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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十章:かわるもの ―霜月― 其の十参

* * *


 先ほどよりも少しだけ人通りの少なくなった廊下は、当然のことながら先ほどよりも閑静な佇まいをしている。将棋の駒を指す音、そして将棋部に隣接した畳の上では、碁石と碁盤の出会う不規則な音が奏でられていた。

 そこには部員以外に、どう見ても学生ではない大人が二人。


「……だから、ここに打つと反則になるんだ。わかるか?」

「ああ……」


 碁盤を指し、橘が検討を始める。だが教えられている立場のはずの奏一郎は薄ら返事をするだけで、ぼーっと窓を見上げていた。心ここにあらずといった調子だ。先ほどまでは橘の説明に頷いたり、相槌を打ったりしていたのに、糸が切れたように、突然に。

 集中力が切れたのか? と思い、

「……聴いてるか? 奏一郎」

 聴いていないだろうな、と思いつつそんなことを尋ねてみる。すると、

「え、ああ。途中からあまり聴いていなかったかもしれない。すまないな」

 さらりと当然のように、しかも真顔でそう言われてしまっては、もはや怒る気も削がれるというものだ。そこまではっきり肯定されるといっそ清々しい。


「……いつになくぼーっとしているな、おまえ」

「そうか? 僕は昼間、何をするでもなくぼーっとしているんだがな」

 そう返すと、奏一郎は再び空を見る。橘もその目につられ、同様に窓を見上げるけれど――そこには何も無い。乾いた空が、乾いた雲が、薄らと広がっているだけ。


瑞雲(ずいうん)、という言葉を知っているか? たちのきくん」


 突然尋ねられると、答えはぱっと出てこないものだ。


「瑞雲? ……ああ、たしか……吉兆とされる雲、だったか?」


 奏一郎がこくん、と頷く。視線は、まだ空にまっすぐに向けられている。

「こんな晴れた日は、瑞雲を目にできるものなんだが……今日はどうやら、出てきてくれないらしい」

「“今日は”って……おまえ、いつも見てるのか」

「ああ。天気にもよるが見逃したことは無い」

 ――……相当の暇人なんだな、こいつ。そして、なんておめでたいやつだ。


 そうは思っても、何せ奏一郎の目が真剣なので橘は何も言えない。普段はへらへらと笑うことも多い奏一郎だが――……今の彼は紛れも無く、真剣な眼差しをしている。まるで瑞雲の無いこの空を、恐れているみたいに。


「……ずいぶんと信心深いんだな……瑞雲が見えないって、そんなに心配することなのか?」

 毎朝のニュースの合間に流れる星占いランキングの結果で、一喜一憂するタイプには見えないのだが……。そんなことを考えていると、ふっと碧い目がこちらに向けられる。


 橘は密かに理解した。

 そう、この瞬間が怖いのだ、と。何もかも見透かせてしまえそうなこの目が、余計に奏一郎を恐怖の対象にさせてきたのだ、と。 


 だが次の瞬間に現れたのは、恐怖とは縁遠そうな笑顔。そして、それにそぐわぬ冷たい台詞だった。


「“いつも”が突き崩されるのって存外、あっという間で怖いことだぞ? たちのきくん」


 なぜ、彼の口が閉ざされるのと同時に鳥肌が走ったのか――それは、橘もその言葉に、覚えがあったからだ。

 簡単に、あっという間に、日常は変わっていく。何かが積もり積もって、じゃなくても。突然に、積み重ねてきたものを壊す出来事だって、それはしかも突然に、降りかかってくるときだってあるのだ――。


 その時だった。橘の携帯電話が、親友からの着信を知らせたのは。


「……桐谷だ」

 そう呟くと、橘は立ち上がり畳から下りて、携帯電話を耳に当てる。その間にも奏一郎は碁石を見つめると、(けやき)でできた碁笥(ごけ)の中へと一つずつ、橘の白石の分も丁寧に戻していった。そろそろ、劇の観客席へと向かおうと。


 しかし、

「……桐谷。わかりやすく、もう一度言ってみろ」

 橘の冷静な声が、奏一郎の手を止める。冷静というより、どちらかというと緊迫めいた声。反して、橘の電話の相手はいつもと同じトーンだ。


《だからー、さよさよが消えたんだって。主役の女の子も一緒に……。だからさ。捜そー?》

「……は? いや、待て。意味がわからないぞ」


 ――なんだ? その“暇だからさ。遊ぼー?”みたいなノリは。


 橘の疑問をよそに、桐谷は再び口を開く。


《なんか、突然消えちゃったんだって。二人で。劇ももうすぐ始まんのにこの緊急事態だからね。妹のピンチだし、さよさよのピンチだし、女子高生のピンチだしね。これ、捜さないわけにはいかないよね》

「……おまえの説明、わかりにくいな。……まあいい。手分けして捜して、見つかったら連絡し合おう」


 口早にそれだけ言って電話を切ると、橘は少し頭を抱えだす。この親友の口調で“緊急事態”と言われても、どうにも緊急の度合いがわからないのだ。


 だが桐谷が、あの桐谷がいつもよりも早口で話しているからには 、あのマイペースを売りにしているような桐谷が“緊急事態”と言っているからには、相当のものなのかもしれない。そもそもの話、人というのはそう簡単に消えるものでもないだろう。

 ――……何が起きているんだ。


「どうしたんだ? たちのきくん」

 振り返ると、奏一郎はきょとんとした表情を浮かべていた。緊急の度合いもよくわからないのに、事を大きくするのは得策ではない。

 ――……俺と……こいつとあいつの三人で捜すのが一番いいか。


「……奏一郎。俺にもまだよくわからないが、おまえの下宿生が、同じクラスの女子と姿を消したようだ。桐谷が校内を捜してくれている。俺らも捜しに行くぞ」

「…………」

 彼は黙ったまま、数回瞼を瞬かせる。まあそうだろうな、自分だって理解しきれていないんだから、と橘も思う。だが、もしかしたら、彼女たちは危険な目に遭っているのかもしれない。

「急げ、奏一郎」

「……たちのきくん、先に行っててくれないか? 僕はこれ、片付けてから行くよ」

 まだ碁盤の上にある碁を指差してそう言うと、碧い目を男は細めた。こんなときでも穏やかに笑っていられるその神経が、橘は少しだけ羨ましい。


「……ああ、わかった。見つかったにせよそうでないにせよ、劇の直前には体育館に集合することにしよう。どうせおまえ、携帯電話持ってないんだろ」

「ああ。僕の配慮までどうもありがとうな」


* * *


 走り去っていく橘の背中を視界の隅で確認しつつも、碁石を一つ一つ、欠けないようにゆっくりと碁笥の中に入れていく。しかしその間にも、奏一郎は考える。一つ腑に落ちないことがあるのだ。


 わからないのだ。

 なぜ、そうまでして急ぐ必要があるのか。


 そして、

「……なんであの二人が、そこまで必死になるんだろう」

 そう、ぽつりと言葉を落とした。


 桐谷は妹がクラスにいるから無関係ではない。だから彼はいいとしても、小夜子とは知り合ってそう時が経っていない橘が、なぜ必死になるんだろう。他人のために、動けるのだろう。得なんてしないだろうに。

 親友のためか? 親友の妹のためか?


 そして、できることなら辿り着きたくない答え。


 ……或いは“優しさ”か、“良心”か。


 思わず、手のひらにあるものをぎゅっと握り締めてしまう。だが醜い感情は、掌中でなく常に胸中にあって。どんなにこの手のひらを傷つけようが、その中にあるものを滅茶苦茶にしようが、この感情は消えてはくれないのだろう。


 この心は、消えてくれない。


 嬉しいはずなのだ、それが……本来であれば。人間らしい感情の一つ。人間なら誰もが抱くその想い。

 だから――……自分には無かったはずの、その想い。いつ芽生えたのか。今までに出会った誰かの心に小さく紛れ込んでいた感情の種が育っていって、たった今咲き誇れたのか、それはわからないけれど。

 とにかくこの体を焼き尽くす準備を始めたみたいに、燻ったものが小さな焔を創り出そうとしているのは確かな感覚なのだ。

「……面倒な心を、貰ってしまったものだ」


 そして一つ、既に欠けてしまった黒石を手に取った瞬間に――左手の碁笥から音を立てて、碁石がばら撒かれた。奏一郎が誤って、落としてしまったのだ。

 そして次の瞬間には、彼の頭の中に一瞬だけ。

 自分の抱くそれと酷似した醜い感情が、彼の胸を貫いた――。


「……さよが……危ない……」


 誰にも聞き取られなかったその声は、雑踏と喧騒に掻き消され、まるで、この廊下に響くのを認められなかったかのよう。ふらりと立ち上がった彼は、先ほどまでの笑顔など持ち合わせてはおらず。

 燻ったものとはまた別の、ひどい熱を持った炎だけを携えて、ゆっくりと、だが確かな足取りで、彼はその場から姿を消した。彼を見送ったのは、ばらけた黒石の雪崩だけ。


* * *


 壁に背中を預けたように座り込む芽衣に、小夜子は怪訝な表情をする。なぜ彼女はこんなところにいるのか。嫌がらせの犯人に会いに行くのでなかったならば、なぜこんなところに来たのだろう。


「……あのー……楠木さん」

 恐る恐る話しかけてみると、鋭利な鉛筆の先端をさらに鋏で尖らせたような、鋭い目つきがこちらに向けられる。

「ひっ……」

 思わず漏れるのは単純な悲鳴。蛇に睨まれた蛙の気持ちを、たった今小夜子は知ったのだ。先ほどの小窓から漏れる淡い光のみがこの場を照らしてくれている。にもかかわらず、彼女の眼光だけは暗闇でもはっきりと見て取れたのだった。

 小夜子が何も言えず口をぱくぱくさせているのを見て、彼女は折った膝の天辺に視線を落とした。否、たまたま視線を落としたらそことぶつかった、という感じだ。それのせいで、長い前髪で隠れた右目どころか、左目さえも今は見えていない。


 おずおず、といった調子で傍らに腰掛けるも、彼女は微動だにしない。話しかけて鋭い視線を浴びせられるくらいなら黙っていたほうがまし、と思うけれど、何の物音もしないこの空間はあまりに静かで、耳からキーンという音が聴こえてきそうだ。やはり、何か話したほうがいいのだろうか。自分たちには、時間が無いのだ。付け加えるならばこの空気の重さに、芽衣から発せられる無言の圧力に、そろそろ耐えられそうにない。

 思わず、濃紫の袴を掴んだ手にも力が入る。


「……あ、あの、楠木さん?」

「何度も呼ぶな。何」

 意外にあっさり応えてくれたが、声の凄みは今までのそれの比ではなかった。ドスが効いているというか、女の子の声とは思えない、それほどまでに低い声。

「あの、ここから早く出ないと、劇のリハーサルに間に合わないんじゃないかな……?」

 なんて弱い言い方だ、と自己嫌悪に陥る小夜子だったが、次の芽衣が落とした言葉に、彼女は身を固まらせることになる。


「リハどころか本番にも出られないっての。このままじゃ」

「……え?」


 ――……『本番にも出られない』? ……何を言ってるんだろう。


「……えーっと、うん。だから、出ようよ」

「……っ! ……こん……の、馬鹿っ!」

 小夜子のその純粋な気持ちから溢れ出た一言に業を煮やしたのか、ついに我慢できなくなった芽衣がキッと、その目をさらに鋭くさせた。額にははっきりと青筋が浮かんでいる。

「だからっ! 出られないんだっての! 今、ここに、閉じ込められてんだから!」

「と、閉じ込め……っ?」

 芽衣の言葉に、というより剣幕に鳥肌が立つ。普段クールな人間が見せる険しい表情というのは、形容しがたい恐怖心を煽ってくれる。彼女の気迫に、場の埃も舞う。

「そうだよ! さっきからあんた誤解しているようだけど、私はサボるつもりなんか毛頭無いんだよ! 私は手紙で嫌がらせの張本人に呼びつけられて、それでここにいんの!」

「え、あ、そうなんだ、やっぱり!」


 ――……そっか。皆に対する裏切りとかじゃなくて、嫌がらせの犯人に呼ばれて、仕方なくだったんだ……。


「そっか。よかったぁ……」

「“よかった”!? 頭大丈夫、あんた!? いい!? ここに閉じ込められてるってことは、劇にも必然的に間に合わないんだよ! 今の話、ひとっつも“よかった”要素なんて無いんだからね!?」

「え、あ。…………うわっ! そっか、そうだった!」

 事の重大さを理解したのか、小夜子は目を丸くして、今更焦燥に満ちた顔を見せる。物事の理解力が芽衣よりも三分ほど遅れている……。芽衣はよりにもよって“この馬鹿”が自分を助けに来たことに絶望したような顔をした。


「だ、誰か呼ばないと! 誰かー! いませんかーっ!?」

 声を張ることなどできなくても、出口から外に向けての声くらいなら……と、小夜子は精一杯、扉に向かって自分に張れるだけの声を張った。しかし芽衣は、怒りを発散させたおかげか先ほどよりも落ち着いていて。それでいて、呆れた声を続けた。


「“誰か”は、いるんだよ。さっきからそこに」

 頭をがしがしと掻くと、彼女は髪紐を解いて、再度、今度は高い位置に結びなおした。うざったそうに、毛先についた埃をはたいている。


「……“誰か”……って……誰?」

 ある程度予想はついているけれど、一応訊いてみる小夜子。だが、一番聞きたくない、この世で最も絶望的な答えが芽衣の口から放たれる。


「……嫌がらせの張本人。名前なんか言っても、あんたは知らないだろうけどね。あんたの馬鹿な発言も、聞き耳立ててご丁寧に聴いてくれてんじゃない?」


 皮肉たっぷりのその発言が放たれた途端に、場に緊張が走った。小夜子も思わず、固く閉ざされた扉に視線を送ってしまう。


 ――……この、奥に。


 いるのだ。人を、あそこまで憎める人物が――……。


「……はは。あっはっはっは……」

 間を置いて、愉快そうな高笑いが耳元を通過していく。本当だ。人がいる……。この状況に笑い声というのは極めて不似合いで、ひどく不気味に思わせてくれる――。


「ほんっと、よかったね、これで心細い想いしなくて済むじゃない……っ」

 笑いを精一杯抑えた声は、やたら甲高くて、張りがあって。運動部にぴったりな声だなぁ、なんて、頭の片隅で小夜子は思った。

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