第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の七
* * *
夕食の後、二人は昨夜に引き続き裁縫に勤しんでいた。綺麗に揃えられた糸の束の中でも、だんだんと黒の一色だけが細くなっていく。
「『信じてもいい』……『お前の中にある願いごとは……私が』……?」
流れ星の台詞を一刻も早く覚えたくて、小夜子は着物の寸法を確認しつつ、台詞を暗記しようと努めていた。が、台詞が詰まる度に手の動きも止まる。
やはり、流れ星の台詞はいちいち回りくどい。その上、どうも王様気質な言い方も性に合わないせいか、上手く頭に入ってこない。
「さよ、そこは『お前の中にある願いごとを、私に見せてくれ』だったと思うぞ?」
「え?」
急いで台本を広げてみると、奏一郎の言った台詞が正解だった。
「な、なんで奏一郎さんが先に覚えちゃってるんですか……っ!?」
「いやぁ、覚えやすい台詞だと僕は思うんだけどなぁ」
そう言ってくすくす笑う奏一郎。これは悔しい。
性に合わない口調に、横柄で高飛車な性格。この脚本を書いた演劇部の日下によると、どの役よりもこの役に時間をかけて念入りに構想を練ったらしい。
「流れ星の気持ちになって、演じてほしいんだよね」
今日、演技指導中に彼にそんなことを言われた。そして、小夜子には期待している、とプレッシャーしか与えない言葉を投げかけて、彼は他のクラスメイトの演技指導に入ったのであった。
「……わかりませんよ。流れ星の気持ちなんて……」
自棄もあったかもしれない。小夜子はほうと溜め息を吐く。生きている人間の気持ちを理解するのさえ難しいのに、星の気持ちになれと言われても、行き止まりの壁に向かってまっすぐ歩けと言っているようなものである。
「……ふむ、たしかにな。でも、理解するようにがんばることならできるだろう?」
「え?」
「流れ星の気持ち、理解しに行こっか?」
にっこりとそう言って、奏一郎は二階への階段をゆっくり上っていく。
「え、そ、奏一郎さん……っ? ど、どこに行くんですか?」
応えはない。仕方なく、小夜子は着物をたどたどしくも畳んで、急いで彼の後を追った。
どうやら、彼は小夜子の部屋の向かいにある、廊下の一番奥の部屋に向かったようだ。扉が開きっ放しだ。中を見てみると、これまた殺風景な畳の部屋がそこにあった。一つ箪笥があるだけで、他には何も置かれていない。
「そ、奏一郎さん? 何してるんですか?」
彼は窓を開けて、ベランダに足を踏み入れていた。紫と群青を混ぜたような夜空に、彼の白髪が映える。
「いいから、おいで」
「……は、はい」
この人は、疑問に対しまともに返答をくれることが非常に少ないなと、小夜子は思い始めていた。
『百聞は一見に如かず』を地で行く男なのだ。
ベランダに出てみると、目の前には鬱蒼とした森が広がっていた。虫たちの鳴き声も、足元から聞こえてくる。奏一郎はといえば、ベランダの壁に打ち付けてある梯子を、いつの間にか上っていた。当然のことながら、彼の歩を進める先には屋根がある。しかしベランダだってそこまで新しいものではない。むしろ老朽化が目に見えていて、彼が上っている梯子も、足をかける度にミシミシと悲鳴を上げている。。
「奏一郎さん、あ、危ないですよっ」
「え? 危なくないよ」
小夜子の必死の声も、微笑で流される。身軽なのだろうか、奏一郎はあっという間に屋根の上に辿り着いていた。着物では動きにくいだろうに、その俊敏さには思わず舌を巻いてしまう。
「ね? 大丈夫だったろう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべる彼。冷や冷やさせられたこちらの身にもなってほしいものだ。
「……って、え? 私もそこに行かなきゃ駄目……ですか?」
「うん、駄目だねぇ」
くすくすと笑う彼は、本当に楽しそうだ。
「いや、その、怖いんですが」
もしこの梯子が壊れてしまったら、彼女は否が応にも一階まで真っ逆さまに落下することとなろう。
三、四メートルほどの崖から落ちたこともある小夜子。しかし、恐怖は経験によって拭われていくものではない。
「うーん。じゃあ……はい」
だいぶ迷った末、彼は小夜子に手を差し伸べる。
「おいで?」
「……っ」
――……ど、どうしてこの人は、こういうことをナチュラルにしてくるのか……。
なぜ、こんなに自分が躊躇うのか――心臓が早鐘を打つのか――小夜子にはわからない。
火照った頬を、涼しい風が撫でる。それでも、一向に冷める気配はなくて。
それでも、差し伸べられた彼の手に、いつの間にか応じてしまっている自分がいた。
奏一郎に引っ張られ、小夜子はその身を屋根に乗せた。初めて上った屋根にはそこまで勾配は無く、落ちる心配も無さそうだ。ドジさえ踏まなければ、の話だけれど。
「上ってみれば大して怖くないだろう?」
「……はい」
繋がれていた手は、次第に離れていった。名残惜しく、感じられた。彼の手はどこかひんやりとしていて、火照った体にはちょうどよかったのに。
息を吸ってみると、やはり空気は澄んでいて。
屋根に腰かけ顔を上げてみれば、うっすらと広がる暗雲に負けじと星々が瞬いて、それぞれの輝きを放ち始めていた。
「流れ星、出てくるといいなぁ」
「そうですね……」
こうしていると、心屋に来た初日のことを思い出す。当時と違い、残念ながら月は姿を現してはいないが、あの日もこうして、二人で夜空を見上げていたから。
そして、父と一緒に見上げたあの夜空も、自然と思い出される。
「……なんかここって……心屋って、息がしやすいです」
「そうなのか?」
「はい。空気が綺麗だからでしょうか?」
「……そうかもしれないな」
ここは車も通らないし、煙草を吸う人間もいない。森が裏手に広がっているため、生まれたばかりの酸素を補給できる。空気が綺麗なのは、当然なのかもしれない。しかし、その当然のことに感謝せずにはいられない。少なくとも、小夜子にとっては。
「えっと、じゃあ、待ちましょうか。流れ星が来るまで」
「そうだな。じゃあ待ちつつ、流れ星の気持ちについても考えてみよっか」
「はい!」
と、意気込んで返事をしてみるも、やはり流れ星という存在がいまいちわからない小夜子。
何故、夜であれば騎士の前にいつでも現れるのか、何故高圧的な態度で騎士に接するのか。何を、考えているのか。
「願いを叶えてくれる存在って、どんな気持ちだろうなぁ」
「……うーん……」
問題提起をしてくれる奏一郎に、答えを考える小夜子。この構図も、いつの間にやら出来上がっていた。
願いを、叶えてくれる存在。やはり、現実にはそうそういないのではないか?
思ったことをそのまま言ってみると、
「流れ星の光って、儚いよなぁ」
と、応えになっているようでなっていないことを、彼は言った。
「光ったら、その姿はすぐに消えて無くなる。なのになんで、騎士の前にだけは何度も姿を現すんだと思う?」
「……む、難しいです。やっぱり」
ほぼ降参に近い彼女。
――……でも、奏一郎さんのこの言い方……。まるで、何が答えなのかわかっているみたい……?
小夜子の疑問に応えるかのように、彼は確信めいたことを言い放つ。
「ねえさよ、気付いた? 騎士の口調と、流れ星の口調、けっこう似ているんだよ」
「え?」
彼にそう言われて、思い出してみる。騎士の台詞を。騎士の口調を。
性格がクールな騎士は、誰をも寄せ付けぬ雰囲気を纏った孤高の策士でもある。人を見下した態度こそ取らないが、どこか雪のような静かな冷たさを併せ持っている。
そういった性格などを無視し、口調のみに焦点を当ててみると、たしかに――。
『王女を助けたいから、私はここにいるんだ』
『私の願いを、お前が叶えてくれると言うのか?』
など、騎士と流れ星のそれは似ている。むしろ、そのものと言っても過言ではない。
「……言われて初めて気付きました」
「ふふ、そう」
やっぱりね、とでも言いたげに彼は微笑んで、さらに続けた。
「もしかしたらこの流れ星は、騎士そのものなのかもしれないぞ」
「……騎士そのもの、ですか?」
「ああ。騎士の分身、みたいなものか」
小夜子の問いに、朗らかに返す彼。だが、その発言は小夜子を混乱に陥れるのだった。
「え、ええ? な、何故そう思われたのですか? 口調だけでそう思ったんですか?」
「いやいや、違うよ」
ふふ、と彼は笑う。そして口角を上げたままで、
「ねえさよ、願いを叶えてくれるのは誰?」
突然の難問。
「……願いを、叶えてくれるのは……?」
誰だろう。話の流れからしても、奏一郎のこの言い方からしても、答えは“流れ星”ではなさそうだ。
「願いごとのすべてを流れ星に託すようでは、絶対に願いは叶わないよ」
「…………」
願っているだけでは、叶わない。彼は、そう言いたいのだろうか。
「自分の願いを叶えるのは、いつでも、どんな世界でも自分でなければね」
「……奏一郎さんは、そう思いますか」
「うん。流れ星が騎士の願いを叶えてあげようって思うのは、騎士の願いが自分の願いだからじゃないかなって、僕は思ったんだ。だから今後は、騎士の気持ちになって演じてみたらどうだ?」
「…………」
小夜子は、不思議な感覚がしていた。奏一郎がそう言うと、そう感じてしまうのだ。盲目なまでに彼のことを信頼しきっているのだなあと、ぼんやり思う。いつから、自分はこんな風になっていたんだろう、とも。
奏一郎は彼女が何も言わないのに気付き、
「まあ、これは僕の考えだから。どう思う? “流れ星”様?」
そう問いかける。
すると彼女はうっすらと口角を上げて、
「えーと……奏一郎さんの考え、合ってると思いますし、素敵だと思います。騎士の気持ちになって、これから演じてみますね」
と言った。
その刹那――彼の表情に陰りが見えた。少し寂しそうに、微笑を浮かべている。闇夜に紛れ、はっきりとは見えないけれど。
「奏一郎さん?」
「……さよは、あまり自分の考えを言わないな」
「え……」
「どうして?」
その穏やかなはずの声は――彼女の胸に、嫌に響いた。
そう、彼女はわかっている。
自分がなぜ、自分の意見を言わないのか。言わずに、いるのか。
だけど――。
「……さよ?」
優しい声で尋ねられても。本当のことは、言えない。
「あの、実はですね」
「うん」
今、小夜子の脳は一生懸命働いている。嘘を吐くのは、心苦しくなるから苦手だ。だが、自分を護るためには、手段を選んでいられないのも事実だった。
「ちょっと、同じクラスの子に、文句といいますか、私自身に対する不満を言われてしまって、ですね。それで、少し……自分の意見を言う元気が、無いのかもしれません」
「……ふーん?」
誤魔化しているのを、奏一郎は気付いているのかもしれない。珍しく、不機嫌な顔をしている。だが、小夜子はそれでも誤魔化し笑いを浮かべた。貫き通してしまえば、彼も深追いはしないはず――。
「何て言われたんだ?」
「えーと……」
残念ながら、今日の彼の執念はすごかった。
――うう、楠木さんをこんな形で利用するなんて、最低だな私……。だから嫌われるんだよな、きっと……。
今の小夜子には、後ろ向きな考え方しかできない。
「……『同情は要らない』と……言われてしまいました」
他にも色々言われたが、最初に思い出したことをそのまま、彼に告げる。自分で言ってても、この言葉の響きは悲しい。
「……同情? ……ふーん? 同情、ね……」
その言葉を咀嚼するように、何度も繰り返し呟いて、彼は夜空を見上げている。
「うーん。さよは、同情したの? その子に」
「い、いえ。そんなことは……あるかもしれません」
「はは、そっか」
彼は瞬時に表情を緩め、
「別に、同情して悪いことなんかないんだよ?」
そう、言葉をこぼした。
「……さよ。同情ってね、相手の気持ちになって、苦しみや悲しみを分かち合おうとすることなんだ」
「…………」
「それって、すごく優しい気持ちだと思うぞ」
奏一郎の言葉は――静かで、穏やかで。だけど、とても心強い。
辛く悲しい夢からぱっと目覚めさせてくれるような、優しい言葉だ。
「……奏一郎さんと喋ってると……嬉しさ通り越して、悲しくなってきますね」
「え? じゃあ、もう何も話さないよ?」
「いやいや、喋ってくださいよっ! それはそれで寂しくなるじゃないですか!」
――……優しすぎて、悲しくなってくるよ。
初めて会った時は、彼に対して警戒心が丸出しだったかもしれない。今思えば、当時の自分を笑ってやりたい。教えてやりたい。そんなもの必要ないんだよ、と。
結局、その夜には流れ星は現れなくて。
思い知ったのは流れ星の気持ちではなく、奏一郎の優しさと、自分が、とてもずるい人間だということ――ただそれだけだった。
* * *
まだ、朝朗らけの時頃。小夜子は、つんざくようなアラームによって叩き起こされた。
「うー……」
目を開こうとするも、瞼は言うことをきかない。昨夜も徹夜だったせいか、上と下の瞼は仲良くくっついている。多少乱暴に擦って無理やり瞼を離すと、携帯電話のアラーム機能を止めた。
眠たい目からも視認できるのは、ピンクグレープフルーツのような色に染められたカーテンだ。本来オレンジ色のそれは、朝焼けも手伝ってその暖かい色を可愛らしいものへと変貌させていた。
先ほどアラーム機能を停止させた携帯電話を、徐に開いてみる。そこに映るのは、変えるのが面倒で初期設定のままの待ち受け画面。至ってシンプルなその画面は、誰からの連絡も無いことを、暗に示していた。
そして、もう一つ。今日が、十月の十五日だということを。
「…………」
小夜子は、ぼんやりとした目でそれを見据えた。何の変化も起きぬまま、やがて真っ暗になるディスプレイ。しばらくしてようやく、
「……学校、行かなきゃ」
早起きの本来の目的を思い出し、顔を洗いに一階への階段を下るのだった。




