第十章:かわるもの ―霜月― 其の七
そこに正負の感情など見受けられず、読み取ることもできず。
だからこそ、思った。怖い、と。
空をそのまま切り取ったような爽やかな碧い目さえも、全てを見透かしてしまえそうで。その貼り付けたような笑みにさえも、狂気が含まれていることを直感で悟って。
それからも決して快いとは言えない想いを抱いて、彼と接してきたのだ。正直、自分の中での彼の第一印象は良くない。
だが今、目の前にいる彼は……断言できる。当時とは、“違う”のだ。
橘は将棋盤を見つめつつ、意識を現在に早送りする。そう、目の前にいる彼は、初めて会ったあの時とは、もう違う。
「おまえも、変わったけどな」
「……え?」
橘のぽつりと落とした独り言に、珍しくも奏一郎がその碧い目を丸くしている。
「雰囲気が柔らかくなった。前までは、そんな風に温かく笑ったりはしなかった」
「…………」
碧い目は丸くなったまま、きょとんとしている。そんな子供のようなあけっぴろげな表情を、かつての彼はしていなかった。そう、徐々に表情が豊かになっているのだ。それは赤ん坊がだんだん言葉を覚えていくのと、少しだけ似ていて。
何が、否、誰が彼を変えたのか……橘には、大体の予想はついているのだが。
金将をさらに進めていると、だんだんとコツを掴んできたのを橘は自分でも感じていた。
「……君は、面白い指し方をするからとても楽しいな」
先ほどまでの会話とは少しずれた言葉を落としながら、奏一郎は角行を進めてくる。厄介な場所に指されたため、うっと短い唸り声を思わず出してしまった。
「しかしそうなると、以前の僕の笑顔がとても冷たいものだった、みたいになってしまうじゃないか?」
「みたいに、じゃなくそうだったんだ」
悪びれる風も無くそう応える橘が、銀将を角の目前に指す。やっと、駒の争奪戦が始まろうとしている。しかし二人の意識はこの盤上でなく、交わされる互いの会話にあった。
「……正直に言うが、俺は本当におまえが怖かったんだ。たまに、人間じゃないような表情を、おまえがするから……」
「ああ、そうだったのか」
躊躇いがちにそう言うと、奏一郎は再び目を丸くしてから、くすくすと笑った。そして、そんな彼の口から紡がれる短い台詞。
「正解だよ」
一気に場を静かにさせてしまえるような、呪文のような台詞。
いや、この廊下は静かなはずが無いのだ。人々は縦横無尽に行き交っているし、上気した彼らから放たれる言葉たちは、耳に響く、はず。
にもかかわらず、橘の耳に彼らの言葉は入ってこなかった。
音量を0にしたテレビの画面を、ただひたすら見続けているよう。そしてそこに映るのは、儚げに微笑む、蘇芳色の着物を着た男。
風が吹いたから、ではない。風邪をひいたとか、そういうことでもない。今まさに、自分が鳥肌を立ててしまっているのは――。
しかし、目の前の彼は、ますます目を細めて。盤上を、徐に指差す。
「ここに銀を置くのは、正解。今のところは、ね」
そう言って、くすくすと笑った。
――……そういう、意味か。
「……はぁ……」
橘は、軽く項垂れた。突然の緊張が突然に解けたのを機に、肩と首の力が抜けてしまったのだ。結局、彼に調子が狂わされるのはいつものことだった。そしてその“いつものこと”が、たった今繰り返されただけだったのだ。現に、奏一郎はまだ笑みを絶やしてはいない。
彼の正体と言うべきものに、橘は一つ、近づいた気がした。
――……人を翻弄するのが好きな、単なる悪趣味の変態だ。
それ以上でも、それ以下でもない、はず。
そんなことを考えていると、
「お待たせしました~……」
三人分の食事を抱えた、親友の帰還の時がやってきたのだった。
将棋盤をひょいっと覗き込んで、
「うわぁ……まだ全然勝負進んでないんじゃん……」
と不満そうな桐谷。その手には、どこで手に入れたのかわからないトレーの上に、カレーが三つ並んでいる。
「おや、いい香りだな」
「うん。カレーにしたー……そんな気分だったから。甘口と中辛と辛口と激辛とあったから、辛口を除いて買ってきた……」
「そこは大人しく激辛を除け……!」
橘の突っ込みに、桐谷はどこか嬉しそうだ。
トレーに載っているカレーは三種類。左から、通常の色を帯びているのが甘口、少し赤みが強いのが中辛、そして、他二つのカレーよりも明らかに色の異なるのが激辛だろう。赤よりも緑に近い色をしている。
これは危険だ。本能がそう告げている。
「これ、みんなで一種類ずつ食べよー? ……ただし条件があります。俺は甘口にしてください……」
「勝手に激辛を買ってきといて何だおまえ!? 嫌がらせか!?」
突っ込みにキレが出てきたことに、桐谷はご満悦な表情だ。一方の奏一郎は、首を傾げながらトレーを見つめている。やがて、口から出てきた台詞。
「ああ、これが俗に言うカレーライスというやつか」
そう言って、緩やかに微笑んだ。
またそんな冗談を言っているのか、と少々訝る橘。だが、奏一郎が嘘を吐くような人間には見えないのも事実だった。
「……おまえ、カレーを知らないのか」
「ああ。インドでよく食べられていることは知っているが、実物を見るのは初めてだなぁ」
のほほんと答える奏一郎。その笑顔に陰りは無い。どうやら、嘘を吐いてはいないらしい。
つくづく、この男がどんな生き方をしてきたのかわからない。どうやったらカレーライスを避けて生きてこられるのだ。
橘のそんな疑問をよそに、桐谷がゆっくりと口を開いた。
「……あ、ていあーん。勝負しよー……? この将棋の勝者が中辛で、敗者は罰ゲームとして激辛食べんのー……」
言った瞬間、橘は親友を横目で睨む。
――また余計なこと言い出したな、こいつ。
「おい、桐谷……」
「なにー……? ……あ、ちなみに“敗者”って歯を治療するお医者さんのことじゃないよー……?」
「いや、それはいい。わかってる。俺が言いたいのは、お前が勝手に買ってきたんだから、この激辛はお前が処理をしろってことだ」
えー……、と言いながら、桐谷が唇を尖らせる。
橘からすれば二十六、七の、しかも自分と同級生の男がそんな仕草をするのを見るなんてそれだけで絶望的、耐えがたい屈辱だ。さらに言うならば、この男は紛れもなく自分の親友である。橘はなんだか悲しくなってきた。
しかしこの親友が、そう簡単に口を閉じるわけがないことも重々承知している。
「だって俺、甘口しか食べられないし。むしろ甘口が俺を呼んでるし……」
「呼んでない、幻聴だ。ほら、さっさと食えっ」
奪ったスプーンに緑色のカレーを乗せ、無理やり桐谷の口元に持っていく。が、対する桐谷も黙ってはいない。普段はボーっとしている割に、自らの舌の危機には敏感だ。
「絶対に嫌だー……」
口を両手で覆い、完全にガードしている。スプーン片手では口に運ぶのは至難の業だ。それをわかってやっているのだろう。思わず、スプーンを握る手にも力が入る。
「ちっ、考えたな……っ」
「絶対甘口じゃなきゃ嫌ー……」
「じゃあなんで買ってきちゃうんだ激辛を!?」
再び騒がしくなる囲碁・将棋部。今日のこの部はいつになく賑やかなはずだ。
「はっはっは。君たちは仲がいいなぁ」
羨ましいことだ、と付け加えて、奏一郎は。
「まあ、いいじゃないかたちのきくん。自分を嫌いな者によって消化されるなんて、その激辛カレーとやらが可哀想だ」
「う……」
それも一理ある、のか? とスプーンを置く橘。その傍ら、ほっと一息ついた桐谷がいた。
穏やかな彼の言葉は、橘の性質を明らかに読み取ったものに思えた。
橘は、食を愚弄するような行為が大嫌いだ。たまたま気まぐれにテレビを点けると、目に留まるのは眉を顰めてしまうような光景ばかり。
料理対決の番組など、彼は絶対に観ない。
調理ができないことをひけらかし、さらにはそれを実践してみせる者が目に映ることがままある。たとえそれが一瞬だったとしても、非常に不快だからだ。もしそれが本当に料理が下手ならある程度仕方ないとは思うが、笑いを誘おうだとかそれで己を目立たせようと画策しているだとか、そういった可能性もある。
そういう理由から、そういった類の料理番組の映像が視界に入った瞬間に、彼は黙ってテレビを消すのだった。
自分で畑から野菜を作り、それを食している奏一郎のことだ。彼もまた、自分と同じような思考の持ち主なのかもしれないな、と橘は思った。ただ、目の前に桐谷がいるからその発言をうまいこと濁しているだけで。
そんなことを思っていると、興味津々げに奏一郎が口を開く。
「君はその激辛カレーは嫌いか?」
「……できることなら食べたくないが、別に嫌いではない」
「そうか。僕は食べたことが無いから好きも嫌いも無い。だから、ここはこの将棋の敗者がその激辛カレーとやらを食べることとしよう」
にっこりと、そんな一見平和的な意見を出されては、反対するのもおかしな話だと思わされてしまう。
「……わかったよ」
観念したように、溜め息混じりにそう返す。人生、時には自分から折れることも大切だ。
「よし、じゃあさっさと昼食にありつこうか? 僕からだったな」
奏一郎は目を細めて、再び盤面に視線を注いだ。橘は彼がなぜそんなに嬉しそうなのかわからず、何か意図があるのかとまた妙に勘繰ってしまう。しかし当の奏一郎はというと、
「うん、まだ勝負はわからないな。どちらにも転じそうだ」
そう呟き、口角を上げる。
そして、次に彼の放つ台詞が、橘の手を止める――ひいては、勝負の行方を握ることとなる。
「うーん、カレーかぁ。どんな味なのか楽しみだなぁ」
歌うように、ご機嫌な風にそう言う彼。そのたった一言が、真面目な橘を起動させるスイッチとなった。
――……そうか。こいつ、カレーは初めてなのか……。
……そうなると、だ。
もし万が一俺が勝ってしまえば、こいつは初めてのカレーで激辛を味わうことになってしまうんじゃないか……!?
橘がそんなことを悶々と考えている間にも、奏一郎は角行を進めている。対局者が自分の思わぬ方向に悩み始めたことなど、彼はまだ知らない。
「どうぞ、たちのきくん」
「あ、ああ」
それだけ返し、橘は眉を顰めた。彼の意識は盤上でなく、脳内の自分との葛藤にあった。
――もし俺が、本当に万が一勝ってしまえば、こいつは初めてのカレーで激辛を経験することになる……。いくら普段からわけのわからないこいつでも、仮に変態だとしても、それはちょっと……可哀想なんじゃないか? これが元でカレーがトラウマになったりして、二度と食べたくないなんて思い始めたら……。それは、俺にとってのチョコレートと同じになってしまうんじゃないか? チョコレートを避けて生きていくのは大変だが、カレーもなかなか大変だぞ。いや今まで避けて生きてこられたらしいがこれからもそうとは限らない。チョコにとってのバレンタインのような行事がカレーに無くとも、これから先、何かしらの付き合いで食べなくてはならない事態に陥ってしまったらどうなる?
……いや、待てよ。
俺がこいつに関してそこまで考慮してやる必要性がどこにある? こいつにはたしかに世話になったことはあるがそこまで親しいかと訊かれたらそんなこともないだろうし、いやしかし人として……。
* * *
「……たちのきくん、長考だなぁ」
のんびりとした笑みを携えながら、奏一郎はそう呟いた。橘が険しい表情で沈思黙考している姿は非常に誠実に見える。
それにしても……初めての将棋でそこまで根を詰めるとは、それほどまでに“激辛カレー”とやらは辛いのだろうか……。そんなことを奏一郎はぼんやりと思った。
まあ、それくらいで不安になることは無いのだけど。
人生、何事も経験だ。たとえそれが辛苦だとしても、そんなものはほんの一瞬。過ぎて笑い話にでもなってしまえば、最高なのだけれど。
そうならない、ときもあるけれど。
「心屋さーん。カレー冷めちゃうよ……?」
桐谷が一人、興味無さげに盤上を覗き込む。その右手には、まだ使われていないスプーンがしっかりと握られている。それを見た碧眼は、ふっとその色を柔らかくさせた。
「桐谷くんは僕たちに構わず、先に食べてていいぞ?」
そう言うとこくん、と頷いて、甘口カレーを頬張って、「んまい……」と桐谷は目を細めるのだ。つくづく、どこまでも子供っぽい。
「……ほんとうに、君たちは優しいなぁ」
橘が集中しすぎているせいか、桐谷が食欲に目覚めてしまったせいか、その声は誰の耳にも届かなかったのだが。それは静かに、密かに廊下に沁みついた。
彼らのさりげなく、だが愚直なまでの優しさを、愚かと蔑むか、憧憬と捉えるか。そんなものは個人の自由だ。
だが、奏一郎は躊躇うことなく後者を選ぶだろう。
自分には、存在しないものだから、なおさら。
だからこそ、気をつけなければ。
用心、していなければ。
心は変わる。移ろう。一つの場所に留まってはくれない。
いつまでも、同じ気持ちではいられない。
この羨望も、道を踏み外してしまえば――嫉妬の材料に、なるのだから。




