第十章:かわるもの ―霜月― 其の十壱
それだけ言って、小夜子は慣れない袴を身にまといつつ、体育館から飛び出していった。
背後から自分の名を呼ばれた気がしたけれど――立ち止まりは、しなかった。
すれ違う人々が好奇の目を小夜子に送るも、やがては体と同じ方向にその顔を戻していく。
走っても走ってもその繰り返しで、いっこうに、肝心の人物は姿を見せない。尋常でない人波はまるで、小夜子を彼女の元へと行かせないようにしているように錯覚してしまう。
まったく、どうしてこうも人が多いのか――。先ほどまで食欲を刺激してくれていた出し物の匂いさえ、今ではうまいこと焦燥感を刺激してくれている。
――あんな目立つ格好をしていれば、すぐにでも見つかりそうなものなのに……!
……っそうだ、聞き込み!
隣のクラスではシュークリームを販売しているらしく、女子二人がエプロンを着こんで、営業スマイルを浮かべつつ接客をしている。客がいなくなったその間にはその営業スマイルも薄れ、女子特有の弾丸トークが始まるのだ。
「ねー。さっきね、着物の男の人が来て、シュークリーム三つ買ってってくれたんだけどさ。その人の頭ね、白髪だったの~! すごくない!?」
「え、何がすごいの? おじいさんでしょ?」
「違うって! 若いんだって! 若いのに白髪だったの!」
なんだか、とても身に覚えのある人物についての会話をしているのだが……それはさて置き、小夜子はその二人に、多少の緊張感を覚えつつも話しかけた。
「あ、あのっ」
「あ、はいっ! シュークリーム、お一つでよろしいでしょうか?」
途端に笑顔になれるあたり、営業の鑑だろうか。そんなことを思いつつ、
「私のクラスの楠木さん、見ませんでしたか!?」
そう大声で尋ねてみる。
一瞬目をぱちくりさせた後、二人のうち右側にいた女子が、
「あ。み、見たよ」
と、若干小夜子に圧され気味の声で答えた。
「ど、どこで見ましたか!?」
「どこって……。えっと、ここで接客してたら。この廊下をまっすぐ行ってから、左に走ってくのが見えたよ。目立つ衣装だったし、楠木さん背高いからすぐにわかったよ」
身振り手振りを添えて、丁寧に説明してくれる彼女。後でここのシュークリームを買ってあげよう……小夜子は密かにそう思った。
「そ、そうですか! ありがとうございます!」
深々とお辞儀した後、急いで芽衣の辿ったのであろう跡を追う。順調に行けば、直に彼女に辿り着くはずだ。
走りながら、考える。
なぜ彼女が出て行ってしまったのか。……やはり、嫌がらせの犯人にでも呼び出されたのだろうか。
しかしそうだとしたら何故、彼女は犯人に会いに行ったのだろうか。劇の前に、誰にも告げずして会わなければならない用事というわけでもないだろう。
そう、思う。思うけれど。
――……楠木さんには……そんなことを言う相手もいないんだ。
自分は、静音にちゃんと宣言してから芽衣を捜しに来た。だけど、芽衣は。誰にも告げずして、ではなく。
彼女には――そんなことを告げる相手が、いなかったのだ。
もしかしたら、嫌がらせのことを、誰にも言わなかったのも。言わないのではなく。
言う相手が、いなかったから?
そこまで考えて、小夜子は頭を振る。違う、と。少なくとも、それだけではない、と。自分に言い聞かせる。
自分には、わかる。何故、彼女が誰にも何も言わないのか。頼ろうと、しないのか。わかるのだ。
わかる、けれど。今はとにかく、手当たり次第に声をかけ続けるのみ。
「あの、何て言うのか、こう……背が高くて、黒髪で低い位置でポニーテールしてて、騎士の格好している綺麗な人、見ませんでしたか!?」
校内の人間であれば芽衣の名を出せばわかってくれるかもしれないが、一般客だと容姿の説明に時間がかかって仕方ない。
が、
「ああ、見たよ」
「ど、どこでですか!?」
芽衣はやはり、人波に紛れていようと容姿なり背格好なりで目立つらしく、特徴を述べればだいたいの人が口を揃えて「見た」という。やたらと街中での芸能人の目撃情報が多いわけが、なんとなく小夜子にはわかった気がした。
* * *
「ふあ~ぁ……」
「おや、眠いのか?」
秋の陽光麗らかな休日の午後、とくれば食欲、そして次には睡眠欲が勝るだろう。桐谷は呂律の回らない口で、堂々とそう宣言する。
「そうか、そんなものかぁ」
にっこりと微笑んで、こっくりを始めた彼に奏一郎は柔らかく微笑んだ。何とも穏やかな時間だ。二人とも、今より五十は歳をくった老人のような出で立ち。
「……おい、桐谷。そんなところで寝るな」
電話を終えたらしい橘が、閉じた携帯電話片手にそう注意した。彼の命令にぱちっと目を開くと、桐谷は今にも消え入りそうな声でこう呟く。
「んー……。じゃぁそろそろ、席確保しに行くかなぁ……」
「最前列か?」
橘の問いにこくん、と頷いて、
「モチのロンです……。妹の勇姿、この目にきちっと焼き付けねばね……」
そう言ってふらふらと立ち上がる。
妹の想いに応えてあげられない分の、兄からのせめてもの優しさなのだろうか……と、橘は若干感傷的に思えたが、やはり細かいところまでツッコんでおかなければ気が済まない。
「“勇姿”って……せめて“晴れ姿”って言ってやれ」
そう桐谷から言ってやれば、“勇姿”よりは静音も喜ぶだろう。そう思っての、橘なりの気遣いだ。
「合点承知でーす……」
それだけ言って、体育館へと桐谷は覚束無い足取りで歩いていった。今にも倒れそうな後姿なのだが、奏一郎も橘も、別段心配そうな顔はしない。奏一郎にいたっては、笑みを携えてさえいる。
「彼っていつも“ああ”なのか?」
薄い笑みを浮かべ、奏一郎はふわふわと風に揺れる路考茶の髪を見送った。枯れ葉舞う景色に、彼の髪色はやたらに似合う。
「いつも“ああ”だ。食後は大概眠くなって、好きな所で寝る。だから俺は、あいつを飯時に招待しない。お前も気をつけろよ。過去に一度俺の家であいつと飲み会をしたら、大変なことになったんだからな」
簡潔に言ってしまえば、酒に弱い桐谷は簡単に酔っ払い、それからものの五分で見事にリビングを滅茶苦茶にしたのだった。しかも、橘のベッドを占領したままで。ソファで寝るのを嫌いになったのはその日からだ。
「はは、それはそれは。彼を招待するときは、酒でもてなすのは止さねばならないな」
奏一郎も桐谷に続いて立ち上がると、
「さて、たちのきくん。まだ劇まで時間もあるし、僕に囲碁を教えてくれないか?」
そう言って微笑んだ。反して、橘は目を丸くする。
「別に構わないが……おまえ、やったことないのか」
「残念ながら、将棋盤はあれど碁盤は持ってなくてな」
橘からすれば、意外な事実だった。そもそも、奏一郎に何か物を教える日が来るとも、彼は思っていなかったのだ。
そんなことを思っていると、当の本人が顔を覗き込んでくる。
「君から教わることなら幾らでもあるぞ? たちのきくん。既にたくさん教わりすぎて、何で返したらいいかわからないくらいだ」
こいつ、読心術でも心得ているのだろうか……と。橘の疑りの目に、再び彼はにっこり笑う。
「将棋部と隣接したところに囲碁部の碁会所があったな。食欲や読書もいいが、運動の秋に興じるとしよう」
「お前に『運動』って単語は、果てしなく似合わないな……」
思ったことをそのまま口にすると、奏一郎が不満げな顔をする。
「そんなことないぞ。他はどうだか知らないが、鞠は得意なんだ、僕は」
その子供じみた反論に、橘は別の意味で黙らされることになる。
――……鞠なんてしたことないぞ、俺は。
いや、自分以外の人はしたことがあるのだろうか。もしかしたら自分がしたことがないだけで、鞠で遊ぶのは常識なんだろうか……。いや、そもそも、鞠ってスポーツなんだろうか……。
真面目な橘は、奏一郎の一言でこんなにも脳みその細胞を働かさねばならない。これだから彼は苦労性なのだ。ちなみに本人にその自覚は無い。
しかし同時に、彼はこうも思う。
自分にとっての常識は、この男には通用しないのだと。それはつまり、彼にとっての自分にも言えることなのだろう、と。
橘がそんなことを考えている間にも、奏一郎は校舎へと既に足を進めていた。
彼の背中を追うようにして、朽ち葉が風に流れ始める。かさかさ、と乾いた音を立てながら。
「……と言っても、一人で鞠で遊んでも、寂しさが募るだけと言うか、な。……そんな記憶があってな」
まるで枯れ葉に告げようとするかのように、静かに言葉をこぼす彼。その言葉を紡ぎだす口は、緩い曲線を作り上げる。踊る枯れ葉を見つめる、その碧の目はまっすぐで――。
そんな彼の姿は、寂しそう、と言うより。それとは、少しかけ離れて。
「今では、鞠は大嫌いだ」
拒絶しているようにすら、見えた。
* * *
煩わしいまでの人の気配がだんだんと、背中から離れていく感覚が漂う。その気配も、今では完全に――……消えた。
「…………」
体育館第三倉庫。もう誰の記憶からも忘れ去られたような小さな小屋が、自分を待ち構えているかのように芽衣には感じられた。見るからに古ぼけたそれと鎖に繋がった“立ち入り禁止”の文字が、視界の隅に映る。それでもなお、鎖に引っかからないように黒衣を翻し、芽依は引き戸の前に降り立った。
古びた扉は歴史を感じさせる。今まで一度たりともこの場所に来たことは無かったが、この場所の歴史の一端に自分も、こんな形で加わろうとしている。
「……はぁ」
今吐いた息が、いつものように億劫から来るものであったなら、どんなに良かったか。
今、そう――自分はきっと、恐れているのだ。
何に? ……そう問わずとも、自分の中に答えはある。自分の中にしか存在しない、これから会う相手の中には存在しないかもしれない、その感情。
いや、もはや相手側には存在していないのだろう。
もしかしたら自分は、それを大事にしていたかったのかもしれない。
――だけどそれも、“自分だけ”だ……。
芽衣は、薄い笑みを作った。何に踊らされているのだ、自分は。
――……もう、どうだっていいじゃないか。
「……はっ。馬鹿馬鹿、しいっ」
言い終わる前に、乱暴に引き戸を開いた。
秋であるにも関わらず、湿気を帯びた空気が瞬時に襲いかかる。長年積もりに積もった埃が成せる業か。肘近くまである左の手袋を鼻と口元に当て気道を守りつつ、手探りするのは電気のスイッチだ。
しかし長い時というものは、文明の利器をも簡単に無用の長物にさせてしまう。せっかく見つけたスイッチのオンオフを何度も切り替えようと、場の明るさは変わらない。今この場を照らしてくれるのは、淡い自然光だけだ。
仕方なく、目を細めながら躊躇いがちに歩を進める。そのたびに暗さが増していく視界。しかしやがて目が慣れてくると、もう一つの扉が目の前に出現する。
「…………」
再び、心臓が震え出す。ドアノブを掴むのと同時に、臓腑を掴まれて揺らされているような、気味の悪い感覚。だけど、自分には時間が無い。
「ちく、しょ……っ!」
がちゃり、と音を立てて。
決意が鈍らないように勢い良く、芽衣は扉を開いた――……が、予想していた人物どころか、誰の姿もそこにはなかった。
「……っ!?」
予想外の状況に、眉をしかめた、次の瞬間。
背中に走るのは、唐突かつ大きすぎる衝撃――。
「……っ!」
自然と吐き出された息を出し切る前に、埃まみれの床に腕と腹と、膝がぶつかる。腐りかけたその床も、その衝撃と甲冑の重みでみしっと音を立ててめり込んだ。そして同時に耳に届くのは、勢いよく閉じられた扉の音――。
「っおいっ!」
痛みに痺れる体を起こして、乾いた唇でそう怒鳴るも、自分をここに閉じ込めた相手はもはや扉の奥……安全地帯にいる。
それでも――芽衣は、立ち上がる。何故なら、いるのだ、ここに。ずっと自分に嫌がらせをしてきた犯人が。扉一枚を隔てたそこに、たしかにいるのだ――。
扉の前に立ち、
「……ここ、開けろよ」
と、怒りを燻らせた声で静かに命令する。しかし命令をしたところで、「はい、わかりました」なんて相手が言うわけがないことも、もちろんわかっている。それでも、口に出さずにはいられない。
「おまえ、誰だよ……っ」
唇を噛み締めながら、誰何する。しかし、芽衣は――……扉の前にいる相手の名を、知っている。いや正確には、そうではないかと、思っている。きっと彼女だろうと、確信すらしている。
だから震えるのだ、声が。
「……っ」
考えたくない。信じたくない。認めたくない。
都合のいい欲望が歯軋りを起こさせる。全身の血液を躍らせる。そしてそれは、ついに張り裂けるような声となって。拳となって。扉に叩きつけられる――。
「……ここから……出せって言ってんだ! ……梢っ!」
辺り一面の埃が、ざわついた。
そして、微かに――扉の奥の空気が、固まったのを芽衣は感じた。
「…………」
荒い呼吸を繰り返す。黙りこくった相手の呼吸の、何倍も速く。
ここが埃っぽくって、息がし辛いからか? 今まで溜まっていた疑問も確信も、そして怒りも、全てぶちまけたからか?
答えは、否。
そう、全ては恐れ。
この扉を開くのを要求してはいるが、芽衣はこの扉が開かれることが、何よりも怖いのだ。
尚も黙る、扉の向こうの相手。
息を整え、固唾を飲み込む。そして次の瞬間、
「……なーんだ、気づいてたんだ」
やたら冷静な声色が剣となり、芽衣の心臓を貫いた。




