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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の十

 杉田が、そんな彼に頬笑みかける。

「今回の場合、少し数学が心配ですが、それ以外の教科は高得点です。三年に上がれば文系と理系にクラスが分かれますので、数学に関してはそこまで心配は要らないと思いますよ。進級できない数値ではないですし」


 たしかに、数学は学年平均以下の数値を叩き出しているが、それ以外の教科は全て平均以上、現代文に関しては満点に近い。


「……驚いた。さよって、成績良かったんだな」

「そ……そこ、驚きますか?」

「うん」

 きっぱりと断言する彼に、杉田がくすくすと笑う。一方の小夜子は少しだけ、唇を尖らせた。


「萩尾さんは授業も真面目に受けてますし、ノートも綺麗にとりますからね。授業中、たまに友人に助け舟を出したりもしてますし」

「ああ、そうなんですか……」

 感慨深げにそう呟いて、奏一郎は満足しきったかのように見えた。


 が、ここで杉田の表情が曇る。

「……ただ一つ問題がありまして」

「問題?」

 これには、小夜子も顔を上げて反応する。


 ――え、なに、私なにかしたっけ?


 戦々恐々と小夜子が身構えるのを見て、杉田がその重々しい口を開いた。

「数学のテストですが……採点した先生によると、萩尾さん、解らなかった問題があったらしく、その空欄を一つ空けたのはいいんですが、その後、空欄をずらさずに穴埋めしてしまったようで、こんな点数に……」

「えぇ!?」

「……っふ」

 奏一郎が噴き出す。


 数学の点数がこんなに低いのには、れっきとした理由があったのだ。ちなみにこのミス、彼女は人生で二回目である。


 ――中学生の時も一度やってしまったから、すごく注意してたのに……っ!


 悔やんでも悔やみきれないとはこのことだ。そして、後悔先に立たず、という言葉を思い知らされる。


 そして、ふと傍らにいる奏一郎を見てみると――。彼は、肩を震わせていた。


「え、そ、奏一郎さん? わ、笑ってるんですか?」

「……っふ、はは、だってさ……っ、最近のさよ、家でお皿も割らないし、転んだりもしないし……。ドジっぷりが陰ってきたなと思ってたのに、まさか、しっかりとそんな布石を置いていたとは……っ」

 腹を抱えて、彼は笑っている。こんなに爆笑している彼を見るのは、もしかしたら初めてじゃないだろうか。相当ツボにはまったのか、目尻からは小さく雫が浮かんでいる。今は口を押さえているが、もしその手が無ければ、廊下中に高笑いが響いたことだろう。


「そ、奏一郎さん、笑わないでくださいよ……っ! 第一、別に布石を置いていたつもりなんて無かったんですから!」

「いや、面白い……ごめ、止まるのに時間かかりそう」

 ようやくそれだけ言って、彼は必死に笑いを抑えようと努めた。


 顔から火が出るほど恥ずかしい――。小夜子はそう思ったが、隣で必死に平常心に帰ろうとする彼を、不思議と責める気にはならなかった。

 

 杉田もこの状況に異を唱えるどころか微笑ましいとばかりに笑うだけで、なんだか一人取り残された気分にまで陥る。これほど早く終わってほしいと願った三者面談はない。


 彼女の願いが通じてか、

「えー、じゃあ、最後なんですが……」

 杉田がそう切り出す。

「先日行った進路希望調査では、萩尾さんは……」

 ここで、突然小夜子が待ったの声。

「せ、先生!」

「はい?」

「あの、それは今ここで言わなきゃ駄目でしょうか!?」


 一瞬きょとんとした杉田だったが、すぐにいつもの毅然とした彼女に戻る。

「ああ、せっかく保護者の方がいらっしゃってるんだから。だいたい、三者面談って進路をはっきりさせるものだろ?」

 その“保護者の方”は、まだ腹を抱えているのだが……。

 多少躊躇われたが、小夜子は大人しく「はい」と言って目を伏せる。


「……えー、聖さん、よろしいでしょうか?」

 まだ笑みを口で押さえている奏一郎に、杉田がそう問いかける。

「あ、はい……」

「萩尾さんは、調理関係に進みたいとか?」

「…………」

 何故か黙る小夜子。奏一郎は、「へぇ?」と穏やかな笑みを漏らす。


「調理師になりたいの?」

「いえ、その……違うんです。単に、調査書の選択肢で私の進路と似ているのがそれしかなくて」

「ああ、そういうこと。で、何になりたいの?」


 心の中で多少呻きつつも、小夜子は小さく、

「……栄養士、とか……です」

 と歯切れ悪くも答えた。

 杉田が資料を開き、

「栄養士か。一口に言っても、病院や学校、介護施設だとか色々あるけれど。どこで働きたいとか、そういう希望はある?」

「う、いえ、そういうことはまだ全然調べられていなくて……」

 口ごもりつつ、小夜子はそう返す。


「そうか。どうして、栄養士になりたいと思ったの?」

「う、それは……」

 視界の隅に奏一郎が映るのを感じて、思わず目線を逸らしてしまう。

「……前々から私、料理なんか一切できなくて、でも、それでもまあいいかなって、思ってたんです。……一時期、すごく食生活が乱れている時があって……」


 傍らからの視線を感じながら、小夜子は言葉を紡いでいく。

「それのせいで、体を壊してしまうこともあって。……でも、下宿先に。奏一郎さんのところに来てから、すごく……すごく体の調子が良くて。今まで生きてきた中で、今が一番、一番元気なんです」

 心臓が少しどきどきするのを抑えながら、さらに続ける。

「きっと、それは奏一郎さんのおかげですから。奏一郎さんのお料理が、すごく優しいから……だと、思ってます。それで、やっぱり“食”って大切なんだなぁって、思って。そういうこと、少しでも学べたら。誰かに教えていけたらいいなって……」

 

 口を噤んだのを見て、黙って話を聴いていた杉田が、「なるほど」と呟いた。

「うん、わかった。まあ、まだ高校二年の秋だからゆっくり考えていこう。進路室に行けばもっと細かい資料もあるし、いつでも相談乗るからさ」

「はい」

 なんて心強い言葉だろう、と心から小夜子は思った。今までほとんど関わったことの無かったこの人を、小夜子はあっという間に好きになっていた。


「さて、これで終わりなんですが、まだ時間もあります。何かご質問はありますか? 聖さん」

「はい、ありますね」

 にこやかな表情でそう答えると、杉田も同じくらい穏やかな笑みを返す。

「じゃあ萩尾さんは練習に戻って良いですよ。お疲れ様」

「あ、ありがとうございました」

 立ち上がって礼を言うと、小夜子は教室から出て行った。


 突然現れた下宿先の主人に、多少の疑問を抱きながら――。


* * *


「ご質問とは、何でしょうか?」

「……さよの、体のことについてなんですけど」

「はい」

 神妙な面持ちになった両者。先に切り出したのは奏一郎だった。

「学校では、大丈夫でしょうか。なにか、特別変わったこととか」

「……そうですね、本人の主治医の先生から頂いた書類には……普段の学校生活を送る分には悪い影響は無いでしょうが、体育は絶対に見学させること、とありました」

「……そうですよね」


 その資料は、小夜子の父である徹の手を経て、奏一郎の元へも郵送されていた。小夜子にはそのことは言っていないが、別段言う必要も無いだろうと判断してのことである。

 杉田は、さらに続けた。

「でも、いつも寂しそうに見学していますよ。自分も何かやらなければと、先生方の手伝いをしたり、ボールやハードルの片づけを手伝ったりしてますけど、やはりどこか他の子との差異を感じてしまっているようで……」

「…………」


 奏一郎は黙ったままだった。


 ただ、杉田の目には――彼が、緩く微笑んでいるのが映っていた。その笑みは妖しく、だがとても、憂いに満ちているのだった。


「……先生。さよのこと、よろしくおねがいします」

 姿勢正しく会釈をすると、杉田も同じくらいの角度で頭を下げる。

「こちらこそ」


 涼しい風が、秋を彩る。ぼんやりとした夕陽の光もまた、街を黄金色の世界へと誘っていった。


* * *


 教室から出て、辺りを見回す。閑静な廊下は、もはや周辺には自分しかいないということを暗に示していた。安心して、橘から借りた鞄を開けることができる。

「とーすいくん、これが“学校”だよ」

 またも不機嫌な顔を出す、銀色の水筒。

「まあまあ綺麗なとこだけどよ。人の気配がぷんぷんしてて気持ち(わり)ぃ」

 極めて不快そうな声を出し、あっという間に彼は鞄の中に引きこもった。

 あまり心屋の外に出る機会の無い彼を、奏一郎は連れてきたかっただけ――つまりは嫌がらせでもなくむしろ善意のつもりだったのだが、そのような厚意はとーすいには不要だったらしい。


「じゃあ、帰ろうか」

「だな」


 さっさと鞄の中に引きこもってしまったとーすいとは違い、奏一郎はまるで高校見学に来た中学生のように辺りを見回している。

「これが学校かぁ。初めて来たな」


 美術部の作った作品や、運動部の表彰状やトロフィーなどが並べられている棚を見る。どれも功績であり、青春の証だ。


 陸上部の高らかな笛の音。ボールが転がる無機質な音。筆を走らせる滑らかな音。楽器の清らかな音色。そして、密やかな談話の声。

 耳を澄ませば、色んな音が通り過ぎていく。


「……賑やかなのは、嫌いじゃないなぁ」

 くすりとそう呟けば、やがて下駄箱まで辿り着く。

「……奏一郎さん」

 ふと玄関口を見てみると、小夜子がそこには立っていた。彼女の手には、学生鞄が固く握られている。

「おや、さよ。待っててくれたのか?」

 声を出さずに、こくんと頷く彼女。

「文化祭の準備は?」

「あの、他のクラスの子に、私たちの使っていた空きの教室を貸してくれって……言われたらしく。今日は、もう……準備はしないみたいで」

「そうか。こんなところにずっといて、寒かったろう。帰ろうか」

「……はい」


 黒く真っ直ぐに伸びた影を追うようにして、二人は歩き出す。ただ、奏一郎が先を行き、背後の小夜子が彼を追うという何とも言い難い距離感のある位置取りだ。

 この静かすぎる状況を先に打破せんとしたのは、小夜子だった。

「……あの、奏一郎さん」

「んー?」

「……あの、どうして、今日」

「ああ」


 小夜子が言わんとしていることを先読みし、奏一郎は答える。

「昨夜、偶然に静音ちゃんに会ってね。今日がさよの三者面談だって教えてくれたんだ」

「あ、そうだったんですか」

 どういうつもりで彼女はそんなことを彼に言ったのだろう、と少々訝る小夜子。しかし静音のことだ。それこそ善意で言ったに違いない。


「うん、だからね」

 奏一郎はそのまま続けた。

「さよのお父さんにちゃんと会っておこうかなって思って。ほら、やり取りは郵送で、ちゃんと挨拶もしてなかったし。三者面談とやらに行けば、会えるかと思ってここに来たんだけど……まさか自分が三者面談に参加することになるとは、思わなかった」

 くすくすと笑う彼に、小夜子は微笑んで返す。

「それで、スーツですか」

「うん。これでも僕も大人だしね、スーツでご挨拶が無難かなあと思って。たちのきくんにネクタイの巻き方教えてもらったんだけど、なかなかのスパルタだったよ」


 少し首を傾げる小夜子。今までの彼の発言からすると――つまり、三者面談に参加することになったのはまったくの偶然であったと、そう言いたいのか。

 それにしては、出来すぎた偶然だと彼女は思うのだが――。


 しかし、それには触れないでおく。何にせよ、それは彼女にとっては願ってもないことだったのだから。孤独を味わわずに、済んだのだから。


 そして、その笑みが漏れる口で奏一郎がぽつりと言葉を落とす。


「……来なかったな、さよのお父さん」


 その一言に――“お父さん”という単語に、小夜子の足が止まる。


「……そうですね」

 まるで、他人事のようにそう返した。

「……残念だったな、さよ。まあ、お仕事が忙しいんだろう、気にするな」

 奏一郎は励ますように、慰めるように、歩調を遅めてそう言う。


「……暇すぎるよりは、いいことです」

「ふむ。そうかもな」

 奏一郎が、珍しく自分の意見に合わせてくれている。その気づきにくい優しさを、小夜子は感じていた。


「……あ、そうだ、さよ。また新しく、子猫たちの面倒見てくれる人、探さなきゃな」


 話題を転換させる彼。その夕陽に溶けたような、優しげなはずの笑顔は、どこか痛々しくも感じて。


 その優しさが――……痛い。


「……はは。甘えて、ばっかりですね……私は」

 思わず、本心から出てきた台詞だった。彼の耳に届いているのかは、わからないけれど。


 ――……ううん、届いて……ないだろうな。


 彼の言葉は、優しい。穏やかで、安らかで、柔らかで。

 だけど、それでも――。


 小夜子は、影を踏みつけたまま、一歩もそこから動かない。


「……さよ?」

 さすがに、彼もそれに気付いて足を止めて振り返る。

 自転車に乗った高校生たちが二人を通り越して、風と共に走り抜けていった――。


 頬を、風が撫でる。


「……違う、んです」

「……?」

 奏一郎が眉を顰めた。

 震える声で。小さな声で。それでも、小夜子は続きを言った。

「あの人は……“来なかった”んじゃないんです。私が“呼ばなかった”んです」


 奏一郎が目を丸くする。しかし、俯く彼女には彼の足元しか見えていない。


「……連絡、しようと、したんですけど……駄目でした」


 あの夜。

 携帯電話を広げて、徹宛てにメールを作成した。三者面談があること、そして空いている日付を教えてほしいと、簡素で、愛想の欠片も無いメールを。

 そして、『送信』のボタンを押した――が。


 すぐに、震える手は送信を中止してしまっていた。


「私……駄目、なんです。あの人、駄目なんです」

「……どうして?」

 表情は見えないけれど、またも穏やかに問う彼の声。それでも――。今は、顔を上げることはできない。

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