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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の八

 リズムの良い、包丁と俎板の重なる音が耳を掠める。

「あ、さよ。おはよう」

「おはようございます……」

 どうやら、彼は味噌汁を作っているようだ。小夜子にはもう、香りでわかる。


「今朝はまた一段と早起きだな。こんな早くに学校に行くのか?」

「はい。文化祭の大道具が思いの他進んでいなくて、急遽、今朝学校に集まろうってことになって……。自由参加なんですけど、静音ちゃんもいるし協力したくて」

「そうか。じゃあ、朝食の用意するから顔を洗っておいで」

「はい……ありがとうございます」


 洗面所へと向かって蛇口を捻る。手のひらに泳ぐ冷水を、思いっきり顔に浴びせる。目の周りがすっきりとして、めでたく小夜子の目はいつも通りの大きさになった。

 前髪に滴るものを拭き取りつつ、小夜子は茶の間へと向かう。ほんの数分しか経っていないはずなのに、既に卓袱台には見事な朝食が並べられていた。


「さ、朝食にしようか」

「はい……」

 いつもの位置に座って、互いに手を合わせて、

「いただきます」

 を同時に言う。もはや習慣だ。


 焼き鮭に卵焼き、南瓜の煮付けと、ほうれん草のお浸し、お味噌汁と白米。豪華なものなどなくても、きちんと栄養が揃っていればそれでいい、という彼の思想である。

 しかし、どんな質素な食材を使っていても、栄養があって、味が美味しければ――独りで食べるのでなければ――立派なご馳走である。小夜子は本気でそう思う。

「……ん、美味しいです」

 南瓜を飲み込んでからそう言うと、彼は言葉無しに、微笑みで返してくる。


「奏一郎さん、今日は一段と早起きですね?」

「うん。ちょっと出かけてくるから」

「え?」

 これは意外だ。

 彼は過去に、『日の光が苦手』と言っていたからだ。それに、いつもなら出かけるとしても夕暮れ近くになってからだし、行き先も近所であることがほとんど。

 ――……秋になって、日差しが弱まったからかな。


 心なしか、今日の彼はいつもよりもにこにことした表情を浮かべている気がする。これから遊園地に家族と行く、休日の子供のような。何か、これから嬉しいことが待っていて、それを知っているかのような――。

「あの、奏一郎さん?」

「ん?」

 眩しいくらいに、愛くるしい笑顔。

 そんな純真な笑みを向けられては、問う気持ちも奪われてしまう。

「いえ、なんでも……ないです」

「ふふ、そう?」


 お味噌汁を最後に喉に通し、もちろん食器を片してから、小夜子は制服に着替えに再び二階へと向かった。

 途中、彼がご機嫌な様子で皿を洗う姿に、首を傾げながら。


* * *


「じゃあ、行ってきます」

「うん。行ってらっしゃい」


 空も青々と煌きはじめ、二人を自らの傘下へと迎え入れる。小夜子は未だににこにことしている奏一郎に若干の不信感を抱きつつも、学校へと足早に向かった。そんな彼女の後姿が見えなくなるまで、彼は店先に佇んで見送っている。


「……おい、旦那」

「ん、とーすいくん。おはよう」

 振り返れば、先ほどまでただの水筒であったものが、仁王立ちでこちらを見据えている。

「“決めた”って旦那言ってたけどよ、結局何をするんだ? やたら楽しそうだけどよ」

 とーすいにとっては、挨拶よりも自分の用件の方が先のようだ。


「うーん、まだ君には秘密かなぁ」

 本当に楽しそうに、奏一郎は笑った。が、とーすいにとっては何も面白くはない。彼は秘密というものが、この世で一番嫌いで苦手なのだ。

「んだよ、教えろよ、旦那」

「まあ、そう不機嫌にならないでくれ。帰ってきたら、ちゃんと言うから。それまではお留守番よろしくな?」

 それだけ言って、奏一郎は番傘を片手に、店のシャッターに外から手をかける。

「……なんだ、もう出るのか?」

 心底つまらなそうに、とーすいは頬を――正確にはコップ部分の側面かもしれない――を膨らませた。


「ああ。早く行かないと、僕に会う前に姿を消してしまうかもしれないからね。それだけは避けなくては……」

 もう笑みなど浮かんではいない、奏一郎の表情。彼の碧い目は、真剣に空を貫いている。

「じゃあ、行ってきます」


 奏一郎によって閉められたシャッターは、必然的に心屋を常闇へと追い込んだ。何もすることのないとーすいは、仕方なくもう一度、定位置に戻って――見た目の本来の姿へと、帰ったのであった。


* * *


 男はその朝、いつもの時間に起床した。それは、彼の仕事のせいもある。いつも定時に帰れるような甘い仕事ではないが、仕事が始まる時間はいつも同じだ。

 こうして男は毎朝、同じ時間帯に同じ目覚まし時計の同じけたたましい音を聴いて、というより聴かされて、その目を開きその身を起こすのである。

 そしていつものように朝食を自らの手で作り、昼の弁当も同時に作り、お弁当箱におかずを敷き詰め終えるのと同時に、朝食をテーブルに運び終えているのである。

 男は二つ以上のことを同時に行うというのを、元々要領がいいので得意としていた。できない人間も世の中多いのだが、彼はそれを誰よりも得手としているのである。


 ――……さて、新聞を取りに行くか。


 欠伸をしつつ廊下に歩を進め、玄関に行き着く。そして、靴を履くのと同時に、扉を押し開けた――。

「おはよう、たちのきくん」

 目の前にいる要注意人物の存在を感知することも、叶わないまま。


「…………」


 黙る両者。


 出迎えられるは、満面の笑みを浮かべた奏一郎。

 出迎えるは、今さっき起きたばかりの、寝巻き姿のままの男――橘 恭也。


 ――……俺は今、夢を見ているんだな。うん、これは……夢だ。それも、とびっきりの悪夢だ。


 橘はそう思い込むことにした。しかし思い込みが現実になるほど世の中は甘くない。


「ふーん、ここがたちのきくんの家かぁ。お邪魔します」

 こともあろうにその悪夢は、むしろその悪夢の塊は、部屋の中へと何の躊躇いもなしに侵入してきたのだ。


 必死にその袖を掴み、不法侵入者を追い払おうとする橘。

「っおい! 奏一郎、貴様……! なに、勝手に入ろうとしてんだ!」

「え? いいじゃないか。僕たち友達だろう?」

 けろりと言い放つ奏一郎に、早くも気圧される橘。


「って、それよりも……っ! どうして俺の家を知ってる!?」

「え。こっちかなー? っていろいろ道を適当に歩いてたら、ここに着いちゃった。いやぁ、たちのきくんが自ら扉を開けてくれたんで助かったよー」

 くすり、と怪しく笑う彼。

 見た瞬間に寒気が走ったのは言うまでも無い。


 ――……なんだ、こいつ? 何言ってんだ、こいつ!?


「お、お前、それは怖すぎるぞ……!」

「え、そんなことないよ。大袈裟だなぁ」

 と、別に褒めてもないのに謙遜する始末。


「っく……とりあえず黙れ! そしてそこに座れ!」

 ソファを勢いよく指差され、奏一郎は渋々、そのソファに腰掛けたのだった。引っ張られて伸びたんじゃないか、袖を心配そうに見ながら。


「あれ? たちのきくん、眼鏡外しているところを初めて見たぞ。あどけないな、意外と」

「…………」


 橘は、ひどく痛み出した頭を抱えた。

 いつも通用されるはずの“いつも通り”が、一人の男によって壊された瞬間だった。


「……いいか奏一郎。おまえの傍若無人ぶりには、そろそろ俺も慣れた頃だろうと、俺は思っていた。……が、それはやはり間違いだった」

「うんうん」


 座らされた白い革張りのソファの感触を楽しみつつ、彼はご満悦な表情を浮かべたまま頷く。その態度にもいらっとした橘だったが、ひとまず我慢して、さらに続けた。


「あのな、こんな朝早くに人の家を訪ねるなんて、失礼なことだとは思わないか? 俺にも仕事というものがあるんだ。友達だとかそういう間柄で仮にあったとしても、そういうときには事前に一報……」

「ねえたちのきくん。このゴボウ、食べないのか?」

 ソファの感触を満喫しきったらしい奏一郎は、いつの間にか台所に移動し冷蔵庫を漁っていた。その右手には、冷え切ったゴボウがしっかりと握られている。プライバシーの欠片も無い。

「人が説教している時に、なにをしてるんだおまえは!?」

 つっこむべきところが、橘も少しずれている。


「たちのきくん、このゴボウ早く食べないと。そろそろ溶けるぞ、きっと」

「溶けるか! 何言ってんだおまえ!」

「本当だぞ。以前、知人がそう言っていた。溶ける前に、きんぴらごぼう作ってあげよっか? 今日はお世話になる予定だし」

「なに、勝手なことを……っ」


 そこで、橘の冷静さが取り戻される。


「……待て。『世話になる』とは、どういうことだ」

 うちには悪夢を飼うような設備は無いぞ。彼は心からそう言いたいのである。


 一方で、にへら、と気の抜けるような笑みを浮かべる奏一郎。

「実は、たちのきくんにお願いがあって来たんだ。たちのきくんしか頼む相手がいない上、たちのきくんにしかできないことなんだけど」

「……なんだ、言ってみろ」

 こういう頼まれ方に橘が弱いということを、奏一郎は心得ているかのように見えた。


「実は……」


* * *


 英語の時間。教諭である椛山の流暢な英語を子守唄に、数人の生徒が眠りの世界へと羽ばたいているのが確認できる。今朝、みなが早起きして教室に来たため、睡眠不足の生徒が圧倒的に多いのだ。眠っている彼らは教諭に質問される確率が必然的に高くなるわけだが、

「わかりません」

 と答えない限りは成績が落とされることは無いので、安心してお昼寝タイムを実行しているわけである。


「えー、じゃあ先生が今読んだところを和訳してもらおう。今日は十月十五日だからー……」


 後ろの席から、

「頼むから当たるなー、当たるなよー」

 と、ぶつぶつと独り言が聴こえてくる。後ろに目は無いので振り返ることは叶わないのだが、恐らく背後の静音は、今日も予習をしてこなかったのだろう、と小夜子は推測する。

 この流れで行けば、当たるのは二十五番だろう。静音は二十九番なので、当たる心配は無いように思えるのだが――。


「……十月十五日の四限だから、二十九番の原」

「ちょ、なんで!?」

 勢いよく立ち上がり、早速の猛抗議。

「今のは普通は二十五番でしょうよ、かばちゃん! なんっでいっつもピンポイントで私を当てるのさ!」

「前回も前々回もお前が答えられなかったからだろうが。さ、答えろ原」


 唸る静音。教科書を睨むも、

「……あー、うー……わっからんよこんなのー」

 悔しそうに声を濁らせる。

「あ? “My”くらいわかんだろ? これはな、“私の”という意味なんだぞ」

「へぇ。はい、教えてくれてありがとうございます。って! それくらい知ってますがな!」

 静音の突っ込みが入るところで、クラス中から笑いが起こる。彼女は授業中、教師とこういうやり取りをすることが多い。教師陣は静音を弄るのが最高に面白いらしい。よって、勉強が苦手な彼女はそのユニークな性格故に、指名ナンバーワンの称号を望まずとも得てしまっているのだった。

 しかしこうして皆が笑っているのも、彼女が愛されている証拠だ。


「うー、あー、“私の”……。んあー、早速わからん。小夜子! “husband”ってなに!?」

 友人への質問が堂々と許されるのも、もはや静音の特権であろう。

「お、“夫”だよ……」

「“夫”か! ちょ、小夜子、なんでそんな物悲しい目で私を見んのさ!?」

「……原ぁ、もうおまえいいや。後で英語準備室来なさい、プリントあげるから。次、三十番、読んで」


 椛山に見限られた静音は小さく、

「絶望だ……」

 と呟いて、大人しく着席した。


 ――……やっぱり、愛されてるんだなぁ。先生、他の子にはここまでしないもんなぁ。


 四限が終わって、本日の授業は全て終了した。あとは、文化祭の準備のための時間が当てられる。が、今はその前にお昼休みという、学生にとって大変嬉しい時間帯に差し掛かっている。

 目の前の弁当を前に、陽菜と一緒に静音の帰りを小夜子は待っていたのだが、英語準備室から帰ってきた彼女からは、死相が見えていたのだった。彼女の手には、五枚ほどのプリントがしっかり握られている。


「まじ……ありえない」

 三単元の表や動詞の活用などが事細かに書かれたプリント。はっきり言って、中学生レベルの問題である。

「かばちゃんは私をなめてる……完全になめてるよ。こんなのわかるに決まってんじゃんよ!」

「あ、じゃあすぐに終わるんじゃない?」

 陽菜があんぱんに齧り付きながら笑って言う。ひときわ小柄で幼さを思わせる彼女は、非情に愛らしい。

「そういう問題じゃない!」

 再び机を叩く静音。この机、何度彼女に叩かれただろう。


「やっとバイトの許可が出て、文化祭の準備もろともがんばろーって思ってたのに、それに加えて勉強しろとか……っ! この学校は私を殺そうとしている……っ!」

 飛んだ被害妄想に取り付かれた彼女。


「こういう人間は、放っておくに限るよねぇ」

 見た目とは裏腹にリアリストな決断を下した陽菜は、ぱくぱくと口にあんぱんを運んでいく。小夜子も、静音に対し申し訳ない気持ちに押しつぶされそうになりながらも、いつものように弁当を広げた。ちなみに、まだ静音は何やら呟き悶えている。


「小夜子ちゃんのお弁当、今日も美味しそうだねぇ」

「あ、ありがとう」


 周りの女子からは、小夜子のお弁当は評判だった。見た目の鮮やかさはもちろん、栄養のバランスも忘れてはいない。それだけでなく、決してその内容に手抜きが無いのが、女子の鋭い目からはわかるのだろう。もっとも、そのお弁当が実に美味であることは、小夜子しか知らないのだが。

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