第十章:かわるもの ―霜月― 其の十
廊下に溢れる人ごみは上手いこと、何かと目立つ身形である彼女を人目から守ってくれている。何と言っても今日は文化祭だ。人が多ければ多いほど、できることも増えるというもの。
この手紙の差出人も、同じことを考えているのかもしれない。そう思うと、図らずとも左手の拳は固く閉じられる。
そこにはぐしゃぐしゃに丸められたメモ用紙――否、手紙だ。差出人の名は無い。
彼女はゆっくりと、背後を振り返る。そこにあるのは、2-Aの教室。賑やかながらも、真剣みを帯びた声が教室からは漏れ出ている。
皆、がんばっている。一ヶ月以上も前から、この日のために練習を積み重ねてきた。
これは、皆に対する裏切りになるのではないか、と。
揺れる想いが糸となり、彼女の足を廊下に縫い付ける。しかし、それを断ち切るのは――流れ星――彼女の一言。
『信じて、いいよ』と。朗笑を浮かべながら、小夜子が言ったのだ。
――もしその言葉に、甘えて良いなら。その言葉を、信じても良いなら。
……自分にできることは、一つだ。
芽衣は雑踏を駆け抜け、誰にも知られることなくどこへやら消えていった。
ずっしりと重く、動きづらい鎧に舌打ちしつつも、彼女は駆ける。
自分には、時間が無いのだから。そう、言い聞かせながら。
それからは一度も、振り返らずに。
* * *
秋の空気は潤いなど持ち合わせておらず、少しずつ、少しずつ、冬へと人々を誘おうとしている。
出し物の香りがしない外の空気は清らかだ。しかし綺麗な空気には似合わぬ、だが乾いた空気には似合う声が、校舎裏のベンチ際に放たれていた。
「げほっ……こほっ……っ」
ハンカチで口を覆うも、漏れ出てしまうその咳。その持ち主は――言わずもがな、橘だ。
「きょーやー、だいじょーぶー……?」
元凶の気遣いほど、イライラさせてくれるものは無い。
橘は脅威の激辛カレーを持ってきたこの親友を、思いっきり睨みつけてやる。
しかし……怒ってはいけない。橘は自分にそう語りかける。この親友はやたら繊細だ。ぼーっとしているように見えて案外と、自分の一言に過敏に反応することを、橘は心得ている。だから、感情的になってはいけない。いけないのだ。
いくら喉が焼けるように暴れだし呼吸することすら難しく、それ故に体内の熱が上がっていたとしても、そして目の前にそうさせた張本人がいたとしても、ここはぐっと堪えなければ。
「だいじょ……だから、水を寄越、せっ、げほ、げほっ」
「きょーやってさー……本当、期待を裏切らないよね……」
そう言って、桐谷がふわりと微笑んだ。
前言撤回。やはりこいつは叱ることにする橘。
――“期待”って何だ、お前はこうなることを期待していたのか!? そして何でこんな時に笑っていられるんだ!?
文句兼ツッコミは頭の中でいくらでも思い浮かべられるのに、口内の刺激物がそれをさせてくれない。とりあえず、桐谷が購入した水を急いで口に運ぶ。それが賢明だ。
――こいつを叱るのはその後だ。
橘は固く決心した。……のだが。
「おや、まだ辛いのか?」
決心を鈍らせる存在の登場だ。奏一郎はこれまた満足げに笑っていて、途中で買ってきたのだろうシュークリームを口にしている。それにいち早く反応したのが桐谷だ。
「心屋さん……それ、ちょうだい?」
「ああ。君たちの分も買ってきてあるぞ。“かすたーど”やら“ちょこれーと”やら面白い種類の名前があったから、適当に一つずつ。どれが食べたいんだ?」
「チョコー。チョコちょうだい。きょーや、チョコ食べられないからー……」
橘は、この二人のやり取りの最中、水を喉に通したおかげでやっとまともな声が出せる状態になった。だが奏一郎の登場によって、予定していた桐谷への暴挙はひとまずお預けとなる。
冷静に考えると元はと言えば、奏一郎が激辛を食べないようにと勝手に自分が将棋で負けただけのことだ。この辛さに対する怒りを、奏一郎や桐谷にぶつけるというのも不粋な話。とりあえず怒りを抑えることに専念し、大人しくベンチに座ることにする。
感情のコントロールが苦手だなんて、まだまだ自分は大人になりきれていないな、と実感、そして反省した。
「だいぶ落ち着いたな?」
奏一郎が微笑んで、カスタード味のシュークリームを差し出してくる。正直、甘いものは好きでも嫌いでもないが、辛いものが未だに体内で燻っている今の自分にとって、甘い物はありがたい。大人しくいただくことにする。
「……ああ、ありがとう」
一口かじってみると、わざとらしいくらいの甘さが口内に広がる。ここまではっきり糖度が高いものを食べるのは、いっそ清々しいものだった。
視界の片隅には、「んまい……」と呟く桐谷が映っている。彼の持つシュークリーム、その中にはチョコレートの混ざったクリームがぎっしり入っているのだな……と想像すると、橘は途端に眉を顰めたくなった。
「うん、初めて食べたけど美味しいな。甘いけど」
「……また“初めて”か……」
傍らには、シュークリームを頬張り感想を述べる奏一郎。着物を纏った者が洋風の菓子を食べる姿はどこか違和感があるのか、道行く数少ない人も注目していく。否、彼そのものに注目しているのか。
「これはお詫びの気持ちとして買ったのに、僕が味わうというのも可笑しな話なのかもしれないなぁ」
「は? “お詫び”?」
「だってたちのきくん、わざと負けてくれたでしょう?」
「…………」
思わず、シュークリームを掴む手に力が入った。
「僕にそんな気を遣わずともいいだろうに、まったく、君は優しすぎるな。ありがとう」
礼をいいつつも、滑稽だと言わんばかりに奏一郎は笑う。空を仰ぐ彼の碧い目には、木の葉の一枚も映ってはいない。
気づかれていたか……と、心の中で橘は舌打ちする。弁解したところでからかわれるだけだから言わないが、別に、優しさでそういう行動を取ったわけではないのだ、自分は。そう、言い訳をしておく。
ただ、自分のせいで苦痛を味わうような人間がいてほしくない、ただそれだけだ。要するに、誰のためでもない自分のため。褒められるものでもないし、馬鹿にされるほど取り立てられるような行為でもない。
だが――橘は、気づいていた。
奏一郎が、そんな自分を褒めているわけでも、馬鹿にしているわけでもないことを。表情が、そう告げている。遠くを見つめたその目は、空を映すことによってますますその色の深みを増して。緩く曲線を描く口元は、何か言いたげに隙間が空いている。
彼は言い淀んでいるのだ、何かを。口にはしたくない、何かを。
桐谷も、この会話を聞いてはいるが……シュークリームを頬張っているだけで、何も意見しない。
一見穏やかな雰囲気ながら、辺りは静けさを取り戻していた。そしてそれは、携帯電話の起こしたバイブレーションによって掻き消される。
「…………」
橘は億劫そうに携帯電話を開くと、ディスプレイに表示された名前に顔を歪ませるのだった。
* * *
「どしたのー?」
桐谷の問いに、橘が苦々しげに口を開く。
「……職場の後輩だ。最近、やたら人生相談を持ちかけてくる奴でな……。休日にかけてきたということは、またその類だろう」
そう言って橘は立ち上がると、数メートルほど離れて携帯電話を耳に当てる。しばらくして、相手を宥めるような橘の声が、二人の耳に届き始めた。
そこで、先に口を開いたのは桐谷だ。
「……きょーやもさ。迷惑なら、電話に出なきゃいいのにねー」
「おや。電話とやらは、絶対に出なきゃいけないもの、というわけではないのか?」
素っ頓狂な奏一郎の発言も、桐谷にかかれば緩やかに流されてしまう。
「んー。そんなことないよ。相手によるのかもしんないけど。面倒くさい気分のときは俺、電話出ないし……。親父からの電話だと何も考えずに無視することすらあるよ?」
「……へぇ、そうなのか」
電話を使ったことすらない奏一郎にとっては、興味深い話だった。そして、同時に湧き上がる疑問。
「じゃあ何で、彼は電話に出たんだ? あんなに迷惑そうな顔をしていたのに……」
そう言って、こちらに背を向ける橘を指す。桐谷も、うーん、と首を傾げてから、
「ん、仕方ないよ。人のために動く……。それが、橘 恭也だから……」
答えになっているのかいないのか、わからないことを呟いた。
「…………」
奏一郎も理解できないのか、何も言わずに、シュークリームをそのまま口に含む。
「きょーやは、変わらないよー……学生時代から。優しさの塊みたいなのでできてんの」
「優しさの……塊?」
こくん、と頷きつつ、桐谷は咀嚼していたシュークリームを飲み込んだ。
「ん、うまかった。きょーやは、後先考えないところあるから。……っていうか、自分のこと後回しっていうか。……んー……見返りを求めて、ないんだよね。それって、人間離れした芸当だと思う……」
「はは、“人間離れ”か」
奏一郎がくすくすと、可笑しそうに笑う。桐谷の目には、そんな風に笑う彼がどこか安心したように見えた。
「でもね、だからこそ、きょーやみたいな人を、本当に“優しい”って言うんじゃないかなー……って、俺は思うよ」
「……そうか」
それだけ言って、奏一郎は最後の一口を口に収めた。と同時に、桐谷が携帯電話を取り出す。
「心屋さん、まだ見せてなかったよねー……。子猫、おっきくなったよ」
そう言って、画面上の猫を奏一郎に見せる。途端に、奏一郎の表情がふわっと柔らかくなった。懐かしさ故か、それとも、愛情故か。
「本当だ。子猫たちの中では一番小さかったから心配していたんだが、ちゃんと大きくなってるな」
「ん。なんかね。お医者さん曰く、『兄弟でも個人差がありますから、心配ないですよ~』って。『“個猫差”じゃないの?』って突っ込みたかったんだけどね……やめたー……」
桐谷の一言に、奏一郎がぷっと吹き出したかと思うと、腹を抱えて笑い出した。
「あっはっは……。ほんっとうに、君は面白いな……っ」
「そう……? 心屋さんもそんな風に笑うんだね……なんか安心した」
それだけぽつりと呟くと、桐谷は次から次へと画像を見せてくる。子猫を“ブロッコリー”と名付けたと報告すると、奏一郎が再び笑い出したことは、言うまでも無い。
本当におかしくて、笑っているのだけれど。奏一郎は少しだけ自覚した。
人間が、何かを誤魔化すために笑うことがある、ということを――自らの体で、少しだけ理解したのだ。
そして、彼がひた隠しにしたその感情は――……彼が忌み嫌う、とても醜いものだということを。
* * *
先ほどまで軽音楽部がライブを行っていたせいか、パイプ椅子の位置は乱れ、誰かが放ったマイクなどで散乱していて、とても観客を呼べるような状況ではない。
劇の始まりまで、あと一時間半を切ろうとしている。まだ大道具を運びきっていないのに、この有様……。2-A一同は体育館に足を踏み入れたと同時に、絶望という沼に足を取られたのだ……。
「仕方ない……怒りを抑えろ、皆! 軽音楽部には後で申し立てをしておくとして、とりあえず! 片付け開始~!」
鶴の一声、という表現がぴったりか。怒りを精一杯に抑えつけた静音の声が、皆のやる気を起こさせた。
まずはパイプ椅子の乱れを女子が素早く直し、そして舞台へと赴くと大道具のセッティングをしている男子と作業の合流をする。その合間に見つけた散乱物は、ひたすらゴミ箱へ。全て、静音の指示である。
こんなときでも頼りになるのが静音ちゃんだなぁ、と小夜子は密かに彼女を誇りに思った。
しかしこのとき、更なる悲劇がクラスを襲う。
「楠木がいないぞーっ!」
男子の慌てふためいた声に、皆の足が固まる。
「何だって!?」
静音だけでなく、皆が焦った顔をし出した。それもそうだろう、舞台の準備が整っていない上、主役までもが行方をくらますなんて。通常ではありえないことだ。不安材料だけが、時間の経過とともに増えていく。静音がその身軽な動作で、観客席から舞台に乗り込んだ。
「いつからさ?」
「今さっき気づいたんだよ! 小道具渡しておこうと思って、体育館中捜してんのに、いないんだよ!」
その声に、皆がざわざわと口を開き始める。
「なんで? サボり!?」
「んな馬鹿な!」
――……楠木さんが、いない?
小夜子は眉を八の字にするも、自分なりに考える。皆はサボり説を展開しているが、それはありえないだろう、と。
彼女はなんだかんだ言って、クラスに協力してくれていたはずだ。そうでなければ、練習に毎日参加したりしないだろう。土壇場になってすっぽかしをするような、そんな人ではない……サボりたければ、はっきり口でそう宣言するだろう、楠木 芽衣とはそういう人物だ。
――……何か、あったとか……?
様々な可能性を巡らせる中で、その思考に辿り着いた途端――……小夜子は、悪寒が走るのを無視できなかった。
そう、思い出すのは机の中。彼女の、机の中。
中にあったのは……露骨なまでの、憎悪の形。
「……っ静音ちゃん!」
観客席側からの小夜子の声に、舞台上の静音が素早く反応する。
「なに、小夜子……?」
「私……っ私が捜してくるよ!」
この提案には、静音だけでなく皆が目を丸くした。
「私、どうせ非力だし……ドジだし、ここにいても何やらかすかわかんないし……っ! だったら、楠木さん捜して、ここに連れてくるからっ」
自分はここにいても非力だ。重いものもろくに持てない、持てたところで落として破壊、なんてこともやりかねない。
まあ、そんなものは詭弁で。単純に心配なのだ。嫌な予感がここぞとばかりに働く――人間とは、そういうものだ。
「でも小夜子、あんた……走れないじゃん」
静音が言い難そうに、だが真実を述べる。それでも、小夜子は自身の意見を曲げない。
「大丈夫、最近調子良いから、たぶん走れるし……! 私、物見つけるの得意だよ! 森の中で水筒見つけたし!」
「え……あ、そうなの? 水筒のくだりはよくわかんないけど」
静音が、小夜子の理論に苦笑を浮かべている。たしかに事実であれ可笑しなことを口走ってしまったが、今はそんなことを話している場合じゃない。
「行ってくる……っ」




