第十章:かわるもの ―霜月― 其の十弐
だがその声に――否、その声を冷静に受け止められている自分自身に、芽衣は驚く。もう少し、自分はショックを受けると思っていたのに。
今、彼女の表情を形容するに、“笑顔”以外はあり得ない。
絶望にも、希望にも似た笑み。ひどく歪んだ、諦観に満ちた笑みだ。
「……っはは……やっぱり、梢かよ」
口から自然に漏れ出た声は“笑い声”だ。もちろん、カマをかけたわけでも何でもない。自分は知っていた。確信に近い形で、ずっと彼女を疑っていた。
答え合わせを、してこなかっただけだ。
自分が導き出した答えが正解だったことに喜びを感じるのは、至極当たり前のことなのかもしれなかった。たとえ、それが歪な形だったとしても。
左手に潰されたままの手紙が、ぐしゃりと音を立てる。
「こんな手紙で私を誘い出しておいて、軟禁なんてね。“話がある”んじゃなかったのかよ」
なるべく冷静な口吻でそう切り出す。すると相手は、せせら笑うような口調でこう返してきた。
「そうやって誘わないと、あんた来ないかなー、と思ってね。別に、私はあんたと話なんか無いよ」
「そう」
お互いに、声は冷静だ。声だけは、冷静だった。
冷や汗が背中を伝う。それに芽衣は気づかないフリをして、そのまま口を開く。無駄だと思っても、今の自分にはそれしかできないのだから。
「私もあんたに話なんか無い。あんたとこんな所で監禁ごっこしてる暇も無いしね。……さっさとここを開けな」
どこで彼女が手に入れたかは知らないし興味も無いが、外側から鍵がかかっていることは既に確認済みだ。罠に嵌った、という言い方もできるが、何かしらの罠があることは元より承知だった。ただ、自分には時間が無かった。この手紙の言いなりになる道しか残されていなかったほど、自分には時間が無かった。
そして時間が無いのは、今も同じだ。
だが罠に嵌りに行くしかなかった先ほどまでと違うのは、相手が梢だと確定した今、チャンスが生まれつつあるということ。彼女のことを一番によく知っているのは、おそらく学校中を捜しても、きっと自分だろう。現に皮肉なことに、自分は今、本性さえも目の当たりにして、さらには自らの体で以って思い知らされているのだから。
梢は、はっと一笑してから緩んだ口を開く。
「あんたってさ、やっぱ馬鹿だね。あんたの言うことなんて、聞くわけないじゃん」
梢の自分を小馬鹿にしたような台詞に、芽衣はまたも不敵な笑みを漏らした。こいつ、全然変わってない、と。
自分もたいがい性格が悪いよな、と自嘲しながら、芽衣は口を開く。
「はは……。何言ってんの? 昔は私の言うこと、何でも従ってたくせにさあ」
その声が響いた瞬間、余裕の気配を滲ませていた梢の空気が――瞬時に憤怒へと一変したのを、肌で感じた。
これでいい。これでいいのだ。好都合。余裕の空気は、もはや芽衣の物になりつつある。
――そう、そのまま、怒りに身を任せるといい。凶器でも何でも取り出せばいい。逃げ出せてしまえばこちらの勝ち。冷静さを失って、この扉を開けるほうが負けなんだから。
芽衣は余裕の笑みを携えた。そして、助走をつけるために扉から少し離れて距離を取る。あまり扉の近くにいては、相手が扉を開けたときにすぐには逃げ出せないからだ。相手が凶器を持っていようが、隙をついて逃げられたならそれでいい。走りには自信がある。
少なくとも、相手よりは。
怒りに震えた静かな声が、芽衣の耳元を掠める。静かなはずのそれは不思議と、扉越しであるにも関わらずはっきりと耳に焼きついた――。
「……あんた、むかつくんだよ。いっつも偉そうで……私のこと、馬鹿にしてさぁ……!」
よくぞそこまで人を恨めるものだ……と、だがそこまでの人物にさせてしまったのも自分なんだよなと、思ったのと同時に芽衣は笑った。
何故なら扉の向こうで、金属の擦れあう音がしたから。
――……は、やっぱり持ってるよ、こいつ。この音の感じだと、鋏……か。ナイフなんてもの、持ってくるわけないか、さすがに。
臆病者ほど尖った物に縋るもんだ、と嘲笑ってしまう。そしてよく考えない者は、策士の言葉にまんまと引っかかり、自滅の道を踏むのだ。
そう現に、扉の鍵を、梢は外そうとしているじゃないか――。
芽衣が右足に重心を置き、逃げの姿勢を取り始めた、まさにそのとき。
「楠木さん!」
「……!?」
歓喜に満ちた声が、頭上を――そう、なぜか、頭上を横切った。そしてそれと同時に走り抜ける、底無し沼並みに嫌な予感に、芽衣は眩暈を起こしそうになる。
恐る恐る、声のする方を見ると――……その予感は残念ながら的中する。二階分に相当する高さの小窓から、クラスでよく見る顔が覗いていたのだ。
「あ、楠木さんだ、やっぱり!」
嬉しそうな声色に、それに比例した嬉しそうな顔を輝かせた、萩尾 小夜子がそこにいた。
芽衣は予期せぬ人物の登場に、その身を固まらせた。目的の人物が見つかって嬉しそうな顔を窓から覗かせる小夜子の姿は、今までの人生でも一番の衝撃かもしれなかった。
――なんで? なんで彼女がここにいる? むしろどうやってそこまで上った? なんて最悪のタイミングで出てきてくれたんだ、この女はっ!?
「……あ、んた、なに……してんの、そこで」
「いや、楠木さんを捜しに……。そんなところにいないで、早く体育館に行こ!」
――……あんたに言われなくても今行こうとしてたわこの馬鹿……っ!
そう言おうと口を開いたとき、芽衣ははっと我に返り、扉の向こうの相手の様子を伺った――。
どうやら梢も想定外の乱入者の登場に、少々戸惑っている様子だ。張り詰めた空気は扉越しでも伝わってくる。しかし芽衣にとっては絶望的なことに、どうやらドアノブの鍵にかけていた手を、梢は離してしまったようだ……。
しかし、それでも芽衣は一つ目の希望を失ったに過ぎない。なぜ小夜子がここに来たのか、どうやって上ったのかなんて、そんなことは今はどうでもいい。外部との連絡が取れるだけ、ありがたく思わなければ――。
と、無理やり前向きなほうへと芽衣は思考を持っていく。しかしその前向きな思考も、まさかの二つ目の希望によって裏切られることになる。
「い、今からそっちに行くね!」
事もあろうに、窓を自ら開くと、小夜子がずいと身を乗り出してきたのだ。袴の利点は着物よりも動きやすいことにあるのだろうが、今の芽衣からしたらそれすらもありがた迷惑だ――。
「ば……馬鹿! 降りてくんなっ……!」
と、珍しく焦りの色を見せたところで、言い終わる前になんと“この馬鹿”は、自分の目の前に無事に着地してしまった。平時の彼女であれば、こういうときは着地しようにも失敗するか、着地する前に何かしらのトラブルを起こして結局飛び降りることすらかなわないと言うのに。
――なんでこんなときに限って、飛び降りに成功しちゃうんだよこの女。
「く、楠木さん、こんなところにいないで、早く練習に戻らないと!」
必死な形相でそう交渉しだした目の前の“この女”に、もはや怒る気力もとうに潰えた。彼女は必死なのだ。彼女なりに、必死なのだ……そうわかっていても、文句の一つも漏れ出してしまう。いや、これくらい言ってもいいだろう。
「……なんで来ちゃうんだよ……まじ、この馬鹿」
吐き出すようにそう言って膝を曲げると、芽衣は激しく項垂れた。一方の小夜子は大量のクエスチョンマークを浮かべている。自分がサボりのためにここにいると思ったのか? そんな彼女に再び激しくイラっとするも、もう何も言えない。
ただ、とりあえず、教えてやろうと。頭に叩き込んでやろうと強く思ったのだった。
自分がここに来た経緯も、なぜここに閉じ込められているかも。
特に、もはや2-Aの劇には到底間に合いそうにないことを――。
* * *
体育館が、なにやら騒がしい。いくら眠くても、いくら外だとしても、いくら桐谷でもそれくらいはわかる。
「ふあ~ぁ」
大きな口を堂々と開けて欠伸をすると、目尻に溜まった涙をパーカーの袖で拭う。深緑のそれがより濃い色に滲んだところで、ちょうど体育館の入り口に辿り着いた。
中は薄暗く、劇の準備のために照明の調整をしている――ようなのだが、どうも様子がおかしい。
2-Aの諸君らの表情がやたら焦っているのだ。まだ観客も入ってきていないからこそ許される声のボリューム。その中でも、一番聴き慣れた声がまっすぐに鼓膜に響いた。
「……っだあ~! もう! どこに行ったんだぁ~っ!」
体育館の入り口にいても、己の妹の声が、まさかのステージ側から一番の音量で届き始めた。元気なのはいいことだ、うんうん。そうゆっくり頷いてから、妹の叫びの意味を考える。
――……静音、困ってるっぽい?
そう思うやいなや、まっすぐステージへと向かう。パイプ椅子を整列させたり、その途中で散乱物を拾っていたりする女子からの視線をいただきまくりだが、今はそんなことはどうでもいい。ステージ横の扉を急いで開けると、大道具を運んでいる最中の男子たちと目が合う。突然の見知らぬ男の登場に、
「うわっ! 誰だあんた!」
男子たちが当然のようにビクつく。
変質者だとでも思われたのだろうか……、と桐谷は首を傾げるが、実際は違う。男同士、理屈抜きに本能でわかるのだ。相手が危険な存在か、否か。
「あー……静音、いる? 俺、兄。あいつ、妹……」
「え、ああ、いますよ。今ちょっと暴れてるんですけど……」
一人、冷静な日下が代表として応対する。
「呼んできましょうか? ちょっとそこで待っててください」
「ああ。いいや。自分で行くー……」
それだけ言って、桐谷はさっさと奥の部屋へと進んだ。
そこには頭を抱えてのた打ち回る妹と、それを取り囲むようにした数人の女子の姿。
「なんで小夜子まで消えんの……っ! っも~意味わかんないっ!」
「落ち着け静音! あと十分! あと十分待とうよ~!」
涙目になりつつ髪をばさばさと掻き乱す妹の姿には、感極まるものがある……。それを取り押さえている女子たちもさぞや大変な想いをしていることだろう、と桐谷は同情しつつ暫し静観していた。
――……“さよさよが消えた”? 何が起きてんだろ、いったい。
「静音……どした?」
自分の声に一瞬体をぴくりとさせると、すぐさま静音はこちらに振り返ってきた。
「……お兄ちゃん!?」
そう言って、充血しかけている涙目同様に、顔を赤らませる。こういう反応は正直とても可愛く感じてしまう桐谷なのだが、それもあくまで“兄として”の気持ちなのだった。
「おお……珍しく涙目じゃん。どーかしたん?」
「う、うん……」
空気を読んでくれたのか、女子たちが静音から離れて、男子たちの手伝いに向かった。とりあえず落ち着くよう桐谷に言い宥められた彼女は、ゆっくりとだが説明し始める。
「あ、あのね、楠木って主役の子が急に消えて、小夜子が捜しに行ったの。でも、リハの時間になっても一向に帰ってこないし、おかしいなって思っても連絡も無いし、もう劇まで時間も無いし、どうしたらいいのかわかんなくなっちゃって……っ」
それだけ言って、彼女は俯いてしまった。性格上、涙を見せたくないのかもしれないな、とその姿を見てぼんやり思う。
しかし、たしかに妙な話だ、とも思う。
たとえ“楠木”という女子を見つけられなかったにせよ、「どこを捜してもいなかった」と報告しに帰ってくるはずだ。それが二人諸共帰ってこないということは。
――……何か、あったんだな。
そう勘繰っていても、今ここにいては何もできない。静音の涙を止めてやることは、今ここにいては不可能だろう。
ならば簡単。それを可能にするために、自分にできることをやればいい話だ。
「静音ー」
「……なによ」
拗ねたような、素直とは言い難い涙が混ざった声。
「とりあえず静音はさ……クラスで頼られてるみたいだし。友達が心配で劇が不安なのもわかるけど、そんなときこそ静音の存在って必要なんじゃん?」
「ふぇ?」
素っ頓狂な声を出す静音。それでも、桐谷は言葉を続ける。
「俺がさよさよ捜しに行くからさー……。静音はここで皆を引っ張ってあげんしゃい」
そう提案すると、ぱっと顔を上げる妹。予想通り目は潤みきっているし、眉は困り果てたように八の字になっている。
「だ、だめだよ! お兄ちゃんには関係ないじゃん! こ、今度は私が捜しに行けばいいん」
「だめー」
言い終わる前に、すぱんとダメ出ししておく。多少の脅し文句を使っても構わないだろう。
「いいの? 『そして誰もいなくなった』的展開になっても……?」
「うっ……!」
静音が後ずさる。
そんな現象が起こること自体少ないけれど、今それが現実に起こりつつあるのだから仕方ない。
「で……でもお兄ちゃんはお客様として来てんのに。私、楽しんでもらいたくて来てもらってんのに……」
小声でそう漏らして、唇を噛む彼女。ああ、それが本音なんだなと思うと、少しだけ嬉しく感じる。
お礼の意味も込めて静音の頭の上にぽんと手を乗せると、彼女はまるで声を失ったように押し黙る。小さいときから変わらない、妹の癖を桐谷はまだ覚えていた。
「静音、よく覚えときなね? 兄ってのはいつだって、妹のために生きてんです」
まだ潤いが満ち溢れていて、いつ決壊するかわからないその涙目を、パーカーの袖で拭ってやる。目線を合わせると、妹が少しだけ恥ずかしそうに伏し目がちになるのは、いつの頃からだったか……今は考えないでおこうと心に誓った。
「待っててねー。あ、特等席三つ、取っといてねー」
さりげなく難しい注文をしておく。しかし、静音ならできるよねー? と付け足すと、彼女も大いに頭を振った。
「最っ高の席、用意して待ってるから」
自分で涙を拭って、そう言って笑ってみせる静音に、桐谷もほっと胸を撫で下ろす。こういう強い面があるのは、兄から見ても頼りがいのあるというもの。
二人をお願いね、と言葉を託され、桐谷は体育館を出た。
現在、十二時二十分。本番は十三時から。
しかしこういうときに頼れる相手が自分にはいることも、もちろん彼は忘れていない。
アドレス帳の“最高の友”欄を検索して、一番上に載っている名前の人物に早急に電話をかける。
ちなみにその名は“最高の友”欄の一番上にして一番下。
つまりその欄には、“橘 恭也”の名しか無いのだった。




