第十章:かわるもの ―霜月― 其の弐
その時だ。かつん、と軽い音がして。小夜子は髪の束を背後の静音に持たせているため、振り返ることも俯くことも許されていないのだが、どうやら髪留めを静音が落としたらしい。
「ご、ごめんね、小夜子」
「う、ううん」
緊張の現れ方は人それぞれだ。
指先や声が震えたり、表情にも引きつりという形で現れたりする。
しかし小夜子の目には、静音の緊張は他の生徒とは少し違っているように見えた。むしろ、その度合いが郡を抜いているようにも見える。笑みを抑えているようで、でもそわそわしたようなその所作は、見ていてどぎまぎしてしまう。たしかに静音は劇中、観客の前に立ち続けなければならないのだが、彼女はいつも教卓の前で発表したり、みんなを引っ張ったりしている。人数の多さが比ではないからといって、ここまで強張るものだろうか。
「……なんか静音ちゃん、金縛りにあってるみたい」
「そ、そんなこと……ないことも、ないよっ?」
「ふふ、歯切れが悪いなあ……」
声をひっくり返らせてしまった静音に、小夜子はくすくすと笑ってしまった。いつもはっきり物を喋る彼女が、文化祭の演劇一つでこうも変わってしまうのか。すると、静音が徐々に口を開いた。
「……じ、実はね、小夜子」
「なに?」
「あのー……私、好きな人いるのね?」
「え!?」
思わず大声を吐き出した口を、必死で小夜子は両手で覆う。しかし静音に想い人がいることは、ずいぶん前に奏一郎から聴かされていたことだった。やっと話してくれるのか、と思うと小夜子も頬を緩ませてしまう。心の片隅で、早く話してほしいと思っていたのかもしれない。
「そ、そうなんだー。それで?」
「うん。滅多に会えないんだけど、今日……劇観に、来てるんだよね。だから、その……緊張、しちゃって」
ああ、先ほどからの緊張は、そのせいだったのか、と納得する。
数十人のクラスメイトよりも、百数十人の観客よりも、静音をここまで心理的に追い詰められるのはたった一人、その人だけなのだ。
彼女を石のように固まらせられるのも、今、こうして――幸せそうに彼女が照れ笑いを浮かべられているのも、その人のおかげ。
「……人の影響力って、すごいんだなぁ」
「え、感想それ?」
人間、非力だと言うけれど。そこにいなくても、誰かの心に作用させていることもあるのだなぁ、と小夜子は思う。
――……すごいんだなぁ、恋って。
彼女にとっては未知の話。
そもそも、人を好きになる感覚がよくわからない。友情の“好き”なら、日々実感している。明るい静音に憧れることもあるし、陽菜の女性らしさを羨ましく思うこともある。
それ以外にも、尊敬の意味で“好き”な人を挙げるのだとしたら。こんな難しい脚本をよく一週間で書けたなあと、日下を尊敬するし、好意的に見られる。そして姉御肌の担任である杉田のことも好きだ。
そして、芽衣も。
自分は彼女のルックスはもちろんのことながら、凛とした声で言いたいことを言ってしまえるところに惹かれ、それで友達になりたいと思ったのだろう、と小夜子は自己分析する。
言いたいことを全部言ってしまえることが長所であるとは限らないが。
そしてそれ以外に、思い浮かぶとしたら。
――……購買のおばさんのあの包容力は好き。あ。あと体育の北村先生も、さりげなく気を遣ってくれるから好きだなぁ……。
橘さんも、優しいし可愛いから好き……あ、“可愛い”は言っちゃいけないんだっけ?
桐谷先輩も……えっと……面白いから好き。そういえば、今日来てるんだよな、あの二人。
こうして考えてみると、自分の周りには“好き”な人ばっかりだ。恵まれすぎて、少し怖いくらいだ。
それはいいことなのだろうと思うけれど、結局恋心としての“好き”とは、どう違うのだろう。
――……奏一郎さん、は……。尊敬の部類に入るのかなぁ……?
「よし、完成!」
背後から発せられたその一言とほぼ同時に、鏡を目線より少し上にかざされる。
普段でもハーフアップにすることは珍しくないのだが、そこに三つ編みが施されるだけで数段可愛く見えるから不思議だ。静音が丁寧にしてくれたおかげで、綺麗に仕上がっている。
「ありがとうね、静音ちゃん」
「いいってことよ。いいなぁ、小夜子は。お嬢様結びが似合って」
笑顔でそう言ってきた親友に、首を傾げる小夜子。
「お嬢様結び……?」
「うん。お兄ちゃんが『お嬢様結び』って呼んでた」
「へー、そうなんだぁ」
面白い名称があるものだ、と思いつつ、小夜子は先ほどの話の続きをしたいと思い、鏡を仕舞って振り返る。
「ね、なんでその人のこと好きなの?」
「ええ!?」
あからさまに赤くなる親友の頬。しかし、そんなに驚くこともないではないか、と思ってしまう。思っていることが顔に出ていたのか、
「だって、小夜子がやたら積極的に訊いてくるから!」
と、顔色をそのままに反論してくる静音。たしかにそうかもしれないが、小夜子から言わせれば自分だって女の子なのだから、興味があっても仕方ない。
「……なんで……あー、なんでかなぁ。何て言うのかな、何て言うのかなー。本当に、いつの間にか好きになってたっていうか」
「へ~。“いつの間にか”……?」
「そう、いつの間にか。いつの間にかその人のことばかり考えてて、気づいたら一日経ってたり?」
それを聴いて、小夜子は目を丸くしてしまった。恋というものは、時間間隔まで狂わせてしまう代物だったのか。
「それで、ああ……好きなんだなぁって、思ったり……する」
言い終わりに向かうにつれ、小声になっていく静音。心なしか、体全体も小さくなっているような気がしないでもない。
「……静音ちゃん。私、恋したことないからわかんないんだけど、恋って、楽しい?」
「えっ……」
ここで、突如曇りだす静音の表情。なにか、悪いことでも訊いてしまっただろうか。しかし静音は、苦々しげな表情を浮かべながらも、真摯に答えてくれる。
「んー……そりゃあ楽しいけど。ずっと……いつも楽しいかって訊かれたら、そんなこと無いかな」
「え、そうなの?」
これはまた、小夜子にとっては意外な答えだった。
「だってさ、いつも会えるわけじゃないから寂しかったりするし。あと、想いが届かなかったりしたら、とか……そういう想像しちゃうとさ、やっぱりね。百パーの幸せには浸れないよ」
そう言って彼女は笑った。
「……そっか」
――恋って、難しいんだ……。
「え、そんなに意外? 恋がそんなに楽しいものだと思ってた?」
夢を壊しちゃったかと、静音が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「うん、意外。だって、静音ちゃん……すごく幸せそうだもん。その人のこと話してるとき」
「……まじ?」
こくこく、と頷いてみせると、目を丸くした静音が、頬を押さえる。赤く染まりきったそれは、彼女の手にはもう収まりきらないのだけど。
「……自分がそんなわかりやすい人間だったとは、思わなかった」
悔しそうにそう言って目線を逸らし、小さくまとまる彼女は――まるで、子供のようで。とても、愛らしく、いじらしく感じた。
――……こ、これが、“乙女”……! “恋する乙女”……っ!
初めて間近に見る“恋する乙女”に、なんだかどきどきしてしまう小夜子。
――静音ちゃんのお兄ちゃんにも、だけど。静音ちゃんの好きな人にも、会ってみたいなぁ……。どんな人なんだろう。
その時、颯爽と教室に入ってきたのは、姉御肌の担任。凛々しくもどこかニヒルな笑みを含めつつ、彼女は頼もしい表情を浮かべていた。主に女子に人気のあるわけが、その笑みには隠されているようにも見える。
「おはよー、気合入ってるかー?」
その一言に、全員が着席する。気合の入っている者ももちろんいるが、そんな者はごく一部。かと言って他の大多数が抱えているのは、練習不足による緊張ではない。むしろ練習を重ねてきたからこそ、失敗は許されない、という暗黙の切迫感を強いられているのである。
そしてそんな教室の中でも一際緊張していたのは実は、小夜子だった。彼女は幼い頃、お遊戯会が催された際、観客の目前で転んでしまい、台詞が飛んでしまうという緊急事態を引き起こしたことがあった。
なにがなんでも、自分のせいで劇を失敗させたくはない。そういう思いで、彼女は現在、両手で台本を固く握り締めているのである。
妙に強張ったクラスの雰囲気に、杉田が呑気にははは、と笑う。緊張を吹き飛ばそうとしてくれているのか、それとも、単にこの状況を楽しんでいるだけか。
「まあそう固くなんなって。ちゃっちゃと業務連絡だけするから、HR終わったら自由行動なー」
現在、朝の九時。他の教室からは、がやがやと人の足音が絶え間なく耳に響いてきている。既に一般の客も校内に入ってきているようだ。
「えーっと、まずこの文化祭はチケット制ではあるが、不審者が侵入してくる可能性も全く無いわけではない。正門も裏門も先生たちが交代で見張っているんで、もし不審者を見かけたら迷わず先生たちに報告すること。それと、今から上映まで自由時間ではあるけれども、一般の客とのトラブルは起こさないように」
前半はともかくとして、後半はモラルの問題だ。誰もがそう思ったのだろう、「そんなことするわけないじゃん」と、私語が教室中を飛び交う。だが、
「おまえら、他人事だと思うなよ。現に十年前に、文化祭で暴力事件起こした奴もいるんだからな」
その脅しめいた杉田の一言は、皆を一瞬で黙らせた。
「それと一応貼り紙はしてあるが、体育館第三倉庫は立ち入り禁止だから。もうボロいんで、そろそろ取り壊しだからな。そこには間違っても入ることのないように。以上、上映準備まで解散!」
その一言を合図に、みんなが財布や携帯電話を片手に、元気よく教室から出て行く。
劇の上映は午後一時から。まだ、たっぷりと時間はある。
「小夜子、一緒に回ろ! 私、3-Bのお化け屋敷行ってみたいんだよね!」
「ええぇ!? さっそくお化け屋敷ですか……!?」
ホラー映画は観ているだけなので平気な部類に入るのだが、お化け屋敷となると、直にその世界観を体感してしまうから苦手なのだ。……が、そんなことを静音に説明しても、どうやら無駄のようだ。
傍らの親友は、もう既にパンフレットに載っている『お人形を見つけて』の説明欄にその目を光り輝かせている。
お祭り騒ぎの空気や匂い。本番前の緊張感。恋をしている親友。何かが起こりそうな、淡い色の秋の空。
すべては、心臓を揺らせる。
* * *
「……くしゅん」
「なんだ、桐谷。風邪か?」
がやがやと雑踏を掻き分ける二人。その間にも、桐谷はひどいくしゃみに悩まされていた。先ほどから、息もつかせぬタイミングでくしゃみが放たれている。
「くしゅん。……ふー。なんだろね。誰かが俺の噂でもしてるんかなー……」
そう言って、すれ違うセーラー服の女子生徒に手を振る彼。知り合いか? と問おうと思った橘だったが、訊くだけ無駄。九分九厘、知り合いの線は薄いだろう。この親友は見知らぬ野良犬にまで挨拶をするような人間だということを、忘れてはならない。
「……なんかさー……やっぱり懐かしいね……」
緩慢とした口調で桐谷がそう言うので、橘もああ、と短く返答する。
「制服は俺らのころとは変わっても、やっぱり流れてる雰囲気は変わんない……」
桐谷が、人気の無い廊下の端っこを指す。そこには美術部の作品が展示されていた。油絵の匂いが、どこか過去の記憶を引き起こす。
「割と、出会ってすぐだったよね。あの場所で……きょーやは俺に正座をさせた……」
「ああ、お前が窓をめちゃくちゃに壊したからな」
「俺に正座を命じたのは、この学校ではきょーやが初めてだったからよく覚えてる……今となっては良い思い出」
それを“良い思い出”に置き換えられるあたりが、桐谷の長所だと橘は思う。
「あ、そういえば。改築工事、またするんだよねー……。しかもそれをこの学校、事もあろうに親父の会社に頼んできてさ……」
「そうなのか?」
桐谷がこくんと頷く。
「なんか体育館第三倉庫を取り壊して、新しく造りかえるんだって……。まあ、あそこも俺らがいた時からだいぶボロくて使えない場所だったから、今更? って感じだけど」
「まだあったのか、あの倉庫。俺は行ったことなかったけどな」
正確には、行ってはいけないとされていた場所だ。廃材や要らない書物などを保管しておく、倉庫とは名ばかりのただの物置。古い建物故か建てつけが悪く、橘たちの代では主に肝試しの舞台にされていた。別段、幽霊が出ると噂されているわけでもないのだけれど。ただ暗くてそこそこに広いから、そういう扱いをされていただけだ。
ここで、桐谷の声のトーンが下がった。少し俯きがちになり、床に誤って付着してしまったらしい赤の絵具の跡を見つめている。
「俺にとっては思い出の場所だから……取り壊すのは忍びないんだけどね」
「思い出?」
「うん、思い出」
そう言って笑う桐谷の目を見て、若干の躊躇いを覚えるのは橘だけだろう。その笑みは十年前の彼のそれと酷似しているから。十年前の彼を知るのは、今ここには橘しかいないから。そしてその笑みは、決して純粋なものではないから。




