第十章:かわるもの ―霜月― 其の九
何が面白くないのだろう。こんな、引きつった笑みしか浮かべられないのは、何故なのだろう。
絶対に今、自分は上手に笑えていないはずだ。鏡など無くても、それはわかる。
「さよ、顔が怖いぞ?」
首を傾げながらそう言ってくる奏一郎。彼からしたら素朴で純粋な発言なのだろうが、それは小夜子の脳を沸騰させるのには十分な効果を持っていた。
「どうせ、私は怖い顔してますよっ!」
それっきり。思わず俯いてしまう。もう遅い、とは思っても――後悔の嵐に、苛まれる。
――今の言い方……どう考えても、子供っぽい。ああ、もう高校二年生なのに、こんなことでカッとなっていい年齢でもないのに。
普段甘えてばかりの分際で、こんな態度って無い……。
何が、こんなに面白くないのだ。奏一郎の結婚談義のときもそうだ、と小夜子は思い起こす。そして、思い返した今でも――面白くない。
まったく、最近の自分は一体どうしてしまったのだか……。そう思いながら、小夜子はひたすら唇を噛んでいた。
「……さーよ。嘘、嘘。冗談だよ?」
そう言う彼に視線を向けると、変わらず穏やかに微笑んでいる。
ほら、やっぱりだ。彼は、自分の態度の変わりようなんかに動揺したり、困惑したり、しない。
小夜子はそれすらも悔しく、そして悲しかった。
いつも、そうだ。いつも、心を狂わせるのは――。
「着物もよく似合ってる。可愛いよ」
何を言っても、何の照れも躊躇も無い、この笑顔だ。それもまた、悔しい。
いちいち、心臓を踊らせてしまう自分が、悔しい。太鼓みたいに、大きな音を立てて響くこの心臓が、悔しい。彼のたった一言で、頬を朱に染めてしまっている自分が――悔しい。
だけど、どんなときでも言わなければならない言葉って、ある。
「……ほ」
「ん?」
「……褒めて、くださって、ありがとう……ございます」
――……ああ、また子供っぽい言い方だ。どうしてもっと、はっきりと、人の目をまっすぐに見て言えないのだろう……。
それでも彼は、
「うん」
これだけで、満足げに笑ってくれる。そして、自分も。
この笑顔を見るだけで、先ほどの負の感情も、いとも簡単に消せてしまう。いつから、こんな風になっていたんだろう。
「……あれ。そういえば橘さんと、桐谷先輩は……?」
廊下を窓から覗き込むと、そこには見知らぬ人々が縦横無尽に動いていた。しかし、目当ての二人の姿は見当たらない。
「“自動販売機”の近くにまだいるんじゃないか?」
「え? あ、そうなんですか?」
「ああ。激辛カレーとやらをたちのきくんが口にしたんだが、どうにも辛すぎたらしくてな。水を買いに……」
「ええ!?」
小夜子は、目を丸くした。
――……そんな……橘さんが馬鹿なんてことは、そんなことは決して無いと思うけれど! でも激辛カレーを食べちゃったってことは……そういうことになるの……!?
小夜子の脳内がマーブル模様を描き始めている最中に、ぽつりと奏一郎が呟く。
「……わざと、負けてくれるなんてな」
そう言って、ふっと小夜子に微笑みかける。
「本当、底抜けに優しいよね、彼は」
「……? はい……」
意味深長にそう言う奏一郎の伏せった目元が、なんだか――何故か、とても寂しそうに見えた。
彼は、どうして――ときどき、こんな表情をするのだろう……。見ていると自然と、言いようの無い不安が、焦燥が、全身を包み込んでくる。
彼の碧い目がゆっくり開かれると、その視線は自分の顔に向けられた。そして、これまたゆっくりと、口元に浮かぶ笑み。
「そろそろ、たちのきくんの容態も心配だし戻ることにするよ」
「そ……そうですか」
「うん。……ね、さよ」
「はい?」
名を呼ばれ、ふと視線を上げると――奏一郎の表情は、見えなかった。小夜子の頭にそっと触れてきた彼の右手が、隠してしまっていたから。
「……さよが劇をがんばったら、今夜はカレーにするからね」
初めて作るから、自信無いけどね――。小声でそう言われてしまって、
「……はい」
としか、返事ができなかった。心臓の音が、邪魔をした。
次第に、その手は離れていって。離れた箇所が、徐々に空気によって冷えていくのを、小夜子は感じていた。
雑踏に身を置く、奏一郎。人並に乗って、どこかへ消える奏一郎。
見慣れない、そして彼には似合わないその光景。
だから、だろうか。
どんなに彼の姿が遠くに行ってしまおうとも――そこだけ、色がついているように、自分の目に映ったのは。
どれくらいの時間だったろうか、もう彼のいない廊下を見つめ続けたのは。
ただ、撫でられた頭が冷えていく感覚が走るのと比例して、全身がぽかぽかと温かくなって。その慣れない感覚に、少しだけ狼狽える。
だけど、本当は彼女もわかっている。それが“初めての感覚”ではない、ということに。
好きな人がいるのか、と訊かれた時も。
ありがとうね、と、先ほどのように頭を撫でられた時も。
屋根に上る際に、手を繋いだときも。……体が温かく、時に熱く、感じるのだ。
ぽかぽかする、というのはお風呂に入ったときにも感じられるものだが、それとは全く違う。むしろ真逆だ。外側から、ではなくて。体の内側から熱が生まれて、それが全身に行き届いて……徐々に心臓の音が、耳にまで響いてくるのだ。
全て、彼が与えてくれた感覚。
やはり、彼の正体は魔法使いなのかもしれないな。彼に触れられた場所を、手のひらでそっと押さえつつ、小夜子はそんなことを思った。
ちょっとした言葉で、ちょっとした仕草で……こんなにも、心臓を揺らせるから。
「小夜子ちゃーん」
はっと意識を呼び戻してくれたのは、穏やかながら可愛らしい声――陽菜だ。
小夜子は転ばないよう細心の注意を払いながら、親友と声の主の元へと小走りする。そして、その途中で気づいたこと。二人がなんだか、片方の口角を上げてニヤニヤしているのだ。
これは静音が、ときたま見せる表情だ。だが、隣にいる陽菜までもがニヤニヤしているとはどういうことだ。この表情、人から人へ伝染するのだろうか。
「な、何、その表情……っ?」
静音が右手をひらひらと振り、
「いや、何でもないよ。ね」
陽菜が両手を口に当て、
「うんうん、何でもないよー」
釈然としない答え。
そんなはず無いだろう、と心の中で突っ込んでしまう。
“何でもない”人間が、そんな可笑しいのをこらえるような顔をするものか。
「い、言いたいことがあるなら……い、いい、言いなさいっ」
勇気を出してそう言うも、
「うわぁー。なんでそんな強気な発言も、小夜子が言うとほんわかするんだろーねー……。羨ましいわぁー……」
しみじみと、静音に笑われてしまう。たしかに、少し自分のキャラとは違う発言をしてしまったが……そんなお祖母ちゃんが孫を見るような目で見なくても、いいじゃないか。
小夜子が不満そうな顔をしているのを、この親友は見逃さない。すかさずフォローを入れるのは親友の役目と言えよう。
「ほーら、そんな顔しないの、流れ星様はクールな存在なんだからさっ。楠木もそろそろ衣装着替え終わるでしょ。そしたら最後の通しの練習に入るから。役作り、役作りっ」
「……うん」
“楠木”。その名に、何度心を揺らされたことだろう。彼女と最後に会話したのは、いつだったろうか。
結局最後まで、自分たちは分かり合えないのだろうか。
小夜子からすれば、自分は芽衣と友達になりたいだけなのだ。一人の人と友達になるって、こんなに難しいことだろうか。迷惑に思われていれば、当たり前なのかもしれないけれど。
なぜ、彼女が人を避けるのか。なぜ、何者かからの嫌がらせに、独りで耐えようとするのか。小夜子は、もう……だいたいわかっている。
――……楠木さんが……いつも一人なのは。……もしかしたら。
小夜子が思案顔をし始めた、そのときだった。カーテンの奥から、女子の声が響いたのは。
「黒の騎士のリオ役・楠木さんの準備が整いました~。皆、練習始めま~す!」
芽衣の準備が終わったらしい。彼女は男装しなければならないので、衣装や化粧やらの手間が他の役の数倍はかかったよう。手の空いている女子が二人がかりで、彼女の着替えを手伝ったほどだ。芽衣も疲れたのだろう、いつもの彼女らしく、カーテンの向こう側から「はぁ……」と、やる気の無さそうな溜め息が響いた。
練習の準備にとりかかるも、皆もやはり気になるのか、カーテンの周りを歩くときだけ足の動きが緩慢なものになっている。そしてそれは、小夜子も例外ではなかった。静音に至ってはカーテンの前で仁王立ちしている。
そして、カーテンが小気味良い音を立てて開いた、その時。皆が催眠術にでもかかったようだった。
一瞬にして、皆の足が完全に止まる。
そこには、気だるそうな中にも凛々しく精悍な顔つきをした、美麗な“男性”の姿があった。
人は見慣れぬものに興味が湧くと、それに魅了され、捕らわれる。身体も、心も。まさにその現象がこの時、2-Aの教室で起こったのだ。
軽装な漆黒の鎧に、華奢な身を包む芽依。波がかった黒髪は低い位置で一つに束ねられ、彼女が歩を進める度にゆらゆらと輝く。それに劣らず煌めくのは、美しい二つの“黒”に挟まれた白磁のような肌。それらは、お互いに引き立て合っている。
アーモンド型の琥珀の目は真っ直ぐだ。堂々と胸を張ってロングソードを携えたその様は、“雄々しい騎士”そのもの。
誰もが想像していたよりもずっと、“騎士”を表そうとしている彼女。練習中もろくにやる気の見せなかった彼女ではあったが、ちゃんとクラスに参加してくれていたのかもしれないな、と小夜子は感じた。
呑まれる、という言い方が正しいのか。芽衣の放つ独特のオーラに皆が釘付けになり、魅せられ、心奪われている。
元々の容姿がそうさせるのか。いや、そうではない。綺麗なだけでは、人目を一瞬引いて終わりなはず。皆の意識を奪うことなど、不可能なはずだ。
彼女にはそういう、不思議と人を魅了する力があるのだ、と小夜子は感じた。生まれつきのカリスマ性とでも言うべきだろう。
「……楠木。あんた、これはかっこよすぎだわ」
静音が思い出したようにそうぽつりと呟くと、他の皆も目が覚めたように口を開き始める。
「楠木さんかっこいー……」
「惚れるわぁ~」
クラス中の女子から、何のお世辞でもない本音が漏れ出す。彼女たちの表情を見ると、本気で芽衣に見惚れているものだから、小夜子は少しびっくりしてしまった。しかし男子たちもうんうん頷くことから考えると、少なくとも今の芽衣は、“女子”ではないのだろう。容姿の美しさは変わらずとも、彼女が今表しているのは、“男性的な美しさ”なのだ。
「……動きづらい」
皆の注目が集まる中、彼女がぼそっと口にした文句。凛とした声は相変わらずなのだが、役作りのためか、いつもより声が低い仕様となっている。
無表情で文句を言う芽衣に対し静音が、前回の言い争いのことなど微塵も感じさせないような笑顔で、
「これでも軽装な方だよ? 本当は足にも装備したかったんだけどね。戦闘シーンの時に邪魔かなと思ってさ。外したんだ」
と、朗らかながらも言い返す。小夜子は密かに、芽衣と対等に渡り合えるのは、このクラスにおいて静音しかいないのではないか、と思った。
「ふーん」
礼を言うでも何でもなく、ただ文句を言いたかっただけのように、芽衣はマントに似た黒衣をまとうと、颯爽とした動きで着席する。その所作さえもどこか凛々しく感じられ、クラス中の視線を集中させた。
「……シーン1からでしょ? 練習、しないの?」
冷静な芽衣の声に、皆が「あ!」と声を出し、簡易な練習は始まった。
シーン1は、王女役の陽菜と、王様の会話の場面だ。照明の点検も兼ねて、本番の体育館と同様に暗くなる教室。
本番までそう時間も無いので、小夜子は自分の出番まで回ってこなさそうだな、と肩を落とした。その代わり、皆の演技を真剣な目で見つめ、何度も頭の中で自分の台詞を反芻させる。
――……『お前の中にある願い事を、私に見せてくれ』……。
ははっ……この台詞、先に奏一郎さんに覚えられちゃったんだっけ。
自然と笑みがこぼれるのを、気づかないではいられなかった。
思えば、彼は今回、やたら自分に協力してくれていた。
羽織を作るのもそうだし、流れ星の気持ちを理解できるように取り計らってくれて。
初めて彼と会ったときから暫くは警戒してしまっていたが、やはりそんなもの必要無かったのだな、と実感する。
あんなにも、彼は優しいではないか。
人間じゃないのでは、なんて疑ったときも一時あったし、彼もまたそれを半分認めていたけれど。もし仮に、本当に彼が人間じゃなかったとして、それが何だと言うのだ。
人間じゃないから一緒にいられない、なんて理屈は通らない。もしそれが本当なら、人は犬猫とも一緒に暮らせないことになるではないか。
台詞を目で追いながら、小夜子は自身の理屈に納得していた。満足、していた。
そして、この時――。誰も、気がつかなかったのだ。
この教室の暗闇を利用して――芽衣が一人、教室から出て行ったのを。




