第十章:かわるもの ―霜月― 其の五
「あ、きょーや。きょーやさ、さっきは『戸籍上は兄妹』って言ったけどさぁ」
「ん? ああ」
「両親、離婚したんで。もう血でも戸籍でも兄妹じゃないんだろうね、俺ら……」
「ああ、そうだな……。……おまえ。今、さらりと重要なこと言わなかったか?」
「ふぇ?」
橘が冷や汗をかく一方で、桐谷は呑気に小首を傾げている。
「『ふぇ?』じゃないっ! いつ離婚したって!?」
「んーっと、俺が二十歳過ぎてそこそこのとき……? なんか、原因は性格の不一致だってさ。なんであの二人結婚したんだろね、そもそもの話……。つか、言ってなかったっけ?」
頷く橘に、桐谷は眉を八の字にする。捨てられた子犬のような目だ。
「ごめん……俺、知らず知らずのうちにきょーやに秘密作ってたなんて……。自分でも自分が信じられない……」
そう言って暗い顔をする茶犬。自分が橘に秘密を作っていたことが、それほどまでにショックだったらしい。
「いや、別にそれはいいんだが……おまえの友情、たまに怖いな……」
別に全てを曝け出す必要も無いだろう、と心の中で突っ込んでおく。
「まあ、さすがに離婚したことは知ってるけど、静音はまだ知らないんだよねー……。俺たちが本当は兄妹じゃないってことだけは」
そのゆっくりな台詞に、「だろうな」と返す橘。
――……やはりまだ告げてなかったか、あの親だしな。
橘は、桐谷の養親――つまりは静音の両親にも何度か会ったことがあった。数分話しただけでも、父親は家庭を顧みることをほとんどしない性質で、母親は放任主義であるのがわかる。実の子である静音を可愛がることはあっても、深くは干渉しない――独立した、浅薄な関係なのだ。
だからと言うわけではないが、桐谷と静音が実の兄妹でないことを、彼らが静音に教えているとも思えなかった。「特に言う必要も無いでしょう?」などとあっさり返してくる静音の母親が、ありありと脳内に浮かぶ。
「……いつ教えるんだ? それ」
「未定。……でも……二十年後とかそこらじゃん? もうお互いに誰かと結婚して、幸せな家庭を築いたら、俺から言うんじゃないかなぁ……」
そう言い終わってから彼は、「あ」と思いついたように、
「でもその頃にはもしかしたら、疎遠になってんのかな……そんなこと教える必要も、無いくらいに」
と付け足した。
その時の、彼の表情は――。
少なくとも、橘の目には寂しそうに映ったのだった。桐谷も、静音に恋心こそ抱いていなくとも、たとえ血の繋がりが無くとも、“兄”として愛しているのだろう。先ほども“可愛い妹”と彼が口にしていたことを、橘は忘れてはいない。
離れてしまうんじゃないか――。その、漠然としていて、靄がかかったように先の見えない不確実な未来を彼は悲観している。互いを大事に想っている気持ちは変わらないはずなのに――この兄妹は、二人ともが同時に片想いをしているようなものなのだ。
その時だ。小気味良い音を立てて、職員室の扉が開いた。中から現れたのは、二人の見知らぬ顔だ。
「おや、卒業生の方ですか?」
文化祭であるのにどこぞのブランド物であろうジャージを身に纏った、若い男性だった。職員室の目の前の廊下に座り込む桐谷の姿に、目を丸くしている。恐らく体育教師だろうと橘は推測した。年齢もそう変わらないようだし、人相の良い彼は話しやすそうだ。
「ああ、そうです。中に、杉田先生はいらっしゃいませんか?」
「えーっと、ちょっとそこでお待ちを!」
そう言うと教師はバタバタと職員室の中に入っていき、橘は閉じられた扉の前で待たされることになる。振り返ってみると、まだ親友はぺたりとそこに座り込んだままだ。
「桐谷……いつまでそうしてるんだ」
そう注意するとこの親友は立ち上がるどころか、そのままそこで和み始めた。日向ぼっこを始めたように、ぐでんと廊下にうつ伏せになっている。
「んー……ちょうどいい冷え具合の廊下……」
「桐谷、頼むからやめろ。その前に“ちょうどいい冷え具合”ってなんだ!?」
橘のツッコミが決まったところで、再び扉が開かれる。
「お待たせしましたー」
先ほどの体育教師が、一枚の紙を持って再び現れた。
「えー、申し訳ないんですけど今の時間帯、杉田先生は裏門の見張りをしておりまして、校舎内にはいないんですよ。午後になったら担当のクラスの劇があるので、その時間になら会えるかもしれませんけど……」
「そうですか……」
――『担当のクラスの劇』――ということは、どうやらあの二人の担任らしいな。
そう考えていると、目の前にいる体育教師が、何やら困った顔をこちらに向ける。
「あのー……後ろの方、ちょっと人目に留まりますので、廊下で横になるのは遠慮していただきたいんですが……」
「すみませんすぐに止めさせます。ありがとうございました」
きっぱりとそう宣言し、橘は親友の体を勢いよく起こす。イメージとしては、マグロを網で持ち上げる漁師に近い。
「おい、桐谷。さっさと行くぞ」
「んー……杉田ちゃんいないの……?」
「らしい。劇を観に行けば会えるかもな」
それを聴いて、ぱあっと表情が明るくなった桐谷。いや、表情はいつもと変わらない無表情。雰囲気が明るくなっただけだ。
「そっかぁ。劇観に行けば一石二鳥……いや三鳥だねぇ……」
「三鳥?」
橘が眉をしかめる。一つ目は桐谷の文化祭に来た本来の理由――つまりは劇を観るという目的が達成される、ということ。二つ目は、二人の恩師である杉田に会えること。そして三つ目は――橘には、想像すらできないのだった。どう考えても、三つ目が出てこない。が、答えは当人が自ら述べるのだった。
「セーラー服の女子高生にたくさん会える……」
「それが答えか」
むしろ、それが彼にとってのメインイベントになってやしないか……そんな一抹の不安を覚えながら、橘は親友を連れ、職員室から離れるべく歩を進めた。
どこかで軽音楽部がライブでも行っているのか、けたたましい音が耳に入ってくる。それでも廊下に溢れる陽光や雰囲気は至極穏やかで、ゆったりとした落ち着いた空気がそこには流れていた。それには、傍らの人物の醸し出す雰囲気も影響しているのかもしれない。
「ねーね、お昼早めに食べちゃおー? 劇始まる前はゆっくりしたいしさー……。俺、クレープ食べたいクレープ」
「それが昼飯か? おまえ、呆れるくらい甘いもの好きだな」
何かにつけ「甘いもの」、口を開けば「甘いもの」、明日も明後日も「甘いもの」。十年前に初めて知り合って以来、何度この友人からこの台詞を言われたことか。恐らく、五百回では足りないだろう。
「えー、でもさ、きょーやも甘いもの好きでしょ……?」
「まあ、別に嫌いではない程度だが……」
「バレンタインに貰ったチョコ、どんなに多くても食べきるくせに……?」
「うっ……おまえ、それは言うな」
橘は、“チョコ”もしくは“チョコレート”という単語が一番苦手だ。過去の嫌な思い出が、その甘ったるい味の記憶が瞬時に蘇るからだ。
「だってあれは……食べきらないと失礼だろう」
「あれだけの量を……すごいよねぇ、きょーや……度胸のある男だねー……」
「ああ、ありがとな。とりあえず別の話に転換してくれ……頼むから」
チョコレートから離れた話題を提供してほしい、と橘に頼まれたら、それを桐谷が聞かないわけも無く。彼は彼なりに精一杯、思考をフル回転させて――。
「あ、そういえばさ。心屋さんも来てんのかな……」
「……そうじゃないか? 俺は知らないが……なんであいつの話になるなんだ?」
「んー……? 『チョコレートから離れなきゃ』→『バレンタインって素敵なイベントだよねぇ』→『洋菓子って美味しいよねぇ』→『和菓子も美味しいよねぇ』→『心屋さん来てんのかな』っていう、俺の思考回路……」
「おまえの思考回路、どこか壊れてないか……?」
言われてみれば、最後に彼と会ったのはいつだったろう、と考えてみると、二週間ほど前のことだったか。朝早くに突然に訪問してきたかと思ったら冷蔵庫の中を漁るはゴボウが溶けるだの抜かすは、挙句の果てには「スーツ貸して」という物欲を全開。冷静になって考えてみると、山賊と何が違うのだろう。上品かそうでないかの違いだけではないか。
ふと気になって「スーツを何に使うんだ?」と尋ねて「そんなに僕のことが気になる?」と返してきたときには息の根止めてやろうかと本気で迷ったくらいだ。
ちなみに、それが見た目も中身も不可思議の彼と交わした最後の会話であった。
「せっかくブロッコリーも大きくなってきたから、写メ撮ってきたのになぁ……」
「ブロッコ……? なんだ、育ててるのか……?」
まさかブロッコリーを栽培しているとはと、橘はやたら感心する。先ほどの静音との兄妹喧嘩のやり取りは、どうやら彼の耳にはほとんど入っていなかったらしい。
「違うって……まじ、きょーやボケ止めて……。俺、ツッコミとかできる自信無いし……。猫だよ、猫……」
「紛らわしい名前付けんな」
橘のツッコミにほっと安心しつつ、桐谷が携帯電話を開く。待ち受け画面には、“ブロッコリー”と名付けられた茶と白の入り混じった猫の、昼寝をしているところが激写されていた。まだ生まれたばかりの頃は他の三匹とは比べ物にならないくらい小さく、ひ弱そうな子猫だった彼女も、少しずつではあれど大人に近づいているようだ。
「後で携帯に送ってくれ」
「了解しました、大佐ぁ」
人通りは正午に近づくにつれ、さらに多くなっていく。朝に感じたものよりも、遥かにボリュームのある喧騒が廊下中を響き渡っていた。
「んー、でも……この人の多さじゃ、心屋さん見つけんのも無理っぽいねぇ……」
しゅん、と肩を落とす桐谷。一方の橘は、
「すぐに見つかるだろう」
と、やたらに自信ありげだ。
「なんで?」
と、問う前に――目に入ったのは、廊下にできた、過剰なまでの人だかり。
それほど広くない廊下に、興奮気味の人々の輪ができている。比率で言うと、学生:一般客=2:1、男:女=1:2と言ったところか。時折うめき声や歓声のようなものが上がり、かと思えば静まり返る。この繰り返し。あまりに人が多いので、その中心で何が起こっているのか見当もつかないのだが――。人だかりにはさらに人だかりができるもので。そしてさらに人を集めるという悪循環。
「なんだろね、あれ……」
「……俺の勘が正しければ、恐らくあいつだろう。……すいません、失礼」
そう見知らぬ学生に言うと見事に人を掻き分けて、橘は人だかりの中心へと足を進めた。時々振り返って、桐谷が後々通りやすいようにする配慮も忘れない。
そして、苦手な人だかりをどうにか乗り越えた、その先にあったのは――畳の上の将棋盤と、もはや結果の見えた対局。
さらには、
「……投了です」
将棋版を挟み、投了を告げる学生と、
「とても楽しい対局だったよ」
そう言って穏やかに笑う、蘇芳色の着物を纏った男性――言わずもがな、奏一郎だった。
周りからは、歓声に似た賞賛の声。
「すげー……将棋のルールよく知らんけど、すごいってのはわかるっ!」
「なんか、面白そうだよねー」
「あの着物の人めっちゃ強くない?」
ざわざわ、と密やかながら興奮した声が、人だかりを中心に起こっている。なるほど、将棋で道場破りのような行動を起こし、人々の注目を浴びていたというわけだ。
ぼそっと、橘が桐谷に告げる。
「な? あいつ、目立つだろ……?」
「すげーね、きょーや。行動パターン読めてきたんだね……?」
この会話の間にも、恐らく将棋部の部員であろう学生が、将棋盤を囲んで検討を始めている。その一方では奏一郎が先ほどの対局相手と、定跡について何やら話し込んでいた。
「そうだな。ここで銀を動かしたら、角の道を作ってしまうことになるでしょう? でもここに歩を置けば、角は敵陣に入ることができない。そしてこの金で角を取ってしまえば形成逆転もあったんだよ?」
「はー、なるほど……。ありがとうございます!」
「いえいえ。これからもがんばってな」
それだけ言って、まるで最初から気づいていたみたいに、彼は二人のほうにまっすぐ振り返る。
「……久しぶり、でもないか?」
朗笑を浮かべ、着物の居住まいを正す。その所作は非常に上品で、そこらの男性にはそぐわない艶気があった。
目当ての人物に会えて嬉しいのか、桐谷の声のテンションも上がる。変わらずゆっくりなのだが。
「心屋さーん、元気ー……?」
「ああ。君とは一ヶ月ぶりくらいだな、桐谷くん」
一般客や学生との対局――。十年前から出し物を変えないこの囲碁・将棋部に、橘は見事の拍手を送りたいところ。料金を取るわけでもなければ、さして時間を取らせるわけでもない。にもかかわらず毎年の客数は他の部と比べても最低。慣れ親しんでいる人間が少ないせいだろう、と推察できるのだが、今日のこの日だけは――囲碁・将棋部は未だかつてない輝きを見せたではないか。こんなに人目を集めることなど、今までなかったはずだ。
それには棋力の高さ以前に、否が応でも人の目を引いてしまう、この明らかに異質な存在がいたからであろうが。
「学校に早めに来たはいいんだが、将棋を指せるとあって楽しくてな。長居させてもらっていたんだ。どうだ、君たちもしないか?」




