第十章:かわるもの ―霜月― 其の八
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騒がしい2-Aの教室は、今朝よりもその緊張感がやや和らいだかのように見える。文化部特有の土壇場根性と言うべきか、本番に対する強さと言うべきか。不幸なことに小夜子はどちらも持ち合わせていないので、皆が雑談を取り交わしている間にも、台本と睨めっこしていなければならなかった。正直、テンションが上がりまくりの皆の声が、小夜子の記憶を司る部分を嫌に刺激するのだが。
本番の衣装に着替え終えたカーテンの中で、もう何度も往復した文章を繰り返し読み漁る。配られた当初は当然のことながら新品だった台本も、ところどころ青のマーカーが引かれ、何回も開いたせいか特定の場所にのみ皺が寄っている。
「……『この十字架を身に着けておけ。お前の声が、皆に届きやすくなる……』」
この台詞を稽古中に何度も、日下によってやり直しさせられた。今となっては良い思い出。ここ一ヶ月、皆で力を合わせて練習を積み重ねてがんばってきた。その成果を見せる時が来たのだ。そう思うと、練習の辛ささえも楽しかったことのように思えてくる。
「小ー夜ー子、着替え終わった?」
聴き慣れた親友の声に、
「うんっ」
元気よくそう返すと、親友は無遠慮にカーテンを引いた。もうそんな行動には、大して驚きはしない。慣れたのだ。
「おー……。小夜子可愛い! 似合うよ、すごく似合う!」
目をきらきらさせながらそう言われると、少し気恥ずかしい。静音はお世辞を言うような性格ではないので、本音なのだろうと思うとなおさら恥ずかしくなる。どこに目線を置けばいいのかわからなくて、仕方無しに足元の草履を見つめてしまう。
「へ、変じゃない?」
「全然! なんかね、ぎゅーっと抱きしめたくなる感じ? 台本どおりのクールな流れ星もいいけど、全然ありだよ!」
そう言って本当に抱きしめてくる彼女。機嫌が良いせいか、今日の彼女のスキンシップは過剰なものになっている。
正直、こんな風に抱きしめられるのはとても嬉しいのだが、注目を浴びるのは避けたいところ。
「だ、抱きしめたいっていうのは理解に苦しむのだけれど……。っていうことは、クールさが全然出てないってこと……だよね?」
たしかに自分はクールとは程遠い人間だ。小夜子もそれは自覚している。日下の思い描く“流れ星”像とかけ離れていては、脚本を書いた彼が報われないような気がしてしまう。が、静音ははにかんで、
「いいって、全然いいよ! 台詞はクールなんだから、あとは表現力だって!」
そう言って元気付けてくれる。彼女の笑顔と言葉には、一瞬で人の心を穏やかにする力があるのだ。そう痛感する。
「……ありがと、静音ちゃん」
「いいってことよ」
少し自分には大きい着物の袖口を手繰り寄せ、小夜子はカーテン室から出ると、窓際の席に座った。そしてその向かいに、制服姿のままの静音が座る。
流れ星と人間という存在の違いをはっきり観客に理解させるためだろう、他の皆は中世のヨーロッパ風の衣装を纏っているのに対し、小夜子は一人、オリエンタルな着物を着用していた。金色と銀色の蝶が、純白の羽織の世界に舞っている。その繊細な美しさに加え、比較的「大人しい」性格の小夜子が一風変わった格好をするという相乗効果もあってか、教室の中での注目度は高い。
視線を背中で感じ、自らの教室であるにもかかわらず居た堪れない感覚が走ってしまう。それをどうにか誤魔化そうと、小夜子は先ほどの話題に触れてみることにした。
「そ、そういえば、静音ちゃんと桐谷先輩が兄妹だったなんて、本当にびっくりしたよ」
「ああ、そのこと」
静音が柔らかく微笑みながら、レモンティのペットボトルの蓋を開けてから続けた。
「まあ私から言わせたら、小夜子とお兄ちゃんが知り合いだったことにびっくりしたけどね」
「ははっ。そうだよね」
最初の出会いは、あまり思い出したくないけれど。心屋を壊そうとしていたのだった、あの人は。別にそのことに特に怨みも何も無いけれど、今思えば変な出会い方をしたものだ、と思う。
次に会ったときは、猫を引き取らせてくれと電話で言われ、翌日には共に夕食を囲んだのだった。小夜子は桐谷と会うのは今日で三度目だったが、何にせよ変な出会い方だ。今日も突然、出会い頭に助けを乞われたことを小夜子はまだ忘れていない。
「あれ? そういえば……なんで桐谷先輩、猫のポスター持ってたんだろう?」
「え?」
小夜子の疑問はもっともなものだった。
自分の携帯電話の番号を載せたので、学校外には出さないようにしていたのに、なぜ桐谷は自分に電話をかけられたのだろう。
突如湧き上がった素朴な疑問は、静音の一言によって一瞬にして解消される。
「ああ、違うよ。私がお兄ちゃんに、猫飼えないかって訊いたんだよ」
「え……あ、そうなの……っ?」
こくん、と頷く彼女。そして、その表情は柔らかい。
「お兄ちゃん、動物好きだからさ。一応飼えるか訊いてみたら『飼えるかも』って言うから、小夜子の番号教えたの。で、『飼う決心して小夜子に電話するときは、私に予め連絡頂戴』って言ったんだ。その方が、スムーズに猫の引き渡しできるじゃん?」
滑らかな説明に相槌を求められ、こくこく頷くと、静音も満足げに微笑んだ。
しかし、彼女の言うことは事実だ。あの日、桐谷の身から溢れ出んばかりのマイペース精神は小夜子をも飲み込み、結局夜の九時まで彼は心屋に居座ったではないか。奏一郎は元々マイペースなので省略。
あの日、あの場に彼女がいたならさっさと猫の引き渡しも済んだろう。そうすれば、二人の――奏一郎の、結婚談議など聴かずに済んだかもしれない。
しかし、今はそんな仮定の話に憂いている場合ではないと小夜子は思った。この親友は、まだ出会ってからそう時間も経っていなかったにもかかわらず、他人の猫のことにまで協力してくれていたのだ。
こんな無償の優しさを、当たり前と思ってはいけない。
「……静音ちゃん。どうやったらそんな真っ直ぐに育つの?」
「ええ? 知らんよ。元の性格が良いんだよっ」
冗談っぽくそう言って、無邪気に笑う静音。しかしその屈託の無い笑みは、彼女の台詞を冗談ではなくしているように思えた。思わずぶかぶかの羽織を、きゅっと掴んでしまう。
――……そっか、私って……いつも奏一郎さんに甘えてばかりだし、無力だと思ってたけど、それだけじゃなくて……。
いつも、知らないところで誰かに助けられて、守られてるんだなぁ……。
この羽織だって、奏一郎の優しさからできているもの――むしろ彼の優しさの塊だ、と小夜子は思う。
そして、猫だって。
ポスターを作った甲斐があって、子猫が一匹、無事に桐谷の手に渡ったものと思っていたけれど、実際は水面下で静音の働きがあったのだ。
子猫一匹渡すだけで、多くの人の手が関わっていたのだ。
そうだ、今だって。
教室を見渡せば、中世ヨーロッパ風の格好をしているクラスメイト。これらの衣装だって、静音が兄である桐谷の友人に頼んで、無料で提供してもらったものだ。
世の中って、そんな風にできているんだな……。
ぼんやりと、窓を見上げてそんなことを小夜子は感じた。
空の色は薄まって、悠々と雲は風に乗って流されていく。しかし、散るだけでなく雲は集まって、そしてまた新たな形を作り、そしてまた離れていく――。そしてやがては、消えていく。
――……あれ? じゃあ、もしかして今も私は……。
自分が知らないだけで、誰かに守られているのかな……。
静音がそうしてくれていたように。本当は、もしかしたら。誰かが、今も自分のことを守ってくれているのかもしれない。彼女のように、守っている自覚など無くても。
そう思うと、不思議と頬が綻んで、胸が温かくなっていくから不思議だ。人の心というのは複雑なようでいて、実はこんな風に単純な側面も持ち合わせているのかもしれない。
そして、単純であってもいいのかもしれない。
「みんな、大変だ!」
勢い良く教室の扉が開いたのと同時に、教室を静まり返らせるこの台詞。入ってきたのは、クラスの男子だった。衣装である甲冑を身に纏い「大変だ!」と言われても、どこかボケているようにしか見えなくて、突っ込みたい衝動に駆られてしまう。
何はともあれ、「大変だ! 緊急事態だ!」と復唱する、その顔は至って真剣だ。
「なんだ? どうしたんだ?」
日下がいらいらした様子でそう問うと、甲冑の男子は口早に答えた。
「芹沢のアホが……激辛カレーの餌食に!」
すると、突如ざわつき始める教室。口々に、小夜子の耳にもひそひそ声が届き始める。
「また犠牲者が出たか……!」
「芹沢って何の役だったか? 兵士? ならまだ問題ないか?」
「畜生、2-Cめ……っ! 俺たちの劇を台無しにする気かっ!?」
皆、形から入っていくタイプのようだ。衣装を着た途端に口調が役者っぽいというより演劇っぽくなるとは。文化部ならではのプロ根性か。
――……皆、すごいなぁ。私も見習わなきゃ……。
「ところで、激辛カレーって?」
小夜子の素朴な疑問に、静音が苦々しげに口を開く。
「この学校の伝説の一つ……その名も“兄さんの激辛カレー”!」
「……あ、静音ちゃんも口調が演劇っぽくなってるね。っていうかこの学校、伝説がいくつかあるんだね?」
小夜子の無意識の静かな突っ込みに、静音は構わず続ける。
「毎年、2-Cになったクラスは文化祭でカレー屋をすることになっているんだけど、そこで必ず売り出されるのが限定十食の激辛カレー……! これを食べた者はあまりの辛さに悶絶・発狂する上に、それでも食べきった者にはめでたく、“自業自得の馬鹿”という称号が与えられる伝説の代物!」
「え……辛い上に馬鹿って思われるの? いいこと無くない……?」
そんなもの、誰が食べるのだろうか。そう顔に書いてあったのか、静音がゆっくり首を振る。
「そういう“伝説”みたいなのに自ら挑戦しちゃう人間っていんのよ。こう……お祭り騒ぎが好きなやつとかね? そういうのを“お祭り馬鹿”って言うんだけどね、この学校では。辛いばっかでいいことないけど、リピーターもいるって噂だよ?」
「へー……。……芹沢くん、大丈夫かな」
クラスではお調子者の彼。甲冑の男子によると、今は保健室で養生しているらしい。
「まあ……あいつもなかなかの馬鹿だからね……。何でわざわざ、馬鹿の称号を貰いに行ったんだか。必要ないじゃんね?」
酷いことをさらりと、そしてしみじみと言う静音。
その時だった。
「小夜子ちゃーん」
クラスのそれとは打って変わって、朗らかな声とともに王女様がやってきたのは。
王女様役の陽菜が、危なっかしい足取りでこちらに走ってきている。風に煽られた桃色のドレスは、胸元に薔薇があしらわれていることを除けば、決して華美なものではない。薄幸の佳人というイメージを大事にしたのだろう。少しだけ肩も出たデザインなのだが、陽菜自身の幼さも手伝って、独特の品のよさを醸し出している。
何か慌てた様子でこちらに走ってきているのだが、そのドレスの裾に躓いて転んだりしないだろうか、それでもって破れたりしないだろうか、見ているこちらがあたふたさせられてしまう足元の覚束無さ。心臓が冷や冷やする。
「陽菜ちゃん、どうしたの?」
「ん、あのね、あのね。なんか、面白い格好の人が小夜子ちゃんを呼んでるのー」
「面白い……?」
面白い身形をしていて、自分を知っているとくれば――思い当たる人物は、一人しかいない。
陽菜の指差す方向に視線をやると――そこは廊下に面した窓だった。一枚だけ開放されたその場所に、よく見知った笑顔がある。
「奏一郎さん!」
小夜子が笑顔で駆け寄ってくるのを、奏一郎も変わらず笑顔で出迎える。
「奏一郎さん、もう学校にいらっしゃってたんですね?」
「うん。十時にはもうここに来てたかな」
そう答えた彼は、いきなりこう問いかける。
「さよ。カレーは好きか?」
「えっ?」
――……なんか、今日はカレーの話題が多いなぁ。
好きか、嫌いかで問われたら、好きの部類に入る。
小学校・中学校の給食の際にカレーが出てきたときは心なしか、皆ご機嫌だったように思う。カレーが嫌いな子供など、極めて少数派だったはずだ。そして小夜子は、自分が最後にカレーを食べたのはいつだったろうか、と考えてみると、ずいぶん昔のことのように思えた。少なくとも、母が亡くなってからは一度も口にしてはいないだろう。ここまでカレーの話題を連続的に投下されると、食べたくなってくるから不思議だ。
「はい、好き……です」
いつものように口を開いたつもりだったのだが。何故だろう、言いづらく感じたのは。少しだけ、心臓が揺れたのは何故だろう。
「な、何でそんなことを?」
「ん? いや、今さっき、たちのきくんと桐谷くんと会ってな?」
そう切り出すと突然、真剣な顔になる彼。
「初めて、カレーとやらを食べてみたら、うん。思いの他美味しくてな……。作り方を教えてもらったんだ」
そう言って、小さなメモ用紙を見せてくる彼。そこに書かれていたのは何てことは無い、カレーのレシピ。しかしそれは、丸っこい――どう考えても、女子の字だった。
「こ、これ、まさかうちの学生に訊いたんですか?」
こくん、と頷く彼。
「カレー屋さんに行って、作り方を教えてくれと頼んだんだ。今の若い子は親切だな? ずいぶんと事細かに書いて教えてくれたぞ」
呑気な彼の発言に、はあ、と大きく項垂れてしまう。
――……それはですね、奏一郎さん。相手があなただったからですよ……。
文化祭という一般の客も多い中で、不審者が入ることだってあり得ない話ではない。そんなことは、恐らく学生の大多数が理解していることだ。
そんなところで女子高生に向かって、『カレーの作り方を教えてくれ』などと不審者丸出しの発言をしたら、どうなるか。通常であればそのまま教師陣に通報・連行され、場合によってはエスカレーター式に警察行きだろう。
それが、何故彼はそうならなかったか――理由は簡単、奏一郎だったからだ。
どうせ、その低くも優しい声と無邪気且つ綺麗な笑顔で女の子を誑し、キャーキャー言われた足でここに来たのだろう。




