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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十章:かわるもの ―霜月― 其の参

 なにか悪戯を思いついた、狡猾な子供のような笑みだ。十年前、まだ出会ったばかりの頃には毎日のように見たものの、卒業する頃には薄れていったその表情が、なぜたった今再臨したのか……。あまり、橘は考えたくないのだが。


「……きょーや。つーかさ、俺らさ、どこに向かってんの?」

「どこって……」

 今の今まで適当に歩いていると思われていたとは、心外だ。おかしなことを訊くやつだ、と思う橘。

「職員室に決まってるだろう。杉田先生に会いに来たんだから。さっさと挨拶して、さっさと帰るぞ」

 と真顔で告げる。


 すると突如この親友は、自分と距離を置き始めたのだ。その距離、目測にして約五メートルはあろうか。


「……え、きょーや……。二十七年生きてきて、今更ボケに転向とか……ないわ……」

「……待て。おまえが俺に引く、だと……?」

 ありえない、ありえてはならない状況に、固まる両者。二人の思い出の窓には、爽やかな色合いの空が広がっていた。


* * *


 どきどきとざわめく心臓を抱えながら、小夜子は屋内のベンチに座っていた。静音が言葉無しにアップルジュースを手渡してくれる。ひんやりとしたそれは手のひらから全身に伝わるようで、心臓を更にびっくりさせているような気がしないでもなかった。


「まったく小夜子さー、ホラーが苦手なら苦手って言ってよね~」


 多少呆れたように言う静音。最初に話を聴いてくれなかったのはそっちじゃないか、と弱々しくも目で反抗するも、それは彼女には伝わってないようで。しかし彼女にもあるのだ。文句を言うだけの資格はある。それと言うのも、

「あのさ、暗闇でさ。二人一組で懐中電灯一つだけ渡されてる状況でさ。普通、それを持って先に逃げるか?」

「う。ご、ごめん……」

 口では素直に謝っていても、心中は言い訳で満ち溢れている。だってありえないだろう。なぜ、壁から手が出てくるのだ。なぜ、“呪われている”らしい人形を見つけて幽霊役の女の子に手渡したら、腕を勢い良く掴まれなきゃいけないのだ。人間ならば驚いて当たり前だ。当たり前に驚いて叫びつつ目を瞑りながら疾走していると、いつの間にか出口に辿り着いていた、という寸法である。


 しかし静音も別段、本気で怒っている風ではない。自分がもし暗闇に置いていかれたらと思うと相手を許せたかどうか小夜子はわからなかったが、傍らに腰掛ける親友は「大丈夫?」と心配して、ジュースまで買ってきてくれるという太っ腹ぶり。つくづく、静音の寛大さを実感してしまう。

「まあ、いいさ。私も紅茶買ってこよっかな。ここで待ってなね!」

 それだけ笑顔で言い残し、静音はベンチから姿を消した。


 ふう、と息を吐いて呼吸を整えると目の前には、見知らぬ数え切れない人々が笑顔で通り過ぎていく。皆パンフレットを片手に、次はどこに行くか、何をお昼にしようかと口々に相談しあっているようだ。

 ふと、


 ――……この中の何人かは、劇を観に来たりするのかなぁ……。


 そんなことを思ってしまって、お化け屋敷に置いていったはずの緊張感が再び湧き上がってくる。なんとか意識しないよう努める小夜子だったが、“忘れよう”と思っている時点で忘れられていないのではないか、とも思ってしまう。手先が、微かに震え始めた。


 静音が買ってきてくれたアップルジュース。蓋を開けて、喉に流し込んでみる。甘すぎるそれが食道を通過するのを感じた瞬間、市販の物を口にするのは、随分と久しぶりな気がした。


 そのときだった。声が聴こえたのは。


「さよさよ~……」


 ……この惰性的で緩慢な声と、独特の呼び方には……覚えがあった。

 名前を表そうとするかのように風に揺れる、路考茶の髪。とろんと眠たげに開かれた瞳。二十七であるにも関わらず、ふわふわと軽やかに駆けてくるその足取り。

 紛れも無く、こちらに向かってきたのは桐谷(きりたに) 由良(ゆら)、その人だった。


 しかも、何故かこちらに向かって走ってくる。ふわふわ、と跳ねる風船を髣髴とさせる、気だるそうな振る舞いで……。

「あ、桐谷先輩。お久しぶりですね」

 至って平静に挨拶するも、まさか出会って早々、

「助けて、さよさよ~……」

 助けを求められるとは、思わなかった。


 しかし“助けて”と言う割に、周りには特に異常は見られない。至って普通の、ごく一般的な文化祭の風景。それどころか盛り上がりを見せてさえいる。そもそもの話、彼が困っている風にも見えないのだ。

「……えーっと……桐谷先輩、どうしたんですか?」

 一応、といった調子で訊いてみた。


「きょーやが……きょーやが……」

「? ……橘さんが、どうかしたんですか?」

「ボケに転向し始めたー……」

 その言葉に、小夜子は目を丸くする。

「ええ!? そ……それは、事件ですね!」

 こくこく、と頷く桐谷。

「二十七年間……ツッコミをしていたから。きっと疲れちゃったんだ……。きょーやは自分のツッコミという天職から逃げて、慣れないボケに転じようと痛々しくがんばってる……俺、あんなきょーやかわいそうで見てられない……」

 しくしくと泣く動作をする彼は、両手で顔を覆った。一筋の涙のようなものが、彼の頬から流れ始める。それはそれはきらきらと、星の一滴さながら輝いているように見えた。少なくとも、だ。少なくとも、小夜子には。


「……桐谷」

 そこにゆっくりと現れたのは渦中の人物。呆れかえって、言葉に困っているようだ。

「あ、橘さん」

「ああ、久しぶりだな」

 名を呼ばれた彼はその黒髪を陽に柔らかく透かせながら、切れ長の目をこちらに向けてくる。目つきや醸し出す雰囲気こそ鋭く冷たいものがあるが、実は心優しい人物だということは既に確認済みだ。異常に照れ屋だということも知っている。そう思うとなんだか可笑しくて、不意に自然な笑みがこぼれてきてしまった。


 しかし、今はそんなほのぼのとした状況に身を置くわけにもいかない。なにせ、今は二十七の男が涙を流すほどの緊急事態だ。

「……あの……本当なんですか? 橘さんがボケに転向し始めたって……」

「……それを本気で訊いているなら、君はボケ確定だぞ……いいのか?」

 橘が、いつもの冷静な調子でそう突っ込みを入れてくる。


 桐谷との意見の食い違いが、小夜子の首を傾げさせた。


「桐谷先輩……。橘さんはこう仰ってますよ……?」

「うん。どうやらいつものきょーやに戻ったみたい……」

 そう言って晒された顔には、涙の跡など微塵もない。ここへ来てやっと、彼の嘘泣きに騙されたことに小夜子は気づいたのだった。なんだか、この二人のおとぼけ漫才に巻き込まれた感も否めないのだが――。


 彼女の背後に回っていた桐谷がちょん、と小夜子の髪に触れてくる。

「お嬢様結びだー……」

「え?」

 本日二度目の“お嬢様結び”という単語。この言葉、全国共通なのだろうか。それはさておき、女の子というもの、髪型だろうと外観を褒められるのには殊更弱い。少し照れくさくて、俯きがちになってしまう。

「へ、変ではないでしょうか? 編み込みも一緒にするのは初めてでして……」

「うん、全然変じゃないよ。むしろ似合う……。可愛いよー?」

「あ、ありがとうございます」

 こういうことをさらっとのんびりと言ってしまえるあたり、奏一郎と似ているかもしれないなあ、と思ってしまう。そんなことを急に思うのも、変なのかもしれないけれど……。


「君のクラスは、何をしてるんだ?」

 橘がそう尋ねてくる。

「演劇です。今はまだ自由時間でして、友達と一緒に回ってるところだったんです」

「……なるほどな」

 ふう、と彼が安堵したかのような溜め息をするので、何故だろう? と予測してみる。しかしその答えは、意外なことに瞬時に出てきたのだった。カレンダーを見て今日の曜日を確認するのと似たような感覚で、現れた答え。


 彼らが来るまでの間、自分は独りでここにいたから――。


 ――……もしかして、心配してくれてたのかなぁ。独りでいるんじゃないかって。


 考えすぎ、と思われるかもしれないが、この橘という男は腹の中で何を考えているのかわからない。もちろん、いい意味で。

 怒りや呆れ、照れや焦りといった感情はよく出てくるものの、内に秘めた優しさや気遣いは滅多に表に出てこない。だからこそ、それこそ計り知れない優しい感情が、彼の中には溢れているんじゃないかと思ってしまう。そしてこの読みは、恐らく当たっているんだろう、とも。


 しかしここで、小夜子の思考を遮る穏やかな声。

「劇かぁ……俺らも観に行くよ、さよさよ……」

「ええ!?」

 少し考えれば当たり前なことなのかもしれなかった。知り合いが劇に出ると聴けば、そりゃあ観に行くだろう。これは小夜子にとってはできることなら避けたい事態だった。見知らぬ観客が大勢いる前で演じるだけでも緊張で死んでしまいそうなのに、知り合いがそこに混じるだけで緊張感が三割にも四割にも増す。


「だだ、だめですよ、緊張しますっ!」

「えー……?」

 桐谷がゆっくりと小首を傾げる。なぜその所作の一つ一つが、いちいち赤ん坊を連想させるのだろう。

「劇、観たいのにー……。観たいよね? きょーやも……」

「え?」

 話題を振られ、橘が一瞬困った顔をする。好都合だ。

「た、橘さんは、観たくないですよねっ? 劇観るよりも、カレーとか親子丼とかパスタとか食べてるほうがいいですよねっ?」

「なぜ全部食い気なんだ」

 橘が「観たくない」と一言でも言えば、桐谷もそれに従うだろう。そう踏んで、思いついた単語を羅列してみせたのだが……どうやら、自分は無意識に空腹だったらしい。

 それを察してか、橘ももうそれについては口を出さない。代わりに口を開いたのは、言うまでもないが桐谷であった。


「さよさよ……無駄な抵抗は止しんしゃい。ってか俺は、そもそも劇を観に来たんだし……」

「え? わざわざ……ですか?」


 小夜子は不思議に思った。なぜ、わざわざ文化祭の劇のためだけに母校に足を運ぶのか。第一、なぜ劇があることを元々知っていたかのような言い方をするのか。橘も親友のこの発言は初耳だったらしく、ほぼ変化のない無表情を見つめている。

 そんな二人の疑問を晴らすべく、こくんと頷いて、桐谷はそのまま続ける。


「衣装協力もしたし……可愛い妹の頼みだし? そりゃあ来るでしょ……」

「妹……?」


 ――……桐谷先輩、妹いたんだなぁ。……あれ? ってことは、同じクラス?

 あれ? 今……。たった今この人は、“衣装協力”って……言った?


「小~夜~子~」


 脳内に過った一つの可能性――それを体現した人物が、紅茶を片手に笑顔でこちらに駆け寄ってきた。

 だんだんと近づいてくる彼女。そしてそれにつれ、その表情はだんだんと赤みを増していって――。


「お、お兄ちゃんっ!?」


 素っ頓狂な声で紡ぎ出された言葉。それは家族構成の、下から上の男性に向ける呼称なのであって――。


「……え?」

 小夜子の目が点になる。兄、とな。

「あー、静音。久しぶりー……」

 “お兄ちゃん”と呼ばれたその人が、これまた無表情で手をひらひらさせる。

「え……え?」

 小夜子は混乱しながらただひたすら、静音から桐谷へと、そしてまた桐谷から静音へと、忙しく視線を送るのだった。


 静音の“お兄ちゃん”に応える桐谷。これは、まさか。もしかして。もしかしなくても。


「兄…妹……!?」


 目を丸くしていたのは、橘も同じだった。しかしその理由まではさすがに小夜子とは一致せず、

「この学校だったのか……」

 と、小夜子よりは落ち着いた風の驚き加減。


 そんな小夜子と橘に気付かず、兄妹にしては余所余所しい、幾許か距離のある会話を繰り広げる二人。

「ひ、久しぶりだね。最後に会ったのって……あ、九月だっけか! 元気だったっ?」

 珍しくどもる静音に対し、こくんと頷く桐谷。

「んー。まあ、病気にはかかってないからね……元気だよ」

「そ、そっか。……あ!」

 突然大声を出したかと思えば、彼女の視線は橘へと向けられる。


恭兄(きょうにぃ)! 久しぶり! 何年ぶりだろーねっ」

 “恭兄”と呼ばれた橘も、そこそこに柔らかい笑みを浮かべている。猫を見たときのそれには若干劣るけれども。

「久しぶりだな、静音。相変わらず元気そうだな」

「えー? 恭兄も相変わらずイケメンだよっ!?」

「茶化すな……」


 三人は、なんだかんだで和気藹々と盛り上がっている様子。一方の小夜子は頭を混乱させつつも、目の前の現実を受け入れ始めていた。


 なんだか、不思議な感覚だ。


 小夜子はそれぞれ、静音と桐谷とはまったく別の場所で出会った。二人の間に接点など、一切見られなかったはずなのに――。今の今まで別世界にいた二人が会話しているようなこの光景に、妙な感覚を起こさずにはいられない。

「……っていうか、なんで小夜子とお兄ちゃんたちが話してんの?」

 多少落ち着きを取り戻しつつ、彼女は小夜子に問いかける。

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