第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の十弐
* * *
普段は意識することのない瞼が、どんどんと自らの存在感を主張し始める。泣き腫らした後の瞼というのは、どうしてこんなにも重いのだろう。小夜子はそう思いながら、顔を、と言うより目元に重点的に冷水を浴びせていた。
――明日まで腫れが響くと駄目……だからなぁ。後で一応冷えた布もかけてみよう。
前に美容関連の番組で紹介していたような気がするのだ。泣いてしまったときは腫れてしまう前にとにかく、目元を冷やせと。
ここで、小夜子は嘲笑する。
――……やたら現実的な自分が嫌になるよ……。
どんなに泣いていても、目の腫れだの何だのを気にしているあたりが現実的過ぎて、もう少し感傷に浸れないのかと自分に問いたくなる。しかし、いつまでも泣いていられないというのも事実だった。
「……んー」
濡れた顔をタオルで拭い、鏡を見てみる。瞼はその重さに比例した存在感を醸し出しているし、まだ鼻の先が赤い。どうやら自分は泣いてしまった跡が、長時間響くタイプらしいと小夜子は自覚した。しかしいつまでもこんなことをしていても何も変わらないだろう。何より水道代が勿体無いと感じてしまい、蛇口の栓を閉める。どこまで現実的な己に、自嘲めいた溜め息を吐いた。
「はあ……」
茶の間に入ると、奏一郎が何やら丸まった布を持ってきた。
「さよ。これで目を冷やすといい」
彼に手渡された白の布は冷え冷えとしていた。どうやら氷が中に入っているらしい。
「……ありがとうございます」
正直、そういう知識を彼が持っていたことが意外だった。なぜなら彼が泣くところを想像できないからだ。笑いすぎて目が潤むのは、先ほどお目見えしたばかりだが。
卓袱台の前に腰掛けてから素直に両の目に当てると、思わずほう、と息をついてしまう。熱を帯びていた瞼が急速に落ち着きを取り戻していく。心なしか、呼吸がしやすくなっている気もした。
「……なんだか、思い出すなぁ」
奏一郎が急に話し出すので、無意識に布を目元から離してしまう。視界に映った彼は、小夜子に背を向けて台所にいた。スーツの上着だけを脱いで、夕食作りに取り掛かろうとしているらしい。
「何を……ですか?」
「さよが二ヶ月前にここに初めて来た日も、こうしてさよは顔を冷やしてた」
くすくす、と彼が笑う一方で、小夜子も思い出す。
奏一郎が夕食を卓袱台に運ぼうとしていた時だった。運ぶのを手伝おうと立ち上がった瞬間に、卓袱台の脚に躓き転んだ上に、顔を思いっきり地面に打ち付けたのだった。今思えば、初対面から恥ずかしい姿を見られたものだ。
「……は、恥ずかしかったので、記憶の奥底に封印しておりました……」
「ふふ、そう。まあたしかに、あれは恥ずかしいだろうな。見事な転びっぷりだったから」
話題を転換させようと気を遣ってくれているのか、それとも単にからかいたいだけなのか……。もしくは両方かもしれないが、小夜子には判断しづらいものだった。
「実は僕ね、その時……。さよのこと、よくわからないなぁって思っていたんだよ」
「…………」
その台詞、そっくりそのまま返してやりたい。そう思う彼女だったが、奏一郎の醸し出す不思議な雰囲気に呑まれ、何も言えずに瞼を閉じる。
「やたら緊張している風だったし、どもる子だったし。最近の若い子はみんな緊張しいなのかなぁ、なんて思ってさ。でも……」
当時の緊張は彼の風体から仕方なく生まれてきたものなのだが――。
どもっていたのは、
「自分の言葉が、出しづらかったんだよな?」
「…………」
先に答えを言われてしまって、結局小夜子は何も言えない。ただひたすら、彼の言葉に耳を傾ける。
「……だからね、さよ」
彼はそのまま、続けた。
「これからはたとえ言いづらくても、言いたいことをたくさん言って。さよを理解できるのは、僕が嬉しいから」
言いたいこと。言いたいこと。もう、忘れかけていた言葉だったかもしれない。
小夜子はその言葉を、何度も咀嚼した。きゅっと、唇を噛み締めながら。二度と忘れないようにと、誓いながら。
「……では、言わせていただきますと」
「はい、どうぞ」
「……ありがとう、ございます」
自分の声に震えが生じてしまったことに、若干の躊躇いを覚える。
「何が?」
「……夕食を作ってくださって、ありがとうございます」
奏一郎は、くすくす笑う。
「そんなの、いつもしているでしょう?」
「い、いつもしてくださっているからこそ、です……」
「……そっか」
納得したらしい彼の声に温もりが灯る。自分の声は、潤いで揺らめく。
――……泣いた後って絶対、涙腺が緩んでるんだなぁ……。
冷えた布は上手いこと、瞼を隠してくれていたけれど。少しだけ、それに涙が滲んで。
真っ暗な視界の中、温かい涙が氷を溶かしたのがわかった。
* * *
静音の言った通りだった。衣装代や小道具代が浮いたお陰か、大道具のハイクオリティなこと。完成品をさらに工夫する時間もたっぷりとある。空きの教室は今や、メルヘンな城や森などに囲まれているのだった。
「いやぁ、静音のお兄ちゃんに感謝だねぇ」
陽菜がにこにこした表情で言う。彼女も衣装をレンタルしたらしく、それがお気に入りのようだ。まだ家に大事に保管してあるらしいが。
「お兄ちゃんよりもまず、私に感謝しなさいよねー」
ふんぞり返った静音に、「静音最高ー」、「静音大好きー」とクラス中から調子の良い喝采が起きる。どうやらこのクラスの人々は、彼女の取り扱いには慣れているらしい。
しかし、小夜子は、
「あの……静音ちゃん、ありがとうね」
「ん?」
様々な意味を込めて、彼女にその言葉を送る。彼女もその意思を汲み取ったのか、
「おー!」
にぱっと、明るく笑った。
やや浮かれ気味の教室はがやがやとしていて、放課後とはいえ学び舎とは言い難い。
「楽しみだなぁ、劇!」
「他のクラスの子がね、すっごく楽しみにしてるって!」
「やっぱり楠木さんが主役ってだけあって、注目度高いよね~」
皆が口々に囃し立てる中、渦中の人物は台本に目を通すだけで、誰とも会話をしていないし、目を合わせようともしていない。最近は、演技指導の日下とはよく話すようではあるが。
「うるさいぞー。2-Aの諸君」
そう言ってメルヘンの世界に入室してきたのは、その背景にあまり似つかわしくない担任の杉田の姿だった。
「浮かれる気持ちもわからんではないが、さっさと演技の練習にでも入れー」
彼女もその空間に居づらいせいか、それだけ言って足早に教室から出て行く。
「よし、じゃあ練習しよう。最初のシーンからやるから、陽菜、中央に入ってー」
「はーい」
細かな小道具や照明も使用しての演技指導。
薄暗い教室。陽菜は演技力がある分、日下も演劇部としての性ゆえか、懸命に指導を行っている。
この後には小夜子と芽衣のシーンの練習があるのだが、それも日下のお陰でだいぶ後回しになりそうだ。
刹那、脳裏を過る、奏一郎の穏やかな言葉。
――「これからは言いづらくても、言いたいことをたくさん言って」――
「……よし」
小声でそう言うと、小夜子はそーっと、彼の人物に近づいていく。目の前に到着した瞬間に、その人物は意外だと言わんばかりに琥珀色の目を丸くさせるも、一瞥だけくれて再び手元の台本に目線を落とした。
それでも、小夜子は一歩も退こうとはしなかった。
「……なに」
静かに短く問う芽衣。目線を合わせてもらえないのは、もはやお決まりで慣れたものだ。
「……あのね、ちょっと、お話いいかな」
小夜子はそう言って、扉を指す。一瞬眉を顰めた彼女だったが、黙って立ち上がると、先に廊下へと出て行った。
* * *
壁に背もたれて腕組み。芽衣は時々人を見下げるような態度を取る。彼女の方がよっぽど流れ星役にぴったりなのではないか、と少々呑気なことを考えてしまう小夜子。
「で、なに」
ひどく冷淡な声が、静かに廊下に響いた。が、小夜子はもう彼女を恐れはしない。
「……私、ね。楠木さんのこと、放っておけないの」
またその話か、と芽衣は顔を背ける。
「放っとけって言ったよね? なのにまだそんなこと言うの?」
「ああいうの、放っておきたくない、から」
頭痛がするのか、頭を押さえる芽衣。徐々にイライラしてきたようだ。
「……それが自己満足だって、迷惑だって言ったはずだけど? もう忘れたの?」
「……そう、自己満足だよね。……私も昔、おんなじようなことをされてたから」
嫌な記憶。ゴミ箱から出された自分の物はひどく汚れていて。傷がたくさんに付いていて。
だけど、それ以上に――心が、痛んだ。彼女に向けたこの感情は、同情に他ならないだろう。もし他にあるとしたなら、それはきっと同一視。なんにせよ、「博愛」だとか。そんな綺麗な気持ちではないだろう。
「昔の自分を見ているようで……居た堪れないから。だから、楠木さんを放っておけないんだと思う」
「…………」
芽衣は何も言わない。また、呆れているんだろうか。だから、何も言わずにいるのだろうか。そう訝ったが、小夜子はそのまま続けた。息を、目一杯吸い込んでから。
「わ、私ね、楠木さんと、友達……に……なれるものなら、なってみたい……と、思っている……から」
震える声が後半から徐々に、か細く小さくなっていく。が、ちゃんと彼女に聴こえてはいるはずだ。
“友達になりたい”。
思えば、出会った瞬間からそう思っていたのかもしれない。そう思うのも、彼女がどこか奏一郎と似ている、という第一印象からかもしれないが。
「だから、その……力になりたいなって。なれたらいいなって、思っ」
「胡散臭い」
――早っ!
彼女のこの切り返しの早さは何なんだ。少しは分けてもらいたいものだ。
「話は終わり?」
そう問われた小夜子は、彼女の物言わせぬ迫力に、思わず口を噤んでしまう。彼女の目力はすごい。特別目そのものが大きいわけではないが、切れ長の目からは何かしらの威圧感が常に放たれている。常に戦闘態勢にある騎士のよう。騎士役、適任ではないか。
小夜子が何も言わないのを見て、彼女はさっさと踵を返して教室へと入っていってしまった。その間、振り返ることもせず。一瞥もくれず。
一人、廊下に取り残される胡桃色の少女。
「……あー、もう。……あそこで黙ったら駄目だっていうのに……」
結局、言いたいことの半分も伝えられていなかったのではないか。
――……あれ? 私、楠木さんに何を言いたかったんだろう……。
しばらくそういう行為をしようとしなかったせいか、自分の気持ちをうまく伝える術どころか、自分の気持ちすらわからなくなってしまったのか。どこへやら、置いていってしまったのかもしれない。
「……小夜子ー!」
教室から響く、自分を呼ぶ声。これは紛れも無く親友のものだ。
「あ……はーい!」
小夜子は何かを振り払うかのように、首をぶんぶん振ってから教室に戻っていく。
向かいの校舎からの視線――氷のようなそれが自分を射抜いているのに、一切、気づかないで。
* * *
「じゃあ楠木さん、萩尾さん、三ページ目の登場シーンから! まずは通しでやってみよー」
「はい!」
勢いよく返事をするも、目の前にいる芽衣のことしか頭に入ってこない。
――……うー、言いたいことー……言いたいことって何だろー……。
そんなことを悶々と考えている間に、練習は始まって。芽衣にまず、スポットライト代わりの照明が当てられる。
「……『王女を苦しみから解放したいと、思ってはいる。……だが、私の求めていることはそれだけか? なにか、なにか、もっと他にもあるんじゃないのか』」
日下の演技指導のお陰か、彼女の身振りや立ち居振る舞いはずいぶんと立派なものに仕上がっていた。元々の顔立ちが女優のような雰囲気を醸し出しているせいか、まるで本格的な舞台でも見ているような気分になってしまう。しかし、ぼーっと見惚れているわけにもいかない。小夜子は、照明を追うようにして彼女の向かいへと歩を進める。
「『お前は……誰だ』」
多少の私情が混じっているのか、小夜子の登場に一瞬眉を顰めて演じる芽衣。たじろぐ小夜子だったが、気にしまいと演技に励む。
「『私の姿に、驚いているのか? ……私に名を訊くよりも、お前には先にしなければならないことがあるはずだろう』」
「『先に?』」
「『……願え。行動を起こすのはそれからだ』」
相変わらず、慣れない口調だ。高圧的で、傲慢で、言いたいことをずばりと言い切る。自分とは、ほとんど対極にいるこの流れ星。
だが――流れ星は、“騎士そのもの”。
芽衣が再び、口を開く。
「『……私の願いを、お前が叶えてくれると言うのか? この浅ましく、醜い私の言葉を、聴いてくれると言うのか?』」
「『私はあくまで聴いてやるだけ……お前の背中を、押すだけだ』」
その時、ふと、奏一郎の言葉が脳裏に浮かぶ。
――騎士の気持ちになって、演じてみたらどうだ?――
「…………」
目の前にいる、騎士。彼は――いや、彼女は……なぜ、助けを必要としない。
「……『信じて、いいのか?』」
琥珀色の目は小さく揺らめいていて――助けを求めているように、見えるのに。なぜ、誰にもそれを言わないのか。
小夜子はもう、わかった気がした。いや、本当は、わかっていたのだ。自分も、そうだったから。
わからないフリを、していただけだ。ただ、振り返ることをしたくなかっただけだ。
それはきっと――自分が、“よわい”から。だから、いつまで経っても勝てないのだ。そこから、這い上がれないのだ。
過去にも、父にも。
「……『信じて、いい』……」
――自分の願いを叶えるのは、いつでも、どんな世界でも自分でなければね――
泉が湧くように、溢れ出てくる彼の言葉。それは優しく、だがとても、力強く。
「……信じて。……信じて、いいよ……」
琥珀色の瞳が、一瞬だけ丸くなる。信じられないものを見たみたいに。それは照明のせいか、輝いたように見えて――。
「萩尾さん! 最後の台詞に『よ』は入んないよー!」
日下の待ったがかかり、空き教室が明るくなる。
「やっぱり難しいのかな、台詞? ……今更変えるわけにもいかないんだけど……」
心苦しそうな日下。この難しい脚本を書いた彼にも、罪悪感が芽生え始めたようだ。
「だ、大丈夫……! いっぱい、練習するから!」
そう言って、小夜子は笑ってみせた。