第十章:かわるもの ―霜月― 其の壱
〈注意事項〉この章には、いじめ・残酷な表現があります。
花は枯れゆく。雲は散りゆく。時は移りゆく。人は、老いゆく。
この世に、不変のものなど存在しない。
もし、あるとしたなら。それは――。
* * *
淡白な色合いの空が広がっている。秋晴れ、という表現が正しいのだろうか。ぽかぽかとした陽気は遠い春を連想させるものの、冷たい風が今の季節を目一杯主張していた。
そんな空の下、橘は自宅のアパートの前でひとり佇んでいた。手元の時計は現在、朝の八時過ぎを差している。
――……遅いな。
そうは思っても、待ち合わせている相手は時間通りに来るような律儀な人間ではないことは百も承知なので、イライラすることなく待っていられる。
[きょーやへ。
だいじなはなしがあるから、きょうのぶんかさいはおれがくるまでつれてっていーい?
っていうか、そうすんね。はちじにいえのまえでまっててねー。 由良]
そんな柔軟なようで強引な内容のメールが来たのは、昨夜、夜中の三時のことだった。前回会った時に別々に行くということで話がついたはずなのだが。
眠っている最中にメールで叩き起こされたので、内容を確認するやすぐに眠ってしまったが、今は問いたい。
――……なぜ、漢字を使わない。
本来問うべきはそこではないだろうが、橘の性格上、まずはそこを突っ込まずにいられなかった。しかし、“大事な話”が何なのか気になるのも、また事実。
すると、そこに彼の前にゆっくりと登場した白のセダン。運転席には、高校時代からよく見知った顔があった。
「きょーやー。おはよー……」
「桐谷」
いつものように無表情でのんびりと挨拶を口にする桐谷が、メールの内容も影響してか――少し元気が無いように見えてくるから不思議だ。しかし案外、橘の気のせいというわけでもなさそうだった。
「ごめんね? 急に呼び出して……。その上、遅刻とか……」
「……いや、送ってくれるのはとりあえずありがたい」
やはり、どこか様子が変だ。平生、飄々(ひょうひょう)としている彼は急な呼び出しをしたくらいで謝辞はしない。遅刻したとしても同じこと。
調子が狂うとはまさにこのことだ。いつもなら、
「大人ならばメールの際に漢字を使え」
と手酷く突っ込みたいところだが、今の親友の姿はそんな気持ちさえも払拭させてしまえるほどに気落ちしているようなのだ。こんなことは学生時以来、久しぶりだ。
「まあとりあえず乗って」
「ああ」
橘がドアを閉め、桐谷がアクセルを踏むのと同時に、車がゆっくり前進し始める。それからは穏やかに、交通ルールを守った速度に移行された。
車の運転というものは、とりわけ人の性格が滲み出るものだ。無駄な速度は出さない、カーブもゆっくり、ブレーキも余裕を持って。あくまで自分のペースを行く桐谷のゆっくり運転は、彼のゆったりとした性格を顕著に表しているかのようでもあった。
「…………」
話がある、と言ってきた割には自分から切り出しはしないのは相変わらずだ、と橘は右隣の運転手を見て思う。荒れていた学生時代と同様に、垂れがかっていて眠たげなその目は、まっすぐに数メートル先の赤信号を見つめていた。
――……卒業してから、もう十年か。こいつは、社長子息として色んな経験を積んだんだろうな。
そして、同時に責任も。好きに暴れていた、あの頃とは違う。
こうして桐谷と会うのは、実は橘にとっては気が重いことでもあった。
桐谷だっていずれは社長として社員を引っ張っていく者として成長しなければならないが、彼の性格を鑑みるに、それも難しいだろう。そして親友としてそんな彼を支えてやりたいのは山々だが、自分は一介の公務員であり、経営云々に関してはドの付く素人と言っても過言ではない。そのことを橘も自覚していた。
学生同士だったから解り合えた仲だったのかもしれないが、こうしてそれぞれ社会人になってからもそうとは限らない。
橘とて友人は多くいるが、その中でも、一緒にいて一番気楽でいられるのは桐谷なのだ。
社会人になったからという理由で、親友を失ってしまうことは避けたい。
そして、今日の桐谷に元気が無い理由は。
――……やはり、会社の今後のことだろうか。
だとしたら、尚のこと気が重い。
桐谷建設が佐々木に協力していたことは明らかだ。
社長子息である桐谷が認知しているのは、佐々木からの最後の依頼である心屋の立ち退きだけである。が、過去に佐々木がその権力で以って揉み消したという事柄に、桐谷建設が一切関与してこなかった、という可能性は限りなく低い。
それはメディアもわかっている。まだ検察も捜査中で、確固たる証拠が見つかっていないから今は騒ぎ立てていないだけ、だ。
もしそれが、白日の下に晒されでもしたら――桐谷建設はこれまで築いてきた信用を失うだろう。最悪の場合、会社そのものも――。もし、そうなれば。
――……俺の責任、でもあるよな。
自分がもっと強く、もっと早くに佐々木に反抗していればよかったのだ。そうすれば、もしかしたら親友を巻き込むこともなかったかもしれない。
真に裁かれるべきは、自分もだ。
橘は、深い溜め息を吐きたい衝動に駆られた。しかし、ここでぐっと口を噤む。
溜め息をしてしまえば、もちろん体の力が抜けて楽になるだろう。だが、それは猛省している者の取る態度ではない。
本当に申し訳ないと思っている者は、楽になろうなどと思ってはいけないのだ。それ故に、唇を固く結んで。体内に渦巻く後ろ暗いものを己の内に溜め込み、吐き出さないようにする。
それが、世間よりも何よりも、傍らの親友に対してのせめてもの贖罪だった。
「話って言うのはさ……」
橘が何も言わないので、遂に桐谷が口を開く。思わず身構える橘。
「なんだ?」
「俺さ……アンパンマンになりたいんだよね……」
「…………」
爽やかな風が吹きぬける深秋の空の下、友人からのその突然の告白に、橘は絶句した。が、勇気を出して相槌を打ってみる。
「……そうか。……だから、何だ?」
「うん。それ高校の卒業文集に書いたよなぁって……思って……」
「……そうだったな」
「うん……」
そう、たしかにこの傍らにいる親友はそれを書いた。それがどうしたというんだ、と問う前に、彼は自ら答えを露見したのである。
「いや、それだけなんだけど」
と。
――……。
桐谷と出会って以来、思考が停止することはよくあった。が、何せそれも久しぶりなので、いつもより長めの停止時間となっている。やっと口を開けるようになるまで、十数秒はかかった。
「……桐谷。大事な話って……それか?」
「うん」
親友の目は真剣だ。
「……俺はてっきり、おまえの会社の話かと思ったんだが」
「……? 何で?」
本当にわからない、と言いたいかのように首をゆっくり傾げる桐谷。
「いや、これからの経営状態だとか……親父さんがその、自白するのかどうか、とか……」
「ああ……それ」
言われてやっと気づいたらしい。
「親父は白を切る予定でスケジュール帳がいっぱいみたいだけど……?」
「……そ、そうか」
それよりも卒業文集に載せたアンパンマンの話の方が大事だと思ったのか。それとも、何かこの先にあるのか。アンパンマンのことに関して言いたいことが、この先にあるのだろうか。
「そりゃ俺だって、最初は親父に自白するよう言ったけど。……社員のこと考えてみると、そう簡単にはいかないんだよね」
「……まあ、それもそうだ」
アンパンマンから話が逸れた。結局、最初のやり取りは何だったんだろう、と橘は思う。
しかし真面目な話、十年前の時点で、桐谷建設は二百人ほどの社員を抱えていた。それから、どんな手段を使ったにせよ桐谷の父親が会社を大きくしたのは事実である。十年前と比べれば、社員の数は確実に増えているだろう。
「俺は社員の顔全員知ってるし、名前も知ってる。どんな経緯であの会社に入って、家族が何人いて、どんな生活してるのかも知ってる。……そいつらのこと切り捨てて、わざわざ悪事を露にしてどうするって話だよね」
車が再び発進したため、青信号に切り替わったのだなと頭の片隅で橘は思う。相変わらずのゆっくり運転を続けながら、桐谷はさらに口を開いた。
「……大人になるとさ、駄目だね」
何が“駄目”なのか、橘にはわかっている。自分もかつて、そう感じていたから。
「……どんどん荷物増えてって、重くなって。そのうちさ、大切なものまでぽーんと投げ捨てちゃいそうでさ。怖いよねー……」
再び、赤信号。ゆっくりとブレーキを踏んで、セダンはゆっくりと止まった。
そう、荷物は増えていく。それを背負う代わりに、何かを失ってしまうこともきっとあるのだろう。橘もまた、その経験者の一人であったかもしれない。いや、その一人になってしまう、ところだった。
既のところで、それを教えてくれたのが心屋だったのだ。
「……あ、きょーや」
「なんだ」
「きょーやはさ、何も責任とか感じないでいいからね……?」
「……は?」
心を読まれたのかと、一瞬どきりとしてしまう。自分は、そんなに解りやすいのだろうかと。
「仕方ないじゃん、きょーやは。正式な書類を渡されたら、きちんと実行に移すのが仕事じゃん。善意であれ悪意であれ、私情を入れない仕事でしょ……?」
でも、と付け加えて。俺は違うから、と彼は言う。
「俺は……心屋の強制立ち退きの依頼を親父が引き受けたって知った時も、悪意だってちゃんとわかってた。……断ることもできんのにさ。了承した親父にも問題あるけど、俺も相当……駄目な奴なんだと思う。だから、きょーやは俺とは違うから」
そう言って、緩く彼は微笑んで。ゆっくりと、アクセルを踏んだ。
一方の橘は、なんと言ったらいいのかわからなかった。ただ、桐谷にはそんな風に言ってほしくはなかった。自分の責任だと思っていたかったのに、まったく同じことをこの親友は明言してしまっている。
橘は内心、驚いていた。ああ、この十年で、桐谷も大人になっていたのだと実感して。
「……でもさ、今ここで悩んでても、仕方ないから」
桐谷の目は、至って真剣だ。ある種の光さえもそこには宿っている。
「だから今日は、セーラー服の女子高生を気後れすることなく見ようと思う……」
「そう締めくくるか、おまえ……」
せっかく、少し感動していたところだったのに。桐谷がそういう趣味に走ったということを忘れていた。
「はぁ……。……!」
いつの間にか。橘は溜め息を、吐いてしまっていた。それと同時に、ずいぶんと気は楽になって。
同時に、何より――本当に甘えているのは自分の方なのだと、思わざるをえなかった。
「あ、きょーや。さっきのアンパンマンの話なんだけど」
正直、二十六、七にもなってアンパンマンの話をするのは気が引けるのだが、そこは大人しく聞くことにする。
「……続きがあったのか?」
「うん。まあ……一応……? 追々、後で話すね……」
そう言って小首を傾げて、後半を濁らせた。
アンパンマンの話一つで、こんなに真剣になる二十六の親友……。そして、その彼に精神的に甘えてしまっている自分。
橘はついに、この虚しい現実に己の頭を抱えるのだった。
「きょーや……頭痛……?」
「……いや……」
まあ元気出しんしゃい、そう言って飴の袋を差し出され、とりあえず素直に受け取った橘。“極甘ゴーヤ味”とそこには記されていた。苦いのか甘いのか……いやそれ以前に不味いのかどうかも判断できない。
「……お客さんお客さん、もうすぐ目的地に着きますよー……」
突然タクシーごっこに切り替えられた車内だったが、もはや突っ込みどころの多すぎる親友に、橘は何も言えなくなった。
視界の彼方には、十年前とは少し異なった色に見える校舎。しかし近づけば近づくほどその色は鮮明になって、遠くにあったはずの記憶に爽やかな彩りが現れ始める。
「じゃ、俺は車置いてくるから……。きょーやはそこで待ってて」
「ああ、悪いな」
車を校舎の敷地内に入れることは不可能なので、桐谷は橘を降ろすと、車を近くのコインパーキングへと走らせる。
校門には、風船や造花であしらわれた豪華な看板がお出迎え。既に客は入っていて、卒業生らしい若者、校舎見学に来たのであろう中学生やその保護者、他校の学生などが受付に並んでいた。皆、パンフレットを手にどこに行こうか、どこに行きたいかを話し合っているようだ。
もはや、どんな人間がどんな内容の台詞を口にしているのかわからぬほどの喧騒。そして久しぶりに足を踏み入れた校舎は、見知らぬ多くの人の足音と、出し物の香りで満ち溢れている。知らぬはずのその香りは、何故か十年前の記憶と現在の視界が混ざって二重に見えるような、妙な感覚を引き起こす。
「……懐かしいな」
思わず、そう独り言をもらした。橘にとっては、高校時代が一番楽しかったのかもしれない。一日の起きている時間の半分以上をそこで三年間過ごしてきたのだと思うと、その時間がとても愛しく思えてくる。
その思い出の大半を彩ってくれた親友はまだ、戻ってきていない。
* * *
外と同じく騒がしい2-Aの教室。しかし一口に騒がしいと言っても、それは外とはまったく別の種類の喧騒であった。
「……うわあぁ、緊張するねぇ~……」
「やべ、俺、足震えてきたー」
そう、緊張から生まれ出るどよめき。今この教室は、未だかつて味わったことのない切迫した空気に襲われている。そしてそれは、小夜子も同じだった。
ナレーション担当の静音は着替えが必要ないので、複雑な作りになっている皆の衣装の着替えや髪を結う手伝いなど、アシスタントのような仕事に没頭していた。そして今現在、小夜子の髪の毛を彼女は結ってくれている。
「緊張するねぇ、静音ちゃん」
そう背後に語りかけると、静音が「えっ?」と裏返った声を出す。
「え、ああ、うん、そう、だね……」
そう言う彼女の目が珍しく泳いでいるのを、小夜子は見逃さない。いくら豪胆な彼女でも緊張することもあるのだなぁと思うと、髪に触れる指先から、彼女の感情が流れ込んできた気がした。




