第二章:であうひと ―葉月― 其の五
失礼な質問なのは重々承知していた。だが気になって仕方がない。何故なら昨日の昼過ぎにここを訪れてから、客は一人も来ていないからだ。
奏一郎は小夜子の質問に何度か瞬きをすると、
「うーん」
といって天井を見る。考え事をするときの、彼の癖なんだろうか。やがて一回だけ瞬きをして、こちらに笑顔を向け始める。
「『いる』と言うと嘘に近いが、『いない』と言うと限りなく真実に近いな」
──『いない』ってことか。……万引きの心配なんて無さそうだけど。
「まぁ正直、客が来るか来ないか、なんてのはあまり関係ないんだ」
奏一郎は慈しむように、商品の鏡を持ち上げて布で丁寧に磨く。ところどころにヒビの入った鏡は“商品”とは言いがたいのだが。
「この商品たちが、誰かの“心”になってくれればそれでいい。それだけで僕は、充分だから」
「…………」
彼の言葉の意味はよくわからないが、彼の商品たちに対する愛情──というよりも執着、または別の感情なのか──は感じ取ることができた。それに似た感情を、小夜子は知っているような気もした。
「じゃ、今日は店番を頼む。ついでに、これで商品たちを磨いてもらおう。僕は商品の修理があるのでな」
小夜子に古めかしい布を手渡し、茶の間へと消える奏一郎。瞬間、何かにぶつかった音が響く。
「いてっ」
「……だ、大丈夫ですかー!?」
「……仕事を頼む」
痛みに耐えるような低い声が聞こえた。
ふと、小夜子は胸を押さえる。大声を出した後は息苦しかったのに。……“いつも”だったら。
振りきるようにして、ぶんぶんと首を横に振る。思い出すべきではない。今はそう、役に立たねばと言い聞かせ。さっそく小夜子は商品に手を伸ばした。
銀色の水筒だ。欠けていたり、ヒビが入っていたりが目立つ商品たちのなかでもこれだけは真新しさが目立った。磨く必要もなさそうだなぁ、なんの変哲もないただの水筒だ。せいぜい中からコト、コト、と固い音がするのが気になるくらいで。
中に何が入っているのだろう、と不思議に思って。蓋を開こうと力を込めた次の瞬間だった。
ぐにゃり。
水筒があり得ない形に、アメーバ状に変わった。固かったはずの感触が指の隙間から逃げていく──声にならなかった。目の前の現実を直視できなくて、認めたくなくて。床にどろどろと落ちていった銀色の液体は、いつの間にか元の形に戻っていた。ごとん、と鈍い音が店内に響き……訪れる、沈黙。
「……おや。どうした?」
奏一郎が声をかけてくれるまで、小夜子は茫然としてしまっていた。いつの間にか腰も抜かしていたらしい。足に力が入らない。
「何かあった?」
「い、い、今。水筒が……動いた、ような。ぐにゃって、ぐにゃって!」
震える声。すがるように着物を掴む手も、小刻みに震えてしまう。
「き、気のせいですかね?」
「……さあ、僕は見てないからなんとも言えないが。まあ落ち着いて。ただの水筒なら、動くわけがないだろう?」
落ち着いた微笑みに、小夜子は踊る心臓を落ち着かせようと努めた。その間、奏一郎は水筒を持ち上げて元の位置に戻す。
「す、すみませんでした。商品、落としてしまって」
「今後、気をつけてくれればそれでいい」
「ち、違うんです。そうじゃないんです……!」
「……と言うと?」
息を呑みつつ、心臓の動きが徐々に収まっていくのを感じた。
「ごめんなさい。私……本当に何をやっても、失敗ばかりしちゃうんです……」
眉を八の字にして、申し訳無さそうに俯く。奏一郎が再び天井に視線を送り始めた。
「……ああ。例えば……花にホースで水をあげてたら、誤って人にかけたり」
「はい……」
「一日中、左右の靴を履き違えているのに気づかなかったり」
「はい」
「お遊戯会の本番で登場際に転んで、セリフが全部飛んだり?」
「はい……って、何で知ってるんですか!?」
小夜子の半生がだいぶ語られた気がした。一方の奏一郎はにっこり笑う。
「君、アレだな。俗に言う『ドジっ子』というやつだな?」
「……それ、私の人生の題名と言っても過言ではないです……」
──何をやっても、失敗ばかりしてきた。
……だから。だからお父さんは、私を……。
「ほう、それは……素晴らしい題名じゃないか」
「え?」
彼の碧い目は、優しく小夜子を見下ろしていた。
「『失敗する』というのは、『挑戦した』ということと同じだ。挑戦だらけの人生なんて、誇っていいものだと思うぞ」
──『誇る』? ……私を?
気を遣ってくれているのか、だからそんなことを言うのか、と思ったけれど違う気がした。嘘を吐くときの人間はこんなにまっすぐに人を見ない。
彼は、本心から言っているのだと。小夜子はそう感じた。
いつだって、失敗するたびに周りから責められてきたのに、だ。『どうするんだ』、『どう責任を取るのだ』と──。そしてそれを取り返そうとどんなに足掻いても、不可能で。何をしても自信がなくて。
初めてだった。
失敗をして責められなかったのも、褒められたのも。優しい瞳で、見つめられるのも。
「何事も挑戦が大切だろう? ……というわけで。今夜は君に夕飯を作ってもらうことにしよう」
笑顔の奏一郎の提案。対照的に、小夜子はまたも固まった。
* * *
台所の前に立つ。見慣れぬ調理器具の数々に、小夜子は心臓を震わせた。
「そ、奏一郎さん」
「んー?」
奏一郎は卓袱台の上に硝子の破片を並べて、鏡の縁にそれをくっつける作業をしていた。要するに台所には今、小夜子しか立っていないということだ。
「後悔しないでくださいね……私をここに立たせたことを」
と言っても、既に後悔しているのは小夜子自身なのだが。くすくすと奏一郎は笑った。
「無意味なことはしない主義なんでな。安心しろ」
「……はい」
まるで小夜子に料理をさせることに意味があるみたいに。
だいたいの料理の作り方は知っている。そこまで手の込んだものでなければ、の話だが。母が夕食を作っているところをよく見てきたので自然と、食事の作り方は覚えてしまっている。
それなのに、包丁を握る手は震える。
──まずは、うん、そう。ええと、おかずを……作ろう。
大根を掴んでまな板に乗せた瞬間、彼女は冷や汗が背中に伝ったのを感じた。
* * *
「そ、奏一郎さん、できましたよ!」
「おお、できたか」
よたよたと皿を運ぶ彼女に、奏一郎は「転ぶなよ?」と釘を刺した。
「ど、どうぞ、召し上がって下さい!」
小夜子の手で運ばれてきた皿の上の料理に、奏一郎はにっこりと微笑んだ。
「……うん、初めて見る料理ばかりだな」
「そ、そうですか?」
「ああ」
手前の皿に盛られた料理を見る。
「この、全身がやけに黒く爛れた魚は何という名前だ?」
「ホ、ホッケなんですが」
中央に置かれた皿を見る。
「この、一見潤いが感じられない野菜の盛り合わせはなんだ?」
「煮物です!」
右手前に置かれたお椀を見る。
「この、茶色い物体が浮いている液体は……」
「……お味噌汁です。お味噌汁……なんです」
蚊の鳴くような声でそう言って、小夜子は肩を落とす。
「……やはり、ダメダメのようですね、私は」
その言葉を聞くや否や、奏一郎は箸を取り、魚を口に入れた。その直前には、小さな「いただきます」が小夜子の耳に届いていた。
「そ、奏一郎さん、死んじゃいますよ!?」
何度も咀嚼してから飲み込むと、彼は口を開いた。
「見た目が多少奇怪でも、元は魚だ。命だ。第一、残してしまったら君にも、魚にも失礼だろう」
有無を言わせない言い方に、小夜子は言葉を飲み込んだ。
「……い、いただきます」
“煮物”を、箸で掴んで咀嚼する。だんだんと、味は口内に広がっていく。しかし。
──しょ、しょっぱい……! ていうか、味が濃い。濃すぎる。お醤油の入れすぎかな……!?
苦々しげな顔を上げると、奏一郎は眉一つ動かすことなく、黙々と食事を口に運んでいた。彼が黙ってしまっては小夜子も何を話せばいいやらわからない。静かな食卓。普段は意識しない秒針の音が、これでもか、というくらい耳元でざわつく。
──……怒って、るのかな。せっかく育てた野菜たちを、こんな哀れな味にさせちゃったから。
「お米は美味しく炊けている」
「えっ?」
突然言い出すので、小夜子は目を丸くする。
「おかずの味が濃いからそう感じるのかもしれないが。初めて釜で炊いたにしては上出来だ」
何度か瞬く。
──え。今、褒められてる?
「……そ、奏一郎さん。その、励ましは嬉しいのですが……」
「『励まし』?」
ふっと吐き出すように彼は笑う。
「僕は嘘は吐かない主義でな。ついでに言うと、人のために何かするほどお人好しでもない」
──本音、なんだ。この人の言うことは。……本気で、そう思ってくれてるんだ。
なんだか、むず痒いような気持ちだ。褒められることなど滅多に無かったからか。
「まあこれでは、嫁の貰い手は無いだろうなあ」
笑顔。だが真剣な目。
──……この人の言うことは、すべて“本音”……。
小夜子はがくりと肩を落とした。
──本当にこの人は、天国と地獄を往復させてくれる。
だが、それも彼なりの優しさなのだろうか。もしくは、嘘を吐くのが嫌いか、下手かのどちらか。
「まだ、夏休みなんだよな?」
「あ……はい。でも二週間後には、担任の先生の所に挨拶に行かないといけません」
新しい学校。転入するのなんて初めてだ。友達はできるだろうか。こんな自分を周りは受け入れてくれるのだろうか──。不安の波はまたも押し寄せて、止まる気配を見せない。
「明日も店番をやってもらう。心配なら、その後でいいぞ」
「……はい」
──ああ、やっぱりこの人……。人の心、読めるんじゃないかな。
小夜子の疑念とは裏腹に、奏一郎は続ける。
「人に店を手伝ってもらうのは、君が初めてだ。期待、しているぞ?」
それだけ言って、優しく笑う。
期待など今までにされたことがあっただろうか。……なかったように、思う。
重くのしかかるはずのその言葉も、なぜ奏一郎が口にすると、こんなにも“嬉しい”に容易く変わってくれるんだろう。
「……がんばります」
躊躇いがちなれど、微笑みを返す。『がんばる』と言うのが、こんなに気楽なのは初めてだった。
そして──翌日、事件は起こる。
〈第二章:であうひと 終〉