第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の九
本日もほっぺたが落ちるほど美味しいだし巻き玉子を口にしていると、今朝の奏一郎の、あのにこにことした表情を思い出す。なんだか、とてもわくわくしたような笑みをしていた。何が彼をあんな風に喜ばせているのかは皆目見当もつかないが、何が原因なのか、そんなことはどうでもいい。ただ彼の表情を思い出し、彼が笑うと自分も嬉しくなる、このことだけが頭の中を占めているのだ。
「愛されてるんだねぇ」
陽菜にそう言われた瞬間、箸がバラバラと音を立てて床に落ちた。否、小夜子が落としたのだ。
「あ、ああ、あああ、愛……!?」
面食らった小夜子は、箸を拾おうともせずどもる口を金魚さながらぱくぱくさせる。そんな彼女を見て、陽菜は微笑を浮かべつつ割り箸を手渡した。
「うん。小夜子ちゃんのお母さん、小夜子ちゃんのこと大好きなんだなぁって思って」
「あ、違う、違うの。これはお母さんが作ったんじゃなくてっ」
「え、違うの? お父さん?」
“お父さん”。
その、短く聞き慣れた単語に、高揚しかけていた体は一気に冷めて――小夜子は、化石化した。
「……陽ー菜っ! あんた、あんぱんしか食べないの!?」
絶望から立ち直ったらしい静音が、ひっくり返った大声で問う。首を傾げるのは、問われた解答者。
「あ、牛乳欲しいかも~。購買で買ってこようかなぁ。二人、何か要る? ヨーグルトとか売ってるけど、買ってこよっか?」
小夜子が首を横に振る傍ら、静音が「コーヒープリン!」と注文。
「じゃあひとっ走りパシられてきまーす」
小夜子の箸を拾ってからそう言い残し、小動物は元気に購買へと繰り出していったのだった。
「ごめんね、小夜子。あの子、好奇心旺盛だからなんでも訊いちゃうし言っちゃうんだよ」
「……何が?」
微笑んで、小夜子が首を傾げた途端に静音は目を丸くする。
「え、だって。……あの。お母さん、亡くなられてるの、ずいぶん前に聴いてたしさ。それも今年の話でしょ? ……訊かれたくないことだって、あるんじゃないかなって」
「……静音ちゃんって、やっぱり優しいね」
雲のように柔らかく微笑んで、
「私は大丈夫だよ」
と、短く付け加えて。白米を頬張って、固く口を閉ざした。
現在、お昼休みの一時前。本日の三者面談の、最初のコマに当てられた生徒の名が、教室に響いた時間である。
* * *
今朝の皆の頑張りのお陰か、大道具は半分ほど作り終えて、あとは全体の練習に絞られることとなった。
教室の隅ではやる気の無さそうな芽衣が、日下の指導の下、剣を両手に構えている。
「あまり刃先は人に向けないようにして。練習中も、本番中も」
「当たり前でしょ」
冷たく言い放つも、なんだかんだで日下の話を素直に聴いているよう。
彼女が今手にしているのは、“ロングソード”に分類されるものらしい、と小夜子は静音から聞かされた。さすがに本物の諸刃というわけはなくもちろんレプリカなのだが、それは本物と説明されても疑うことの無いくらいの禍々しさを放ち、また柄や鍔も刀身も凝ったデザインとなっていて、可愛らしいセーラー服にはあまりに不似合いなのだった。
「……ああいうのって、どこに売ってるの?」
ふと気になって、“ああいうの”を持参してきたという静音に問う。
「ああ、あれ? お兄ちゃんの知り合いが、ああいうマニアックなものばっか取り扱ってる店を開いてるの、知ってたからさ。お兄ちゃんに頼んで、無料で小道具として貸してもらっちゃった」
「む、無料で?」
「うん。ついでって言っちゃあなんだけど、衣装協力もしてくれててさぁ。その分、大道具に力入れられるから助かってんのー」
鼻高々、と言った調子の静音。
――……世の中には、いろんなお店があるんだなぁ。と言うか、そのお店の人もそうだけど、その人と繋がりのある静音ちゃんのお兄さんっていったい……。
「静音ちゃんのお兄さん、会ってみたいなぁ……」
「え? う、うーん……。今度文化祭来るらしいから、その時に会わせるよ」
少しはにかむ静音。その笑顔をやたらいじらしく感じるのは、何故だろうか。
そして、小夜子は気付いていない。自分は静音の兄に、会ったことがあるのだということを。
そして静音もまた、自分の兄と親友が既に二度出会っていることなど、予想だにしていないのだった。
「楽しみだなぁ、お兄さんに会うの。早く文化祭にならないかなぁ」
小夜子はそう言って、小道具である首飾りに手をかける。もう少しビーズを通して、色鮮やかに仕上げればこれも完成だ。が、その首飾りを、先に静音が手に掴んだ。
「小夜子、もうすぐ三時だよ。三者面談行ってきな」
「…………」
「杉田ちゃん、教室で待ってるよ?」
現在、空き教室の時計は十五時十五分前を示している。
まだ、時間はある。
だが、時間の多さだとか、少なさだとか、そんなことはどうでもいいのだ。どんなに抵抗しようが、足掻こうが時は不可逆。確実に、“時”は来るのだ。
小夜子は観念したように、大人しく立ち上がった。薄い微笑を浮かべつつ、静音が小さく「行ってらっしゃい」と呟く。小さく頷くと、空き教室から小夜子は静かに出ていった。その足取りは不確かなもので、去っていく背中にも、どこか哀愁が漂っているのだった。
* * *
廊下は静かだ。
別段、廊下には小夜子しかいない、というわけではない。同じ階の他の教室でも三者面談は行われているため、廊下ではなるべく静かにするよう事前に言われているのだ。右隣の教室の前に並べられた待機用の二つの椅子には、知らない男子生徒とその母であろう女性が腰掛けて、小声で何やら会話しているよう。
彼らを見ている小夜子ももちろん、教室の前の椅子に腰掛けている。
だが、彼らと違う点は――小夜子の隣が空席だということ。
「…………」
冷たい空気が、廊下を駆け巡る。夏の暑さを忘れたそれは、容赦なく強く吹いているのだ。その強さは背後にある窓に目を向けずとも、木の葉が激しく踊っているのが音でわかるほど。乾いた音が擦れ合って、耳元を掠めていく。
――寒いなー……。早く冬服に移行しないかなー……。
薄く鳥肌が立った腕を抱えながら、小夜子は俯いた。その時、教室の戸が開く音。
「じゃあ先生、これからもよろしくお願いします」
現れたのは、クラスメイトの松本とその母。担任の杉田に向かって、深く一礼している。
「こちらこそよろしくお願いします。松本、今度の検定試験受かるといいな」
小夜子の存在に気付いた松本が、小さくこちらに向かって手を振ってきたので、小夜子も手を振り返しつつ、松本の母にも軽く会釈をした。
去っていく親子を見送ってから、杉田がこちらに目線を送る。
「あれ? まだお父さんは来てないのか?」
不思議そうに問う彼女の、綺麗な瞳と初めて目が合った。
「は、はい」
「そこじゃ寒いだろ? 先に入って、お茶でも飲もう」
「はい」
多少躊躇いつつも、小夜子は教室へと歩を進めた。机が二つずつ対に置かれ、椅子が窓際に一つ、廊下側に二つ並んでいる。
そこまで高い温度設定はされていないのだろうが教室の中は暖房がかかっているらしく、暖かかった。それは今まで寒い思いをしていた小夜子からすればいいことなのだが、数種類の香水の混じった匂いがして、頭がくらりとしてしまう。思わず、手のひらで顔の下半分を覆った。
「あー、空気入れ替えるか。寒いだろうけど、ちょっと我慢してくれ」
小夜子に気を遣ってくれたのか、杉田が教室の窓を全開する。寒さと直結した空気が、教室の淀んだ空気を一掃してくれた。
「香水の匂いって駄目なんだよなぁ、先生は」
そう言って苦々しげに顔を顰める担任の姿に、小夜子は椅子に座りながら、小さく噴き出した。
「私も苦手です」
「だよな? だから要点だけ言って、さっさと終わりにしちゃったよ」
たしかに、今はまだ十五時五分前。香水の匂いから早く逃れたくてさっさと終わりにしたとは、なかなか大胆な性格のようだ。
あまり会話をしたことの無かったこの担任に、不思議と親近感が湧いてくる。彼女は窓に背もたれて、自身の受け持つ陸上部の様子を見ているようだった。
窓を開けていると、陸上部の鳴らす笛の音が、よりはっきりと耳に響いてくる。
「いやー、急に寒くなったなぁ本当に」
くだけた口調で、杉田がそう呟いた。
夕暮れにさしかかった空が、彼女の焦げ茶の短い髪を明るく染め上げている。三十代半ばと思われるこの人は、何かと生徒から人気がある。ときに男子生徒を見下ろすほどの高い身長。鼻筋の通った端正な容姿。それに加え豪放磊落な性格ながら、校則を破った生徒には容赦なく喝を入れるという、誰にも媚びない姿勢が何よりも好感を高めているのだ。
「お茶淹れるよ。ほうじ茶好きか?」
「はい、ありがとうございます」
「いーえ」
彼女が生徒からの人気を集めている理由が、なんとなくだが小夜子もわかる気がした。遠慮の無い言い方が、距離を感じさせない。彼女は頃合を見て窓を閉めると、小夜子の向かいに腰掛けた。
目の前に置かれたほうじ茶を口にすると、冷え切っていた体が温められていく。その感覚が心地よい。
ほうじ茶と窓が閉じられたお陰もあって、数分後にはもう、寒さは少しも感じなくなっていた。
「……お父さん、遅いなぁ」
小夜子の資料をぱらぱらとめくりながら、ぽつりと杉田が呟く。いつの間にか、十五時はとっくに過ぎて、長針は二の数を指し示そうとしている。夕暮れも、だんだん傾いてきた。
「……そうですね」
ほうじ茶から生まれ出る湯気の行方を目で追いながら、小夜子も薄ら返事をした。
「萩尾、携帯電話があるなら連絡してみたらどうだ? なにかあったのかもしれないし、何なら別日に変更することもできるぞ?」
世の父親ってのは忙しいからな、と付け加えて、杉田が資料を静かに閉じる。
「……先生、じゃあ……」
その時だった。
小夜子が、口を開くのとほぼ同時に――教室の扉が、音を立てて開いたのだ。
「遅くなりました」
瞬時に、茫然としてしまった。聴き慣れた声。とても優しくも低い声が、耳を掠める。
椅子が倒れるのも厭わず小夜子は勢いよく立ち上がり、声の主の方に振り返った。視界に映ったのは――父、ではなく。
「……そ、う、いちろうさん?」
小夜子の思考は、暫し停止する。しかし、扉の傍らにいたのは紛れも無く、白髪碧眼の彼であった。
しかし、そこにいたのはいつもの彼ではない。彼の登場だけでも頭がこんがらがるのに、彼の身につけているものが、さらに小夜子を混乱へと追い詰めていく。
「な、なんで奏一郎さんがここに!? というか、なんで……なんで、スーツを着てらっしゃるんですか!?」
「ん? たちのきくんに借りちゃった。ネクタイなんてするの初めてだったから、たちのきくんに教わるのもけっこう大変だったんだよ?」
冗談っぽく、奏一郎は笑った。
薄い水色のシャツに黒のスーツを羽織った彼は、初めて着たにしてはずいぶん立派に見えた。普段、和服を主として着ている者がスーツに腕を通すだけで、会社に通っている普通のサラリーマンに見えてしまうから不思議だ。その髪と目の色から、やはり常人でないことは一目瞭然ではあろうが。
「……ずいぶんと、お若いお父様だな萩尾」
はっと我に返り後ろを振り向くと、呆気に取られたように杉田が目を丸くしていた。どうやら、奏一郎を小夜子の父親と勘違いしているらしい。半信半疑ではあるだろうけれど。
「ち、違いますよ先生っ! この人は、お父さんではなくてですね……っ」
「え、なに、さよ? 僕のこと、お父さんとして紹介してたの?」
「っだ~っ! 違いますって!」
頭を抱えつつ両者の誤解を順々に解き終わって、ようやく小夜子の三者面談は開始された。
* * *
「そうですか、“聖さん”……萩尾さんの下宿先の方だったんですね」
先ほどのくだけた調子とは打って変わって、丁寧な口調になる杉田。
「はい、いつもさよがお世話になってます」
にこやかに対応する奏一郎を、やっぱり大人なんだなぁ、と小夜子は思う。普段ののんびりとした落ち着きもやはり大人だから身に着けているのだろうが、こうして一応年上の杉田とも対等に接しているところに、彼が自分とは違って“大人”なのだと実感させられてしまう。
「では、早速お嬢さんのことについてお話しましょうか。……この場合、“お嬢さん”じゃなくて“萩尾さん”が正しいんでしょうが」
「あはは、どちらでもいいですよ。先生の言いやすい方で」
「そうですか、では」
杉田は分厚いファイルから一枚の紙を取り出し、小夜子に手渡した。
「これが、萩尾さんの二学期の中間テストの結果です。聖さんも一緒にご覧になってください」
「あ、はい」
少々気まずい想いを抱きながらも、小夜子は奏一郎にも見えやすいように成績表を持つ。時折、
「うーん……」
と呟いて、奏一郎は天井を見上げていた。