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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十章:かわるもの ―霜月― 其の四

 上手く説明できる気がしない小夜子だったが、とりあえず口を開く。

「えっと……あの、猫ちゃんを引き取ってくれると言うので、それで……」

 小夜子が言い終わる前に、静音の目はこぼれんばかりに見開かれた。

「は!? なにそれ!」

 次に彼女は、自らの兄を振り返る。

「お兄ちゃん、小夜子のとこに連絡する時は一言私に言ってって言ったじゃん!」

「あー……」

 二、三回瞬きをしてから、

「ふつーに忘れてたわ……ごめんね」

 素直に妹に謝る兄。なかなか日常では見られない構図だ。

「え、じゃあなに? ひょっとしてもう、猫飼ってるってこと!?」

「ん。名前はブロッコリーだよ……」

「なにそれ!? 言ってよね! 私も猫見たいのに! ってかネーミングセンス悪っ!」

 きゃんきゃんと吠える静音が、散歩前の興奮した犬のように見えてくる。それを無表情で宥める桐谷は、さながら飼い主と言ったところか。平生、豪快な静音が顔を真っ赤にして必死になっている姿はなかなかレアだ。


 ――兄妹喧嘩かぁ……なんて微笑ましいんだろう。


 小夜子は今までもこれからも体験することのないだろう兄妹喧嘩に憧憬の視線を送ってしまう。一人っ子にとって、兄弟姉妹がいる状況というのは未知そのものだ。

 ふと、ここで小夜子は橘が、いつの間にか自分の傍らに来ていたことに気づく。先ほどまで兄妹喧嘩実施中の輪に入っていたはずなのに。

「……橘さん、どうしたんですか?」

「兄妹水入らずのほうがいいだろう、たまには」


 ああ、やはり人を気遣っての行動だったか、と妙に納得してしまう。

「それにしても、ですけど……。桐谷先輩と静音ちゃんが兄妹だったのももちろんですけど、橘さんが静音ちゃんと知り合いだったとは、驚きです……」

 小夜子は先ほどの静音を思い出す。橘を“恭兄”と呼んでいることから、なかなか親密な間柄なのだろうことは窺える。

「桐谷の家に行くようになってから、顔を合わせることは時々あったからな」

「あ、なるほどです」

 ということは、単純に考えても十年前から知り合いだったということ。それなら“恭兄”と呼び慕うのも頷ける。

「俺は一人っ子だったから、妹のような存在ができたのは嬉しかった記憶がある」


 ――橘さんも、一人っ子なんだ。


「兄弟がいないと、ああいう喧嘩もできないですから……羨ましいですね」

 正確には目の前で繰り広げられているのは喧嘩というよりも、じゃれ合いという感じだ。

「まあな。面倒が少なくて済む気もするが……家で独りになる時間が、多くなるからな」


 小夜子は痛いほど、彼の台詞に共感できた気がした。もし自分に兄弟がいたなら、喧嘩もしたかもしれない。だが、その分得られたものもあったろう。父親と二人暮らしになることもなかったろう。独りになることも、独りを感じることもなかったかもしれない……。


 ――……もしそうだったら、私は今頃どこにいたんだろう。


 そんなことをぼんやりと思っている時だった。顔を未だに赤くさせて必死に猛抗議している親友を、視界に捉えたのは――。

「……あれ?」

 ――そういえば静音ちゃん、なんでさっきから顔をあんなに赤くしてるんだろう。なんか、さっきの……恋の話をしているときの静音ちゃんと、おんなじ感じがする……。


 そして、この時。

 小夜子の、普段はまったく活動していない女の勘がここぞとばかりに発揮される。


「……ま、まさか!」


 ――静音ちゃんの好きな人って……橘さんなんじゃ!?


 そう思えば合点がいく。きっと顔を今赤らめているのは、思いがけず想い人に会ってしまったことへの、隠し切れない嬉しさのせいなのだ。


 ――橘さんはすごく優しいし、容姿も素敵だし……恋するのもわかるよ、静音ちゃん!


 あんなに顔を赤らめて、恋する乙女は違うなぁ、可愛いなぁと思うと、自然と頬が緩くなる。それに加え、隣にその想い人がいるのだから、顔面の神経が余計に緩々になってしまう。

「……ふふふ」

 小夜子はにまにま笑いを抑えることができずに、思わず口から怪しい笑みを漏らしてしまう。橘もそれに気づいたらしい。不審者を見るのと近い目で彼女を見ている。

「……な、なんで笑ってるんだ……?」

「にまにまが止まりません……」

「…………」

 彼は言葉にこそしなかったが、強く思ったのだった。また一人、ボケ要員が増えたのだと。


 ちなみに、この一見穏やかなやり取りの間にも、兄妹のじゃれ合いは続いていて。

「お兄ちゃんっていっつも、そうだよね! 何かって言うと“忘れたー”とか“眠いー”とか!」

「あー……うん。静音はそんな俺の妹なんだよね……どんまい?」

 どうやらこの兄妹喧嘩は、常に兄が折れるという形で成り立っているようだ。十も離れているのに、どうしてこうもはっきりと下剋上が成り立っているのか、小夜子にはわからないが。


「……あ、そうだ! 橘さんたち、お暇でしたら一緒に回りませんか? 私たち、まだ劇の準備まで時間があるんですけど」

 こうして誘っておけば、静音と橘の距離も自然と縮まるだろう。そう画策しての台詞だったのだが、

「ありがとー、さよさよ。でも俺たち、今から職員室に行かにゃーならんの……」

 まさかの桐谷から、断りを入れられてしまった。

「そ、そうですか……」

 心なしか、静音も元気が無くなったように見えて、小夜子は項垂れた。可哀想に、橘さんと一緒に回りたかったろうに……と、その儚げな表情に憐憫の情を覚えてしまう。


「……じゃ、またねー。劇、観に行くからね~……」

 橘の背中を押しつつそそくさ、と桐谷は職員室に向かう。静音の想い人――と小夜子が勝手に思っている――橘が別れ際、

「あまり緊張するなよ」

 と静かに言葉を残して、去っていった。


 二人の背中を、見えなくなるまでじっと見つめている親友の、その切なげな表情に――小夜子は、密かに全面協力を誓ったのだった。


 秋。それは恋愛の季節。


 馴染みのないフレーズに親近感を覚えたその時。

 腹の虫が、ぐうと鳴った。


* * *


「……おい、桐谷」

「あい」

「どういう心境の変化だ?」

 二人は、職員室の前にいた。もちろん、杉田というかつての恩師に会いに来ることが目的だった橘にとっては、職員室に早々に辿り着けたのは嬉しいことだ。だが、

「なにがー……?」

「おまえさっき、『それよりも出店とかセーラー服の女子高生を見るのが常識でしょ』とか言ってたろうがっ!」

 常識の内容云々よりも、この親友に常識を語られた自分が彼には信じられないのだった。


「……んー……なんか、距離が欲しくて。ごめんねきょーや、巻き込んで」

「? ……おまえ、今日は謝ってばかりだな。何との距離だ」

 橘がクエスチョンマークを辺り一帯に散らすので、桐谷が口を開く。

「静音との」


 さらに、声を精一杯落としながら。


「……わかっちゃったからさ。静音の気持ち」

「…………」

 親友のその台詞に一瞬目を丸くするも、橘ははあ、と溜め息を吐いて、

「いつから気付いてた?」

 落ち着いた風にそう尋ねる。一方の桐谷は、何も無い左上に視線を送りながら答えた。

「んー……けっこう前から? 少なくとも三年前から、もしかしてーって……。確信ちっくなものに変わったのは、割と最近だったんだけど。はは」

 力なく笑う彼を見て――橘は、今朝から桐谷の元気がなかった理由が、やっとここへきてわかった気がした。


 人の気持ちを知るというのは時として、負担を強いられることでもあるのだ。


「……俺はさー、静音とは兄妹じゃん」

「まあ……一応。戸籍上はな」

 こくん、と頷くと、彼は膝を曲げて、廊下にぺたんと座り込む。その動作は十年前と何一つ変わっておらず。その既視感に、職員室の前だからと注意することも橘は忘れてしまっていた。

 ふと視線を上向ければ澄み切った秋空を、窓を通して見ることができた。秋らしい乾いた温もりを含んだ雲が、冷たい風に踊らされている――。その様を茶の目に映しながら、桐谷はぽつりと呟いた。

「……諦めて、ほしいんだよね」

 と。


 その言葉を、橘は予測していたのだが――他人事とはいえ、素直に受け入れるのは、あまりに哀しい気がした。彼は、静音のことをそれこそ幼い頃から知っている。そして同時に、彼女が兄への想いを蓄積させていく様も見てきたのだ。純粋で、幼くて、混じりけの無い、真っ白な想い。


 それを、その気持ちをこの兄は知っていて、諦めてほしいと言う。しかしその気持ちを、彼が迷惑に思っているわけではないことも、橘にはわかっていた。


「……俺はさ。静音には、まともな恋愛してほしーの」

 迷惑だなんて、とんでもない。彼の想いは、真摯なものだった。


「静音がどんなに俺を想ってくれててもさ、所詮は兄妹じゃん、やっぱり。血なんか繋がってなくてもさ……」

 戸籍上の兄妹だとしても。世間一般からしたら、二人は立派な兄妹なのだ。

「会社のこともあるし。これ以上信用失って、経営ガタガタにしてどうすんのっていうね……でもそれを、あいつもわかってるから。だから、何も言わないんだと思う……」

 静音は、優しいから。そう、静かに付け加えた。


「静音が何も言わないこと……俺、安心してた。たぶん、若気の至りとか気の迷いとか、そういうのだろうって。高校入って、普通の恋愛楽しんでくれたらいいって。そうやって、俺のこと忘れていってくれたらって。……でも、違ったみたい」

 ふう、と桐谷は溜め息をする。しかしいくら吐き出しても、腹の中は黒いものが渦巻いていて。


「最近、なんでかなー……。静音がさ、ますます俺のこと“女の子”の目で見てくるようになったんだよねー……」


 それは橘も、先ほどの二人のやり取りでよくわかったことだった。


 “兄妹”ではないのだ。彼女の、兄を見る目は。“兄”に対する、目ではないのだ。


「……アンパンマンじゃなくてもよかったんだ、俺」

「その話になるのか」

 突然ボケられては、条件反射でツッコんでしまうではないか。しかし彼の目は決してボケているわけではなく、むしろ真剣にまっすぐ前を向いている。橘は大人しく、再び口を噤むことにした。

「スーパーマンとかでも……よかった。とりあえず、強そうなのなら、なんでもいいからなりたかったなぁ……。重たい荷物でも、すんなり持ち上げたりできるじゃんかぁ、彼ら」


 重たい荷物。

 その言葉と、今朝の車内での親友との会話が、音を立てて繋がった――。


「……きょーやさん、なにか、ご意見をください」

 ご意見と言われても、反応に困る橘だったが……。長年の疑問を、この機会にぶつけてみる。

「……おまえの気持ちは?」

「ん?」

「おまえは静音を妹以外には、見られないのか」

「……無理です。だってさ、きょーや……俺、静音のオムツ替えたりしてたんだよ……?」

 歳の離れた兄妹ならではのエピソードだ。笑っていいのか悪いのかわからず、橘はただ苦笑を浮かべるのだった。


「……ちっさいころの俺にとって、静音はただ、癒しだった。来たばっかの慣れない家で、あったかくない家庭で、独りになっちゃうことも多いあの環境でさ。善も悪も楽も苦もなーんも知らない赤ん坊がいて……」


 本当に、“小さな生き物”。

 手足は短くて、頭も小さくて、髪の毛だってまともに生えていない。乳臭くて、やたら動き回る――。


 最初は、どう接して良いのかまったくわからなかった。『赤ん坊』を見ること自体、初めてで。未知の生き物を目の当たりにしているようで、少しだけ怖くて。


 同じ家に住んでいたのにもかかわらず、会うこともままならなかった。

 と言うのも“母”が、自分とその生まれたばかりの頃の赤ん坊を、なかなか会わせてくれなかったことも原因の一つ。恐らく彼女は、彼女の子供を自分に触れさせるのが憚られたのだろう、と幼いながらに桐谷は理解していた。


 それでも。

 興味だけは、尽きることは無くて。


 赤ん坊をベビーシッターに任せた両親が、出かけている隙に。


 恐る恐る、手を近づけていって。

 そして小さすぎる真っ白な手が、自分の人差し指を固く、ぎゅっと、握り締めてきた――。


「……すっごく、嬉しかった」


 湧き上がった、温かな感情。この小さな存在に必要とされているような、そんな錯覚まで起こして。

 嬉しかった。とても、嬉しかった。だけど。

 瞬時に温かな気持ちにさせてくれた、あの感情は、恋じゃない。


「静音は……俺の大事な、可愛い妹だから」


 彼の静かな呟きに、橘は少し心配になってしまう。


 その台詞は、いつか彼女に言うことになるのだろうと。

 そしてその“いつか”は、決して遠い未来ではないのだろうと。

 それを言われたとき、彼女はどんな気持ちでいるのだろうか、と。


 ――こいつは、抱えているものが多すぎる……。


 これから抱えるであろう荷物の大きさとその重さは、想像するだけで気が重くなる。


 それこそ、なれたらよかったのに、と思ってしまう。


 彼の言う“アンパンマン”に。“スーパーマン”でもいいから。彼が望む“強い人”に、なれたならよかったのに。


 しかし、もしそれが不可能ならば……。

 荷物を半分持つくらいのことはしてやろう、と橘は思う。


 かつて、自分がそうしてきたように。彼が、自分にそうしてくれたように。


「……まあ、あまり無理はするなよ」

「……はーい」

 気だるそうに挙手をする桐谷は、学生時代のそれを彷彿とさせて。懐かしい思い出を、目の前の窓が縁取った気がした。

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