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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十章:かわるもの ―霜月― 其の六

 奏一郎の笑顔の誘いに橘は、

「囲碁ならわかるが、将棋のルールは知らん」

 と一蹴した。それでも、白髪の彼がその笑みを絶やすことはなく。

「教えようか? 僕も初心者相手に本気出さないし」


 その純粋な気持ちで放たれた彼の台詞は――橘のプライドに掠り傷を負わせることとなる。

 橘は優しい反面、とかく奏一郎のからかいや挑発には容易く乗ってしまうという短絡的なところがあった。引きつり笑いと共に、眉間に深い皺を浮かべている。


「いいだろう、教わってやろうじゃないか……っ!」

「? なんでそんなに黒い空気をまとっているんだ?」

 奏一郎がクエスチョンマークを浮かべたところで橘がどかっと畳に座り、将棋盤に駒を並べていった。パチパチ、と小気味よい音が、廊下に響き渡る。そしてその音が鳴り止んだとき――碧い目は丸くなった。


「……たちのきくん。将棋は初心者、なんじゃなかったのか?」

「え?」


 奏一郎が目を丸くしたのは無理もない。橘が将棋盤に並べた初手に、間違いなど無かったから。しかも一瞬たりとも、躊躇いもなかったから。


「…………」


 さらに奇妙なことに、橘も目を丸くしているのだ。自分のしたことに、自分で驚くという妙な展開が、対局開始前であるにも関わらず待ち構えていた。

 数秒間、将棋盤に視線を送る両者。他方で、桐谷は「そんな難しいもんなの?」と言いたげに首を傾げている。

 しばらくして橘は、ああ、と納得したような表情を浮かべた。

「……たしか……まだ祖父が生きてた頃だから、俺が小さい頃か。祖父が一人で将棋を指しているのを何度か見たことがあった。それで無意識に、覚えてしまっていたのかもしれないな」

 それを聴いて、奏一郎はくすくすと笑う。

「……へぇ? そんな昔のことを覚えているんだな」

「なんだ、悪いか?」

「いや、全然」

 静かにそう言って、奏一郎も駒を並べ始める。綽然たる笑みは、穏やかな秋の日差しによく似合うように橘には感じられた。

「君らしくていいな、と思っただけだ」

 奏一郎も慣れた手つきで初手を並べる。対局はいつでも始められる段階だ。


「それぞれの駒の動きはわかるかい?」

「たぶんな。俺がわからなくなったら即座に教えろ」

「ああ、いいぞ」

 橘の素直とも頑固とも言える応えに、奏一郎は嬉しそうに目を細めた。桐谷は、先手の親友が歩を進めたのを見て、

「きょーやも心屋さんもがんばってねー……。俺、お昼買ってくるから~……」

 それだけ言って、自身の氏名を示そうとするかのように、ゆらゆら、と髪を空気に漂わせて人波に呑まれていった。学生が大半を占める群衆では、桐谷の頭が一つ、彼が階段を下るまで確認できた。どうやら、将棋に興味は無いらしい。


 いつの間にか野次馬も、どこか別の場所へと足を運んだようで。盛況な中にも静けさの漂う廊下。十年前と変わらぬ落ち着いた雰囲気を取り戻した囲碁・将棋部がそこにはあった。

 静かな廊下に不規則に響くパチン、という音には心なしか、心身を落ち着かせる効果があるように思える。橘の一手、一手を吟味し、彼もそろそろコツを掴んだらしい、と判断したのか、

「さて、じゃあ今までのは練習ってことで。たちのきくんもわかってきたみたいだし、真剣勝負としようっ」

 そう言う奏一郎は、いつになくご機嫌な様子だ。しかし“真剣勝負”と言う割に、彼の表情は緩みっぱなし。“真剣”とは程遠い表情でそんなことを言われても説得力に欠ける。誰がこの憎たらしいにへらとした呑気な顔を突き崩せるだろうか、と一瞬でも思わざるを得ない。


 しかし――同時に、思うことがある。


 それは――。


「さぁ、君が先手で」

 思考は毎度のことながら、目の前の男に閉ざされる。橘ははあ、と息を吐きつつも、歩をひとつ前に進めた。


「それにしても。おまえ、将棋やるんだな」

「おや、意外かい?」

 そう尋ねつつ、奏一郎も歩を進める。そしてそのとき、橘は強く思った。彼から放たれる一手一手の音が違う、と。橘は言わずもがな、隣で対局をしている現役の将棋部員の発する音とも違う。言葉では言い表し難い気迫が、どういうわけだかそこには込められていた。

「……いや、むしろぴったりだ」

 銀将を進めると、すぐさま相手の応手――金将に歩を指し返す。


 橘は幼き日の自分と、祖父の会話を思い出していた。『相手の一手、一手を先読みすること、それが将棋なんだよ』と――朗笑を浮かべつつ、強かな音を立てつつも駒を片付けていた。そんな祖父も、もうこの世にはいないのだが。

 そんな懐旧の情を引き起こしていると、ふと相手の――つまりは奏一郎の表情が視界に入る。

 変わらず、それはにこにことしていて、朗らかで。どこかそれは、祖父のそれを想起させるものだった。

「……ずいぶんと、楽しそうだな」

「え?」

「おまえだ」

 ああ、僕か。そう言って、彼はふふっと笑みをこぼす。

「そりゃあ楽しいさ。いつもは家で、一人で指しているんだからな」

「……一人で、か」

 祖父と一緒だな、と、自分のことでもないのに妙な親近感が湧き上がる。彼の穏やかな表情もだが、着物に白髪という老人じみた外観もそうさせるのだろう、と橘はぼんやり考えた。その最中にも、奏一郎は「それに」、と付け加えて。

「……単純に、嬉しいからな」

「“嬉しい”? ……何がだ?」

 そう問うと、男性のものとは思えないほどの妖艶な笑みが、まっすぐにこちらに向けられる。そして彼の口から、言の葉はゆっくり紡がれていった。


「僕を恐れていた君が、こうして僕と向かい合って対局してくれている。ものすごい進歩だとは思わないか?」


 そのあっけらかんとした一言に――橘の手が止まる。そう、彼は。この目の前にいる存在を、恐れていた。その理由を、出会ったばかりの頃の小夜子に話したことがある。


 一緒にいると。話していると、怖くなるから。まるで、人ではない何かと話しているような気がして。


 そう感じていた自分を思い出していると、興味津々げなおどけた声が、耳を掠めた。奏一郎はにやにやと人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべつつ、

「おや? それともまだ僕が怖いけれど、男の意地としてそう言えないから無理にここにいるのかなぁ?」

 そう言って嘲り始める。この挑発的な発言に、頬の筋肉が引きつり始めたのを感じずにはいられない。

「おまえなんか怖いわけあるか、さっさと指せっ」

「そうか、それはよかった。嬉しいなぁ。ちなみに、今は君の手番なんだけどな?」

「くっ……」

 橘の知らぬ間に、相手は飛車を指していたらしい。なんたる素早さ、俊敏さ。やはりこの人物には、色々な意味で未だに勝てる気がしない。

 しかしこのやり取りの中で、橘はまた別の恐怖感に囚われていた。『怖いわけがない』――そんなの、嘘っぱちだ。


 ――……知っていた……のか。俺が、こいつを恐れていることを……。


 そんな感情、自分は微塵も表に出していなかったはずなのに……彼がどこで勘付いたのか見当もつかない。いや、“勘付いた”なんてレベルではない。確信を持っているから、そうはっきりと言えるのだろう。普通の人ならば決して抱くことの無い確信を、この男は常に携行している。もし祖父の言うように将棋が『相手の一手、一手を先読みする』ものならば、奏一郎という男ほど将棋に向いた存在はいないだろう。


 そんな考察を頭の中で繰り広げている橘の長考に、奏一郎は雑談と言う形で間を補おうとしているよう。

「将棋の面白いところは、相手の駒を自分の駒にすることができるところにあるよなぁ」

「……祖父も同じようなことを言っていた。他にも、『一見、悪手に見えてもそれが相手を誘うこともある。後に、悪手から好手に化けることもある。だから無駄な一手など、盤上には存在しない』……とも、言っていたな」

「ほう、なかなか奥深い言葉だ」

 その言葉に対する返事の代わりに、桂馬を進める橘。向かいに腰掛ける奏一郎は、口を閉ざしはしなかった。


「将棋は人生に置き換えることもできるからなぁ。それもまた、魅力の一つだ」

「人生……ねぇ」

「何も決まってなんかいない、ってことさ。いつだって味方が味方であるとは限らないし、王様がいつまでも同じ場所に君臨していられるとも限らない。慎重で良い攻め方のはずが、ちょっとした失敗で形勢逆転されることもある。逆に悪手とされている無鉄砲で向こう見ずな攻め方をして、相手を翻弄させることも稀にある。……人生と似ている。いつまでも、同じようにはいられない。駒を動かさなければ、前に進めない。変わらなければ、いつまでも足踏みをするだけ……」

「…………」


 彼と、こんな穏やかな気持ちで話し合ったのは、もしかしたら橘には初めてのことだったかもしれなかった。いつも自分は振り回されてばっかりで、そして何よりこの存在が恐ろしくて。まともに落ち着いて接したことなど、今まで本当に無かったのではないだろうか。

 それが今回に限っては、何故奏一郎の話に聞き入ってしまっているのか……。もし明確な答えを挙げるとするならば、それはやはり“共感”だ。


 十年前とは違う学校。当時とはデザインの違う制服。知らない顔ぶれ。出し物の内容こそ変わっておらずとも、当然のことながら当時の部員はここにはいない。そして、大人になりつつある、少なくともそうなろうと足掻いている親友。


 変わっていくのだ、皆。そうでないと、前に進めないから。


 季節は夏に別れを告げ、秋に差し掛かり、冬を迎えようとしている。どんなに渇望しようと、季節は一つの場所に留まってはくれない。


 日差しの色も、今こうしている間にその色を変えていく。それは、目の前の白の髪を容易く、柔らかな色調である花葉色に染めていった。透明感のある空気に晒されたそれは、蜘蛛の糸のようにとても美しく見えた。


「花は枯れゆくもの。雲は散りゆくもの。時は、移りゆくもの。人は、老いるもの。……不変のものなど存在しないというのは、哀しいものだな」

 パチン、と駒が鳴く。

「でも、だからこそ人間は、変わらないものに恋をし続けるのだろうね」

 そうじゃなきゃ哀しすぎるから、と奏一郎は微笑んで付け足す。


 使い古された将棋盤の上には、どちらが有利なのかすら予想もつかない勝負が繰り広げられていた。これから、変わっていくのだ。投了のそのときまで、盤上は変わり続ける。


 だけど。


「……もし、変わらないものがあったとしたなら……それは……」


 そう言いかけて固く口を閉ざす奏一郎は――橘の目には、どこか寂しそうに映った。彼がその先に何を言いたいのか、皆目わからなくて、検討もつかなくて。だが、彼が物憂げに“何か”を考えていることだけは確かで。それは俯いた彼の表情から、微かに読み取れるものなのだけれど。


 恐れの対象であった彼にそんな表情をされても、調子が狂うだけだ。いやいつも狂わされまくりなのだが、今回はその深刻度が違うように感じられる。


「……まあ、そんなものあるかどうかはわからないけれど。とりあえずたちのきくんが、僕を恐れとして見なくなったことは嬉しい限りだ」

 そう言って、再び朗らかに微笑む彼。場の空気が弛緩していく感覚が、体中を駆け巡ったのを橘は感じた。そう、この奏一郎という男は――場の空気をいとも簡単に支配してしまう、そんな存在だった。


 この目の前の男と初めて出会った日のことを、思い出さずにはいられなかった――。


 四ヶ月前のことだ。


 世間的に夏休みに入ったばかりの、うだるような暑い夏の日だった。幾重にも束ねた針が刺さってきているかのように、ちくちくとした痛みの走る日差しに当てられながら、地図を片手に慣れぬ道を歩いた。長年この土地に住む橘でさえ聴いたことも無い、何を売っているのかも店名だけではわからない。そんな場所をゴールとした地図だった。

 やっと辿り着いたその店は、今にも崩れてしまえそうな古い木造住宅。うっすらと店名の書かれた看板が、この店が長年ここに在ることを暗に示している。シャッターの開けっ放しの店に陳列された商品に一瞥だけくれてすぐにそれを後悔し、仕切りなおそうとして、

「ごめんください」

 そう言って中に入ったのだった。


 その店に足を踏み入れた瞬間――橘は、異世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。


 外とは打って変わって涼しい空間。通過していく耳障りな蝉の声も、ここでは躊躇いがちにしか聴こえない。外界と、なにか特殊な空気で遮断されたようなここは……今まで感じたことのないくらい、澄んだ場所に思われた。

 しかし、そんな呑気なことをいつまでも思ってはいられない。大事な話があるから、自分はここに来たのだ。そう、ここを――『心屋』を、失くすために自分はここにいるのだ。


「ごめんください」


 肝心の店主が出てこない――そう思って、もう一度声をかけると。


「ああ、いらっしゃい」


 返ってきたのは、低くも落ち着いた声。店主が男性であることは聴いていたが、その声があまりに若いことに橘は驚いていた。

 そして明かりの無い、真っ暗な部屋の奥から出てきたのは――非常に現実離れした存在だった。


 目の前に現れたのは、事もあろうに真っ白な髪を揺らし、水浅葱の着物に身を包んだ男。さらに、その目の色は碧色ときた。橘は動じずにはいられなかったし、何か声を発することすら困難であった一方、その奇抜な存在は、笑みを含めて言ったのだ。


「こんにちは、“たちのきくん”」


 出会って早々、このあだ名を付けられたことには触れないでおくとして。


 彼と目を合わせた瞬間、暑さで汗ばんでいたはずの自分の体が、水風呂に入れられたかのように一気に冷えたのは確かな感覚だった。暗闇で突然、猫の光る目を見てしまったような、妙に不気味な感覚。何故か、など考えるまでもなく。この店主は、本当に笑ってなど、いなかったから。目を、細めているだけ。口角を、少し上げているだけ。ただ、それだけの表情だったからだ。

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