第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の十参
芽衣はその後も淡々と演技をこなし、見事、日下から適役の太鼓判を押されたのだった。一方の小夜子は厳重注意を受け、翌日までに台詞を覚えてくるよう宿題が課せられることとなる。
皆、もうとっくに帰路に就く頃だった。空き教室にはナレーションの練習をしている静音と、台本と睨めっこしている小夜子だけがいた。静音は笑みを浮かべながら、
「まぁ、小夜子、どんまい?」
と励ましてくれる。
「っていうか、小夜子。あんたって、本当にお人好しだね」
「え? な、何でっ?」
「あんなひどい言い方されたのに、まだ『信じていいよ』とか言える辺り」
彼女には、どうやら先ほどの練習中の台詞の意味が伝わってしまっていたらしい。少し呆れたような顔で笑っている。
「……まあ、いいけどさ。小夜子がそうしたいってんなら、私も協力するし」
静音のその台詞に、優しさに、胸がきゅっと引き締まる思いだ。彼女はいつも、自分の傍にいて励ましてくれる。
自分は、恵まれている。
「静音ちゃん、ありがとう」
心から漏れたその言葉と、そして同時に現れたごく自然な笑顔。それは、静音の表情をも綻ばせた。
──……ああ、負けたくないなぁ。自分の過去にも。お父さんにも。
色の薄いオレンジの空に、白線が伸びる。まっすぐに伸びたそれはぶれてはいなかったが、やがて風に煽られて形を変えていく。
「……強く、なりたいな」
その小さな呟きは、とても弱いものだったけど。
小夜子の目は、まっすぐに空を見つめていた。
風が、秋を散らしている。煽られた葉は宙に舞い、夕暮れに別れを告げるようにかさかさと音を立てて。街は、朝焼けに似た色に染め上げられていく。
優しい色。それはなぜか、奏一郎を彷彿とさせて──。
「小夜子。今日、夕飯どーする? なんか一緒に食べてく?」
「え? あ、えっと……!」
どう断りを入れたのか。そんなもの、思い出せなくて。気付けば、小夜子は心屋の前にいた。
闇夜に佇む心屋が、優しい明かりで出迎えてくれている。
結局その夜も、道草を食うことなく、真っ直ぐに心屋へ足を向かわせてしまう彼女だった。
「ただいまです!」
「おかえり、さよ」
早く会いたくなって、しまったから。
* * *
今晩の月は顔を暗雲のベールで隠し、なかなか出てきてくれようとはしない。
「……やっと、君の言っていた言葉の意味が、わかった気がするんだ」
唐突にそう告げるのは、暗闇に身を溶かした男。なかなか出てこない自然の灯りを少し残念がる彼は、暇潰しであるかのようにそう呟いたのだった。
「……俺様の言葉が、何だって?」
暗闇でよくわからないが、どうやら胡坐をかいているらしいとーすい。暗闇で見えないはずなのに──碧眼は、真っ直ぐにその姿を捉えていた。夜目が利くにしても、程があるのではないかというほどに。
「前に言ってたろう? “人間にとって、笑顔は盾なんだ”って」
「……たしかに言ったけどよ。一ヶ月も前の話を掘り下げられるたぁ思わなんだ」
ふん、と息を吐くとーすい。そんな彼に構わず、奏一郎は続ける。
「色んなものを護っているんだな、人は。自分だったり、他人だったり。何でも頼って武器にして、盾にして。いつも何かを護ってる」
何か反応があっても良いはず、なのに。何故か黙ったままのとーすいに、首を傾げる。するととーすいは突然に──絶対に触れてはいけない箇所に、触れてきたのだ。
「旦那だって、そうだろ」
その言葉は、奏一郎の体を一瞬だけ固まらせる。
「……なにが?」
「まだ、あの襖を開けられないんだろ?」
「…………」
そうして、口を、固く閉ざさせる。
「それは、“あの記憶”を見たくないからだろ? そうじゃなきゃ、自分が……」
「とーすいくん。少し、黙ろうか?」
そう言われ、とーすいがその身を強張らせる。瞬間、強い風がその空間を走り抜けて。それは暗黒の雲を切り裂き、月光を導いて奏一郎を照らす。……彼の笑顔を。
ひと時の夢のように儚く、泡のように消えやすい笑顔を。そう、その笑顔も──護るため。
自分を。そして何よりも──“此処”を。
にぱっと、今度は明るい笑みに切り替える彼。
「とーすいくん。たしか君は僕の記憶を“真っ暗だ”と、そう言ったな?」
「……それがどうした?」
いやいや、と奏一郎は首を振る。
「とーすいくん。僕の記憶が真っ暗だって言えるってことはね……君がどこかで、“光”を見たってことなんだよ」
そう言って、笑った。
「君はどこかで“光”を見たんだよ。そうじゃなきゃ……闇を知ることは、できないんだから」
闇に身を投じ続ける者は、光さえも。そして、自らの居場所が闇であることも、知らないのだ。
──でも僕は、覚えているから。忘れられないから。知っているからね。
どんなに暗闇に塗りつぶされた世界をも、照らし出せる光があるってこと。
そんな光が、存在するってこと。
「……おや、いつの間にかお出ましだ」
彼の嬉しそうな一言を合図にしたかのように、三日月がひょっこりと顔を出す。満月ほどの明るさはなくとも、慎ましく咲くスミレのような仄かな光。
「……月、なんてものじゃないなぁ。こんなに弱い光じゃない」
赫灼とした太陽だって、比べ物にはならないだろう。
彼の知る光が焼き焦がそうとするのは、体ではなく、心だから。
ぎゅっと、着物の袖を掴んでしまったのは寒さのせいか、それとも──動揺してしまった、せいだろうか。
「……記憶とは、本当に厄介だね」
──……それでも忘れないけどね。僕は……忘れない。忘れられないから……。
…………暗闇を。“あの子”のことを。
息が苦しくなるような、見ていて吐き気がするような、あの様を。
理解し難く、敬遠してしまうようなあの理を。
そして、“あの子”の声は。今でも、僕の耳に響いている……。
自らの人生を悲観し、運命に絶望し、寂寞に酔い痴れ。
その末に響いた、心臓が張り裂けそうなほどの悲痛な声。
────……「どうして?」……────
“あの子”の声は。
いつまで経っても、消えないんだ。
《第九章:きめたこと 終》
次章より、第十章:かわるもの ―霜月―
夏をとうに忘れ、物語は秋へと季節を変えていく。
そうしてついに訪れる、文化祭本番。
活気溢れる空気の中にも、不穏な気配は、ひたり、ひたりと。
何の前触れもなく、唐突に。
日常は壊れていくのです。
☆ここまで読んでくださり、ありがとうございます
☆物語の、一つの区切りとなりました
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