第二章:であうひと ―葉月― 其の四
けたたましい携帯電話のアラームが鼓膜を振るわせる。お気に入りの曲を設定したのだが、朝に流れる音楽というのはどうも、嫌いになってしまいそうで怖い。
「……ん」
むくりと体を起こすと、積み重なった段ボール箱の中からオレンジのワンピースを取り出す。
身支度を整え、洗面所から茶の間へ。しかし奏一郎の姿はそこにはなかった。
「……奏一郎さーん?」
呼んでも返事はない。ふと、茶の間にある卓袱台に目線を落とすと、そこには一人分の朝食が用意されていた。焼き魚に卵焼きに漬物、裏返しにされた碗が二つ。絵に描いたような日本の朝食だ。味噌汁と炊き立ての米の香りが鼻をくすぐる。
そして茶碗の傍らに置かれていたのは、葉書大の書置き。
『裏庭に先に行っているぞ。』
書き置きの下には軍手だ。さらに卓袱台の下には濃紺の長靴。どちらもまだ新品のようだ。
眠い目をこすりながらも、小夜子にはだいたいの見当がついた。彼がいったい何を手伝ってほしいのか──。
* * *
朝の五時。夜明けの、生まれたばかりの日の光が、街を包みだす頃。人の気配は少なく、どこか澄んだ空気が漂っている。
そこに佇む奏一郎は水浅葱の着物に身を包み、裏庭で野菜たちを観察していた。軍手をはめた右手で、優しく野菜を撫でる。それらを見つめる碧い目は、どこか優しい雰囲気を持ち合わせていた。風呂で少し濡れた髪を掴むようにして、タオルで拭っている。
「……いい具合だ……」
その呟きを耳にしたのを最後に、小夜子は意を決して裏庭に面した障子を開いた。
「そ、奏一郎さん……」
麦わら帽子を目深に被り、両足にはぶかぶかの長靴を履き、両手には軍手をはめている。オレンジのワンピースがうまいこと、長靴と対照的な色となっていて。それを見た奏一郎は、
「ふふ……似合うな……」
と、さも可笑しそうに笑う。碧い目を細める彼に一瞬だけ、小夜子の心臓は揺れた。
「わ、笑わないでくださいよっ! ……ていうか、やっぱり変だから笑ってるんですか?」
「悪い、悪い。素直に着てくるものだから……」
そう言って、さらに目を細める彼。
──悪気があって言ってるんじゃ、ないんだろうなあ……。
からかわれている感が否めないが、小夜子はそう感じた。そして不思議と彼に笑われても不快な気はあまりしないのだった。
笑みを抑えた奏一郎は、畑のほうへと歩を進めていく。
「今朝は茄子を採るんだが、手伝ってくれるな?」
「は、はい」
裏庭の畑は、テニスコートの半面くらいの大きさだ。茄子や胡瓜、南瓜、トマトなどが成っていて、どれも朝日の光を受けて瑞々しい光沢を放っている。
「他にも薩摩芋やキャベツ、柿の木もある」
と、茄子を採りつつ彼が教えてくれた。
畑から一歩出てしまえば、そこにはやはり深い森が広がっていた。穏やかな風に揺れる木の葉の音に覚える、清涼感。ふと目線を外してみれば東京のビルの数々が地平線の彼方に小さく見えるのに、ここだけが田舎の風景を映している。合成写真を見ているかのような、そんな気さえ起こさせる。
ふと気になって、向かいで茄子を採る彼に向かって口を開いた。
「あの、奏一郎さん。なんで畑仕事をしているんですか?」
「ん? うーん、そうだな……」
そこに答えでも書いてあるのか、目線を空に向ける奏一郎。それでも彼は慣れた手つきで、素早く茄子を籠の中に入れていく。手際の良さに小夜子は密かに舌を巻いた。
「楽しくないか? こういうの。自分の手で、生命が作り出されていく。それを、味という形で実感できる」
「楽しい……そういう、ものでしょうか?」
「ああ。昔からこういうことをするのが夢だったんだ」
そう言って、愛おしげに野菜を見つめる彼。
「夢、ですか?」
『野菜を作るのが夢だ』なんて、小夜子は誰の口からも聞いたことがなかった。が、
「ああ、夢だ」
奏一郎は自信たっぷりにそう答える。
乾ききっていない潤った綺麗な白髪は、朝日を受けて眩しく反射する。碧い目も、空の色と一体化しているようで──……しばらく、見とれてしまっていたように思う。
小夜子は不慣れなせいかひどく手際が悪かったけれど、奏一郎は笑みを絶やさない。何も言わない。
そうしている間にも朝日は徐々に、街を力強く照らしていった。
* * *
「……さて、次は店番について、軽く説明をしておこう」
店の壁にかけられた時計は今、九時半を示そうとしている。
「昨夜も言ったがこの店の商品は、どれも“僕にとって”大切で価値のあるものばかりだ。大切に扱ってくれ」
店内は相変わらずごちゃごちゃしているし、商品はといえば“悪趣味なガラクタ”としか形容ができないのだが……。
そして何より、昨夜から発せられている「僕にとって」という言葉が気になった。それでも、素直に返事はしておく。
「……はい、わかりました」
「ちなみに定休日は適当。開店、閉店時間も適当だ」
「はい。……ええ……?」
我が耳を疑った。定休日、開店、閉店時間が適当な店などあるのか。あっていいのか。
「さて、次にレジの説明を……と言っても、使わないんだけどな。飾りみたいなものだが……」
「あ、あの、奏一郎さん」
「なんだ?」
昨日から、ずっと不思議に思っていたこと。いや、ここで疑問に思わないことなどほとんど無いけれど。一番、不思議に思っていたこと。
「……このお店に来るお客さんって、いるんですか?」