っていたのだ。

 わかっていたはずだったのに、今までそれを彼女に言えずにいたのは、確証が無かったから? 本当に、幸せボケでそんな感情も忘れてしまっていたから?

 否、言いたくなかったのだ。

 過去の自分の弱さと向き合わなければならなくなる、そんな気がして。今、向き合うことができているのは誰のお陰か……そんなことは、小夜子にももうわかっている。


 小夜子の推察に一笑すると、芽衣はゆっくり頭を横に振る。

「……もし仮にそうだとしても。誰かを守っていたとしても……私とあんたは、違うよ。全然、違う。あんたみたいに、“誰も傷つけたくない”みたいな……高尚な考え方は持ってないんだよ、私は」

 照れ隠しだろうか、だからそんな言い方をするのかと小夜子は思ったが、芽衣の目を見る限り違うな、と思った。こちらの目を見てはいないけれど、目線はまっすぐに正面を向いていたから。自虐的な言い方はなんだか、少し前の自分みたいだ。

 彼女を弱いと感じたのは、過去の自分と重なるからか。


「……私はそれでも、いいよ。……嬉しいから。楠木さんのことを、少しでも理解できた気がして嬉しいから」

 自分が以前に言われて嬉しかった言葉を口にしてみると、なんだかくすぐったい気持ちになる。


 ――……ずっと、ただ、すれ違っていたみたい。


 思えば、出会ってから二ヶ月と少し。数字を聴くと短いようで、長くも感じる。

 だけど彼女はずっと、自分と出会うずっと前から、独りで闘ってきた。ずっと、多くの人を守ってくれていたのだ。自らを犠牲にして。

 そしてその守り方はきっと、多くの人から誤解をされてきただろう。現に今だって、彼女がサボりで姿を消した、と思っているクラスメイトもいる。


 この強がりな弱い人が、もう苦しまないようにするには。

 そのために、できることは。


「……ねえ、楠木さん」


 ここから、出ることだ。


「そこの人の名前、教えて?」

 そう言って、扉を指す。まだ名は教えてもらっていない。顔も知らない。何も知らない。


 芽依はその琥珀色の瞳を丸くすると、再び頭をゆっくり横に振った。

「何をする気か知らないけれど、止したほうがいい。……あいつ、頭に血が上ると何するかわからない……」

 弱々しい口調であるにもかかわらず、その発言は脅し文句にはぴったりだ。だが、もう時間が無い。

「あの人が楠木さんの言うことを素直に聴くとも思えないし……。少なくとも“憎んではいない”私なら、まだ……えっと、同情して解放してくれるかもしれないし……。少なくとも、良い方向に進めると思うの……」

 自分で言ってて、自信が無い。先ほど、芽依に関わったというだけで、小夜子もろともここに閉じ込めた人物だ。交渉したところで、解放をしてくれる可能性はかなり低いだろう。


 だけど、何もしないよりはしたほうが遥かにましだ。


「……教えて?」

「…………」

「楠木さん、私、大丈夫だから……信じて、ね?」

 芽依がその言葉に瞼を閉じると、観念したように口を開き、言葉を、名前を紡いだ。


「……(こずえ)。……澤田(さわだ) (こずえ)

「……澤田さん……」

 “澤田”にしろ“梢”にしろ、小夜子は聞いたことが無い。この扉の奥にいるのは、本当に“他人”以外の何者でもない。何も知らない相手と交渉するなんて、しかもあちらが完全に損することを交渉に持ちかけるのだから、絶望的だ。それでも小夜子は立ち上がり、扉の前で口を開いた。


「……さ、澤田、さん」

 声が震える。話すのが、自分の気持ちを伝えるのが苦手になったのは、母が亡くなって、父とのいざこざがあってからだったから、つい最近のこと。今年に入ってからだ。そして、それを克服しつつあるのもまた、最近のこと。


 『言いたいことがあるなら言っていい』と、『そのほうが、さよを理解できて嬉しい』と、奏一郎が言ってくれたから。だから、少しずつ、少しずつ自分の言いたいことを言えるようになってきている。いわばリハビリ中だ。

 だけど今、言葉を交わそうとしている相手は奏一郎じゃない。自分の話なんて望んでいない。聞きたくもないだろう。


 だが意外なことに、

「なーに? 萩尾さん」

 楽しそうな声が、目の前の扉にすぐさま振動を伝える。


 気配を感じる。いるのだ、目の前に。


 いつの間にか、梢は扉の前に移動していたらしい。その事実に、声だけでなく心臓までもが恐怖に震えてしまう。


 今、二人の間にあるものは張り詰めた空気と、一枚の扉だけ。


 扉を開いてほしくて立ち上がったのに、今ではこの扉が、自分を守ってくれる唯一の命綱のように小夜子は感じた。

 自然と呼吸が速まるのは、心臓の鼓動が激しくなってきているから――。それでも、声を振り絞る。

「澤田さん。あのね……私と、楠木さんを、ここから出してほしい」

 そんな馬鹿正直に要望を口にするなんて、と背後からため息が聞こえる。自分でも馬鹿正直な言い方だと思う小夜子だったが、回りくどい言い方をしている時間すらもう無いのだ。

 向こうは何も言ってこない。ため息一つ、吐いてはいない。だから、構わず続ける。少なくとも、自分の言葉に耳を傾けてくれている、ということだから。


「……劇を、皆でがんばってきたの。朝早くから集まって、放課後、遅くまで学校に残って。成功させようって、色んな人が協力してくれて……私がまだ知らないだけで、たくさんの人が、この劇に協力してくれてるかも……ううん、絶対、そうだと思う」

 衣装を貸してくれたのだって、静音の交渉と桐谷の人徳によるものだろう。

「クラスの全員が演劇に関しては素人同然かもしれないけど、出来は悪いかもしれないけど、それでも、楽しみにしてくれてる人たちだっている……」

 橘だって、あまり緊張するな、と言ってくれた。奏一郎だって、がんばってね、と言ってくれた。


「……澤田さんが楠木さんを恨む理由、私は知らないけど……でも、何があったとしても。やっぱりこんなの、間違ってる」

 言い切ったことを後悔はしない。だって、本当にそう思うのだから。小夜子の意志は、強かった。

「こんなことしたら、たくさんの人が悲しむから……だから」

「わかるよー、萩尾さんの言いたいこと」

 返ってきたのは、思いの他柔らかい声だった。その瞬間に芽衣は身を強張らせ、威嚇するような目を扉に向ける。一方の小夜子は、わかってくれたんだ、と安堵の息を漏らした。比較的安らかな声が、二つの空間に木霊する。


「そうなんだよねぇ。集団からたった一人でも欠けたら、皆が悲しい想いをすることって、あるんだよねぇ」

 言葉の内容とは裏腹に、口調はやたら楽しそうで。嫌な予感を、起こさせるもので。背中に、冷や汗が伝う。


「……でも萩尾さんは知らないのかもね。その“哀しい想い”ってね、簡単に“理不尽な怒り”に変わるんだよ……わかる?」

「……え?」

 梢の台詞を何度も脳内に反芻させるが、小夜子には意味がわからない。しかし彼女は、気づいていなかった。背後の芽衣が、ぎゅっと瞼を伏せたことに。

「私は、それが狙いなの。私はあんたに、私が味わったのとおんなじ想いを味あわせてやりたかったんだよ……芽衣。私の言いたいこと、わかってんだよね? 萩尾さんに教えてあげたら?」

 その刹那、芽衣が立ち上がる。

「萩尾さんには言うな……!」

 あまりにも大きなその声に、小夜子が驚いて背後を振り返る。怒りに満ちたその表情は、ひどく歪んでいて。奥に広がる暗闇よりも、ずっとずっと恐ろしくて。その背後を塵のように舞う大量の埃が、零れた陽にあたって煌く。

 梢の高笑いが、大きく響いた。本当に、愉快そうに彼女は笑う。何も愉快なことなんてないのに。少なくとも小夜子にとっては、そうであるはずなのに。自分の感覚がおかしくなったのかと、思わせられてしまうほど。


「はは、ははははは……っ! まじ、ほんっと、ウケる……っ。そーんな必死になんなよ。いっつもクールだったあんたはどこに行っちゃったのー? ってか、そんなに萩尾さんには知られたくない?」

 笑いを抑えきれていない声が、耳元を通過していく。その時――……小夜子は、自身の体に違和感を覚えた。本当に、梢の笑い声が体に浸透して、病魔のように、体を侵していこうとしているみたいに――。


 息が、し辛い。


「……っ!?」

 気づいたときには、遅かった。そう、ここは長年、誰にも使われなかった場所。舞う埃は、まるで虫のように体内を蝕んで……小夜子の小さな肺を、汚していく。

「……ふ、っう」

「……萩尾さ……?」

 突然、口と首を押さえ始め、背中を丸める小夜子に芽衣が目を丸くする。

「っは、ぁ、う……ごほっ」

 息を吸わなければ辛い。だが、ここの空気はひどく汚れている――吸うにしろ吸わないにしろ、小夜子の体は通常の働きを見せてくれない。


 そして、そんな時に。何も知らない梢が、行動を起こす。


「いいよ、じゃあ私が萩尾さんに教えてあげるよ! 直接ね!」


 乱暴に扉が開かれる。が、芽衣の行動は遅かった。小夜子の発作に気を取られた、と言うよりも、まさか開けるわけがない、その思い込みが芽衣の足の動きを封じ込めていたのだ。梢の腕が、しゃがみこむ小夜子の腕を引っ掴む――。


「っ! 待て……っ!」

 芽衣が踏み込んで、扉へと飛びかかった。だが彼女の伸ばした腕は、小夜子にも梢にも届くことはなく。(くう)を掴んだ彼女の右手は、梢の笑みの材料となった。

 憎しみに歪んだ笑みの、材料へと。


 あっという間だった。梢は力なくぐったりしている小夜子だけを扉から引っ張り出し、再び芽衣を奥の部屋に閉じ込めてしまった。


「おい! 梢! 開けろっ!」

 必死な芽衣の声。扉を叩きながら彼女は叫んでいる。

 それらを全て無視し、梢はしゃがみこむ。息を荒げて座り込む小夜子と目線を合わせ、にやりと笑った。


 呼吸を満足にできないのは、奥の部屋もここも変わらない――そう判断した小夜子は、我慢の許すところまで呼吸を止めることにした。これ以上、不純な物質を体内に取り込みたくはない。気道が踊りながら、「早く呼吸をしろ」と急かしてくるけれど、そういうわけにもいかない。久々の発作に小夜子も少し困惑している。焦りが、ますます呼吸を荒げさせていく。

 そんな中でも、目の前にいる見慣れぬ人物の顔ははっきりと認識できて。


 大きな茶の目に、肩よりも上にある茶色がかった黒髪。細身の彼女が自分を一瞬で引っ張り出したなんて、小夜子には信じられなかった。くりくりとしたアーモンド形の目は、彼女に明るい印象を与えてくれる。嫌がらせをするような陰険な人にはどうも見えない……。が、その目の奥に光る狂気と憤怒は、一瞬にしてその印象を打ち消してくれる。張り付けたような笑みは同じ目線にあるにもかかわらず、見下したような、高飛車な雰囲気を思わせた。


 片方の口角を上げ、

「初めまして、萩尾さん」

 歌うようにそう挨拶をする梢。だが、小夜子は何も返さなかった。喉もとを押さえることしか、今の自分にはできない。梢も挨拶を返されることなど鼻から期待していなかったのだろう、そのまま言葉を続けた。


「萩尾さんは何も悪くないのに、こんなところに閉じ込めちゃって、本当にごめんね? でも、勝手に入ってきちゃったあなたもちょっとは悪いんだからね?」

 何を言い聞かせようとしているのか、なんて小夜子にはわからない。ただ、彼女の笑みは仄暗く映るこの空間に、やたら似合っていて。ひどく、不気味だった。

 いっそ大人しく目を瞑って、このまま意識を放り出してしまいたい――……そう弱気なことを思ってしまうけれど、微かに響く芽衣の声が、なんとか意識をここに留めてくれている。あまりにも必死に聴こえるものだから、小夜子もなんとか耐えていられるのだ。

「梢! 萩尾さんには……何もするな!」

 一緒に、扉を叩く音が轟く。すると、これまでの表情をすべて取っ払った無表情が小夜子の目の前に現れ、ゆっくりと扉に向けられる。


「……私に命令するんじゃねえよっ! 私のこと、裏切ったくせに!」

 その一言が、場をしんと静まり返らせた。梢の声が直接脳に響くようなこの感覚に、小夜子もそろそろ意識を手放してしまいそうだ。


「ねえ、萩尾さん。あいつはね、私に怪我をさせたの。一年前、他校とバスケの試合をしていたときだよ。試合中に、私のことを邪魔だって、突き飛ばしたの」

 胸倉を掴まれ、膝立ちの状態にさせられる。頭頂部はだらしなく下を向き、目線も定かではないけれど、小夜子の目には、はっきりと梢の表情が見えていた。

「そしたら、どうなったと思う? そのときの怪我のせいで、私は二度と、満足にスポーツなんてできない体になった。あいつのせいで、退部させられた。居場所の一つを、あいつに奪われた。今じゃ立ち上がるのだって、少しジャンプするのだってきついくらいだよ」

 強い口調だった。小夜子は発作をどうにか抑えようと、小さく息をする。それに比例して喘鳴がするけれど、梢は己の感情の高ぶり故か、むしろ小夜子など本当は見てもいないからか、彼女の異常には気づかない。


「梢! 萩尾さんを放せよっ! ……放してくれよ!」

 扉の奥から響く声は、命令から懇願に変わっていて。だが、

「でもね、萩尾さん。私はそんなこと、どうだっていいの。私は別段上手くもなかったし、大して仲のいい子もできなかったし。でもあいつは私と違って一年の中でも一番上手かったし、期待もされてた。次の部長はあいつだろうなって、部員のみんなに慕われてた。なのに責任感じたのか、私を追うようにして、あいつもバスケ部を退部した。……皆、悲しんでたよ。……でもね、その後、何が起きたと思う?」

 芽衣の言葉すらも、もう梢は無視している。

 小夜子を見てはいないその目。芽衣の声の届かないその耳。彼女の怒りは、この醜い感情は、いったい誰に向けられているのか……小夜子にはやはりわからない。

 だが、梢の口から放たれた言葉は、そして彼女の笑みは、


「私がいじめられるようになったんだよ、部員からね」


 ひどく、悲哀に歪んでいた。

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