第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の十壱
「あの人は、否定するから……。私を、私の全部を、否定するから……っ」
「……否定?」
「…………」
奏一郎が薄く微笑みかけた。そんな気がした。
「言いたいなら言いな、さよ」
一度話し出してしまえば、もう――止まらないだろう。それも、甘えだろう。
それでも、震える声を止めることは、不可能だった。
「お、お母さんが、亡くなってしばらくしてから……急にあの人、私のこと、存在さえも否定し始めたんです……」
いつからだったか。二人だけになって、一ヶ月を過ぎた頃か。挨拶をしても、何も返してくれなくなった。目を、合わせようともせず。
「最初は……何かの間違いだって、ただ機嫌が悪いだけって……思い込もうとしてたんです。でも、目の前にいるのに……何も無いみたいに、私にぶつかってきてから……やっぱり、変だなぁって……」
思い出すだけでも吐きそうになる、あの匂い。あの匂いは、今も苦手だ。小夜子にとっては、すぐに死へと誘う毒薬だ。
「私の肺が悪くなるからって、ずっと止めていた煙草を……また、吸うようになって」
思い出すのは、真っ暗な記憶。そこに漂うのは、揺らめく白の煙。
彼女のいる時に。彼女のすぐそばで。徹は、煙草を吸うようになった。白い煙が自分を覆うたびに。その度に、小夜子は咳き込んで。自室へと逃げなければならなかった。
「……お母さんがいなくなったことに、耐えられなくて……自分がそばにいたのに助けられなかったことに、責任を感じるのに疲れてしまって……あの人、自分のしたこと、全部、全部の責任を私のせいにしたんです……」
学校から家に帰るたびに、いつも祈っていた。
今日の彼の機嫌が、良いものであるように、と。
元通りに、とは。前みたいに、とは、もう望まなかった。
ただ、今日の機嫌だけが、それだけが知りたくて。それだけが気になって。それでも。いつも希望だけは捨てなかった。
今日は大丈夫。きっと大丈夫。
何の根拠の無い妄想で、自分を護った。心を護った。
ただ――……家の扉を開けていつも待っていたのは、徹の姿、ではなく。
廊下に飛び散った、皿の破片。
何色もの色がいくつもの形を成して、廊下に広がって――。無心に、綺麗とさえ思った。
「自分で割った、くせに……」
――『お前のせいだ』。
「お母さんが亡くなったのだって……」
――『あの時、一緒にいたのはお前だ』。
「……『どうして?』」
――『お前さえ、いなければ』。
「『どうして、私のせいになるの』……?」
――……『お前のせいなんだ』。
「『どうして』って……訊いても。『答えて』って、頼んでも。『私のせいじゃない』って、言っても。何にも……何にも、変わらなくて。……お父さ、は、私に、言葉を、くれないから……お父さんが、怖いんです……っ!」
目尻から伝ったものが地面に落ちるまでに、さほど時間はかからなかった。紅く染められた道に出来上がっていく、蝋色の水玉模様。今は、それしかできない。それを作り上げることしか、できない。
“お父さん”という単語を出すのが、こんなに苦しい。息を吐くのも、吸うのも苦しい。
「お父さんは、否定の言葉しかくれないから……。何を言ってもっ……何にも、届かないなら、私の声が、届かないなら、何にも、変わらないなら……っ! もう、言葉なんて要らない……。自分の言葉なんて……っ」
言いたく、ない。
昨夜、奏一郎に訊かれたこと。“なぜ自分の意見を言わないのか”――。
言いたく、ないからだ。
自分の意見なんて言ったところで、きっと誰にも届かない。
父親さえも拾ってくれなかった言葉を、誰が拾ってくれるというのだ。
無駄、無駄。
全て、無駄。
なのに、どうして。
今になって言葉がどんどん、溢れてくるのか。涙が次々、伝っていくのか。
「本当に、私は、狡い……です。自分が傷つきたくないからって、お父さん……呼ばなかったですし。静音ちゃんや先生にまで嘘、吐いて。奏一郎さんの優しさに、甘えてばっかりで。……こんな、こんなの……最低です……っ」
ああ、吐き出してしまった。自分の言葉を。届かないと、わかっているのに。
――……どうして、止められなかった?
“言いたかった”? “楽になりたかった”?
……なんて、身勝手で我が侭で、最低な願望。
結局、全ては“甘え”。
「……さよ」
呼ばれても、顔を上げることはできない。顔を見てしまえば、きっと縋ってしまう。また、この人に甘えてしまう。
「どうして……泣いてるの?」
俯く視界に、自分の影を乗せた彼の足元。小夜子は目を固く瞑って、熱い瞼を引き合わせる。暗くなった視界。潤んだものが、頬を伝うのがわかる。
「さよ」
だが耳を塞ぐことは――彼の声を無視することは、できなかった。それでは、あの人と同じになってしまう。それだけは、駄目だ。
「聴こえてるよ、さよ」
思いがけず、開ける視界。彼は変わらず、自分の目の前にいて。見上げずとも、顔を見ずとも、声色でわかるのだ。彼は、微笑んでいるのだと。優しく、全てを受け入れるような目で。
「ちゃんと、聴こえてるよ。届いてるよ」
風が、胡桃色の髪をなびかせていく。その風は、彼の方から吹いていて。軽やかで、なぜか――とても優しい、香りがした。
「……さよの声、届いてるから、さよ。大丈夫だから……」
そんな言葉、昔の自分と何も変わらない。何の根拠も無い、ただのその場しのぎの言葉。
他人を満足させるだけの、おざなりの言葉。
届いている、はずなどないのに。そのはずなのに。
「……寂しかったね」
――どうして、この人は心を溶かす?――
「……うっ」
一瞬、呻きにも似た声を出してしまえば――……堰を切ったように、流れ出す心。
溶かされた心が、頬を伝う。ぼろぼろと伝っていく。顎を伝って、地面に降り立っていく。
――……駄目。駄目だ。早く、早く、泣き止まなきゃ……っ。
叱りつけられた子供のように、瞼をぎゅっと閉じて、涙を閉じ込める。そうすれば、出てこないはずだ。止まるはずだ。
「……っう……う、あ」
苦しい。息が苦しい。呼吸がうまく、できなくて。
苦しすぎて、肩が震える。
「……さよ、寒いの?」
――……またこの人は、見当はずれなことを言ってくれる……。
内心少し笑いそうになってしまう。惜しくもその笑いも、涙には勝てなかったのだが。未だに、停止してくれない涙と肩。瞼の裏、閉じ込めたはずのそれは止め処なく蓄積されていく。
その刹那。
ふわりと、体が温かくなる。目元に集中していた神経が、上半身に分散されていく――。
「うん、今はこれくらいしか持ち合わせてないな……」
ぽつりと呟く彼の声に、ぱっと目元を解放すると――制服の上に、純白の羽織がかけられていた。文化祭の衣装のために、奏一郎がくれたもの。完成図のものが気に食わなくて、一工夫したいと言っていた、あの羽織。
――“少し僕なりに、好きにしてもいいだろうか”――
本当に、言葉通りだ。
羽織の袖には、金色と銀色の小さな蝶があしらわれていた。金糸と銀糸で交互に編みこまれたそれは美しいグラデーションを作り上げ、白の世界を舞っている。光を浴びるとそれはますます輝いて、目に眩しいほどだ。黄金色の夕陽が射し、いっそう煌びやかに舞う蝶。
「……綺麗」
率直な感想。
「さっき完成してね、一刻も早くさよに見せたかったんだ」
その時、小夜子は一つの失敗を犯した。
顔を、上げてしまったのである。そして必然的に、見えてしまったのである。
夕陽に照らされた、彼の顔を。
無償の優しさを宿した、彼の笑みを。
「…………っ!」
瞼を閉じる前に目尻からまた溢れ出す、涙。奏一郎も、少しだけ目を丸くした。が、彼はすぐさまくすくすと笑う。
「あ、泣いてる」
「っ奏一郎さんは……っううっ、狡い、です……っ!」
きょとんとしてから、奏一郎は首を傾げた。彼女の言っている意味が、わからないのだろう。
「どうして?」
「い、言ったじゃないですかっ! そ、そういう優しさは……っ悲しく、な……涙が、出る……じゃないですかぁ……!」
言葉と共に、溢れ出す感情の塊。もう止まらなかった。頬が濡れまくっていくのも、お構いなしだ。だってそうじゃないと――息が苦しくなるから。
「……うん、言われた記憶がないなぁ……」
そう、たしかに彼女は言ってはいない。心の中で思っただけである。だから、奏一郎がそれを知る由も無いのだが――彼からすれば、これで満足だった。
風が木の葉を巻き上げる。躍らせて、どこかへ颯爽と攫っていく。
夕陽も傾いて、街に別れを告げていく。だんだん、地面の色と一体化していく影。もう、そこに涙の斑点模様は見られなくて。
学校のチャイムが、高らかに鳴り始める。
「……やっと、泣けたね」
チャイムに乗せられたその声は、とても小さなものだったけれど。
小夜子の耳にも、届いていた。
* * *
時折、覚束無い足元を街灯が照らす。とっくに街に別れを告げた夕暮れは、別の場所にその晴れ晴れとした表情を振りまいているのだろう。
もう泣き止んだ小夜子ではあったが、未だにしゃっくりだけは続いている。こんな子供のような泣き方をするのは実に久しぶりで、体中に酸素が十分に行き渡らないような感覚が非常に不快だ。
だから泣くのは嫌いなのだ。
「ひっ……く……」
「なかなか収まらないな?」
薄い笑みを浮かべながらも、奏一郎も少し困惑している様子。息を止めればしゃっくりも止まると聞いたことはあったが、それは彼女の体を考慮すると憚られることなのだった。驚けば止まる、とも聞いたことがあったが、それは心臓に悪いから好む手段ではない。
「柿の蔕を生姜と共に煎じて飲むと治ると、聞いたことがあるぞ?」
「し、ひっく……渋い治し方、ですね……」
妙な知識だけは豊富な奏一郎である。
「うーん……じゃあ、他愛も無い話をして、気を紛らそうか?」
「あ、そ、それがいいですっ」
「さて、何を話そうか……」
うーんと言って、空を見上げる彼。考え事をするときの、彼のいつものくせだ。
「あ。……さよのさっきの言葉、すっごく嬉しかったなぁ」
「う、何の、ひっく……話ですか」
「僕の料理の話。“一番元気になれる”んでしょう?」
「う、あ」
今思えば、なかなか大胆なことを言い切ってしまったな、と頬を染める小夜子。心から思っていることを口にすることは、あんなにどきどきすることだったろうか、と。
「そ、奏一郎さんの作るご飯は、ひっく、美味しいだけじゃないですから。優しいですので……だから元気になれるんです、たぶん」
言い終わって、彼女は自分の言葉にひどく違和感を覚えた。自分の元気の源は――本当に、料理だけだろうか。
「ふふ、ありがとう。料理の特訓、した甲斐があったなぁ」
たとえ暗闇でも遠くの光が照らしてくれる、奏一郎の柔らかく、幼気な笑み。母性をくすぐられるようなその表情は、思わず抱きしめたくなる衝動に駆られてしまう。
彼はときどき、こんな笑顔を浮かべる。いつもは“綺麗”な彼を、可愛いとすら思えてしまうような笑顔を。スーツを着ている大の大人に対してそんなことを思うなんて、やはり失礼なのだろうか。橘には、“可愛い”と思いっきり言ったことがあるのだけど。
そんなことを小夜子が考えているとはいざ知らず、彼は納得したかのように呟くのだった。
「……でも、そっか」
と。
「なにがっ……“でも”なん、ですか?」
まだしゃっくりは止まらない。
「ん? なんか……ね」
奏一郎は柔らかい笑みを浮かべたまま、続けた。
「さよも、ちゃんと将来のことを考えているんだなぁって、思って」
高校生なんだから当たり前かもしれないけどな、と笑いながら付け加えて。
「さよも三年生になって、いろんな学校を見学して、どこの学校に行くかを決めて、たくさん……たくさん、勉強して。……受験して、合格して。たくさん、いろんなことをそこで学んで、友達も、たくさんできて。いろんなこと、経験して……。そうして……そうやって、大人になっていくんだね」
――……。あれ?
小夜子の心臓が、どくんと跳ねる。体中を駆け抜けたのは、唐突に生じた焦燥感。
奏一郎の言い方は柔らかいのに、とても優しいのに、どうしてだろう。
置いていかれるような、気持ちだろうか――いや、違う。
置いていく気持ち。
どうして、こんな焦燥が生まれたのだろうか。理由は、靄がかかったようで見えないのだけど。
彼の台詞に、言い知れぬ悲哀が響いた気がして。静かで沈鬱な孤独が、見えた気がして――。
「さよ」
「……はい」
相変わらず、碧の瞳は綺麗で。彼の表情は、真剣そのもので。じっと見ていると、吸い込まれてしまいそうなほど。だけど、次の瞬間にはそこに笑みが現れる。
「しゃっくり、止まったね」
「あ」
そう、いつの間にか――痙攣していた横隔膜は落ち着きを取り戻していたらしい。どうしてだろう。会話に集中していたからか? それとも――彼の発言に驚いたから、だろうか。
「お腹空いたろう? 早速夕食にしようか」
その一言が、魔法みたいに響く。心が、安らぎに満ちていく。
目の前には、明かりの点かない心屋があった。