第二章:であうひと ―葉月― 其の参
キャリーバッグの中身を整理し終わってから、小夜子は階段を下って茶の間に入った。足を地に付けた瞬間に鼻腔をくすぐる芳しい香り。台所に立っている奏一郎は味噌汁の味見をしているようだ。
「とりあえず楽に座っていてくれ」
「は、はい……」
本当にいいのか。手伝うべきではないのか。
そう思いながらも、先ほどの座布団に再び腰かける。やたらと彼の手際がいいのは後姿からも確認できた。まるで計算されているかのように、迷いや躊躇いなど彼の動きにはなく、思わずじっと観察してしまう。
「できたぞー」
奏一郎の声に、待ってましたとばかりに小夜子は素早く立ち上がった。
「て、手伝いま……っ」
「す」を言うのが先か後か。左の脛が卓袱台に当たって──「痛い」と感想を述べる間もなく、凄まじい音を立てて小夜子は転んだ。
「ぶっ」
畳に顔を思い切り打ちつけた音が響いた後、食卓にはしんとした雰囲気が流れる。
「……ええ、と。大丈夫か?」
冷静な奏一郎の声。ひりひりと痛む鼻をさすりながら、小夜子は顔を上げた。
「……い、痛いです」
「だろうなぁ」
奏一郎は食器を卓袱台に置くと、小夜子の前にしゃがみ始めた。
「どれ、見せてみろ」
前髪をかきあげると、じっと小夜子の患部を見る彼。そうしていると小夜子もまた、鼻の痛みに耐えつつ彼のまっすぐで綺麗な瞳に思わず注目してしまう。
それと同時に強烈な存在感が先行していたせいか、今まで気付かなかった彼の端整な容姿に驚きを覚えてしまった。大きなアーモンド形の碧眼が縁取る、真っ白な睫毛。すっと通った鼻筋は薄い唇も相まって、涼しげな印象を与えてくれる。目鼻立ちの整った“美人”に分類される顔だ。至近距離で見ていて、自分の容姿の平凡さに嫌気が差してしまうほどの。が、何よりもやはり注目すべきはその碧い目だ。
──……やっぱりカラコンなのかなあ。でも、なんていうか濁りがない……。
「大したことはないな。ちゃんと冷やせば腫れも起きないだろう」
彼はいそいそと台所へと向かうと、濡れたタオルを左手に戻ってきた。
「ほれ、当てるぞ」
氷水で濡らしたのか、鼻に当てられた瞬間に顔全体がひやりとする。が、今のような蒸し暑い季節にはむしろありがたく感じられた。
しかし幼い子どもならまだしも、小夜子は己がもう十六であることを自覚している。このような扱いに甘んじるわけにはいかない。彼が今日見知った相手だから、なおさら。
「あ、あの、自分でできますっ」
恥ずかしくなって俯いた刹那。独り言だろうか、ぽつり呟く彼。
「だから『座っていろ』と言ったのに……」
「え」
タオルが離れたかと思うと、そこにあったのは満面の笑み。
聞き漏らしたことをもう一度訊いてはいけないような──拒絶の笑みだった。
「さあ、夕飯にしよう。僕がご飯をよそうから、君は卓袱台に置いてくれ」
「は、はい」
炊飯器は無いらしい。台所の黒く小さな釜から、ぴかぴかに光った白米が現れる。釜で米を炊くところなど、彼女は初めて見たのだった。
「さて、と。君は『手伝いをする』と言ったわけだが。この家には、この家の『るぅる』というものがある」
奏一郎が突然に言い出すので、茶椀を受け取りつつ小夜子は身構えた。横文字が苦手なのか、どこか片言にすら聞こえたが。
「ルール?」
「まず、店の商品。あれらはどれも、僕にとって大切なものだ。決して、いたずらな気持ちで彼らと接しないでほしい。これが一つ目」
──大丈夫、いたずらな気持ちでは触れない。……「僕にとって」っていうのが、気になるんだけど。
奏一郎は自分の椀を持ち、小夜子の向かいに腰かける。
「次に、あれらの商品が盗まれたり万引きされたりすることのないように。店番も家の手伝いの内に入るからね。これが二つ目」
──……万引きする人なんて、いるのかな。
失礼なことを心の中で呟きつつ、小夜子ははい、と頷いた。
「そして、三つ目。ちゃんと、大地の恵みに感謝して食べ物をいただくこと。……というわけで、『いただきます』」
そう言ってゆっくり手を合わせる姿は、なぜだか……懐かしい感覚がした。
──お母さんみたいな、人。
そこでふと、疑問が頭に浮かぶ。
「あの、今のを一つでも破ったらどうなるんですか?」
「ああ、安心しろ。出てってもらうだけだ」
そう言って、にっこり笑う。
「わ……わかりました」
──……悪魔みたいな人だ。
「……いただきます」
目の前には、見た目にも鮮やかな和食が並べられている。きんぴらごぼうに、トマトとレタスのサラダ、胡瓜と茄子の漬物、南瓜の天ぷら。どれも美味しそうで、短時間で作ったとは思えないほどの出来栄えだ。
──……男の人なのにこんな、家庭的な料理するんだなぁ。
きんぴらごぼうを箸先で摘んで口の中に入れる。しばらく咀嚼してほう、と一つ、息を吐く。
「……美味しい」
久々に家庭の味を口にした気がした。優しく、温かく、懐かしい味──。
──……あれ、『懐かしい』?
思わず、目を丸くした。
味付けがそっくりなのだ。母の味付けと、彼のそれは酷似していた。
ふと顔を上げると、奏一郎は穏やかな微笑みを浮かべていた。
* * *
夕食を終えてから小夜子は風呂場へと案内され、先に入ることを許された……のだが。
「はぁ……」
まさかこの平成の世に、五右衛門風呂があろうとは。生涯を通じてお目にかかれるものではないと思っていた。
入浴方法が分からず、つい長湯してしまった小夜子。パジャマの襟を掴み風を起こすもあまり効果は無さそうだ。
脱衣所から出ると一階の電気は既に消えていた。奏一郎はもう眠ってしまったのか。彼を起こさないよう、のぼせてしまった頭でゆっくり階段を上っていく。普段の彼女に長湯する習慣はない。部屋のベッドに倒れ込み、見慣れぬ天井を見つめる。木目が顔に見えるような年齢でもなかったが、それでも慣れない内はやはり、ほんの少しだけ怖く感じてしまう。
──ここが、新しい家……。
傍らの携帯電話をなんとなしに開くも、誰からの連絡も来てはいなかった。
「…………」
ディスプレイの右上を見ると、もうすぐで今日が終わる時間。一日が終わる時間を示している。
「……早かったなぁ」
独り言が反響した……そんな気がした。
──……頭痛いなあ。お水飲もう。
階段をゆっくりと降りて、灯りの無い中を闇雲に台所へ向かう。すると──。
「水なら、そこにあるぞ」
「ひ……!」
小夜子が振り返ると、茶の間にある縁側に奏一郎が腰掛けていた。電灯は点いていなかったし何より──気配が一切しなかった。
小夜子の心臓は激しい音を立てて揺れる。
「お、お、起きてたんですね。驚きました」
「そうか? それは悪かった」
そう言って、にやりと笑う。悪気、あったんじゃないだろうか。
台所の机には、たしかに一杯の水がコップに注がれていた。それを飲み干すと、体中の熱が少しだけ引いた気がする。軽い眩暈もどこかへ吹き飛んでしまう。
しかし──。
──……なんで、ここに置かれてある? ……用意、されていた? まるで私がのぼせるの、わかってたみたいに。
背中に目線を送るもただひたすら、奏一郎は夜空を見つめている。
そういえば、何故彼は眠らないのだろう。日が落ちれば寝ると、先ほど言っていたではないか。
「奏一郎さん、眠れないんですか?」
「……『眠れない』……?」
彼はふっと笑った。目尻に小さな皺を寄せて、
「そうだな。僕の場合は、そうなるか」
おかしそうに、くすくす笑う。小夜子には彼の言いたいことがわからない。
ひとしきり笑い終わった後、奏一郎は再び夜空に視線を送り始めた。
「空に何か、あるんですか?」
「ああ。月と星がな……いつもよりずっと綺麗に見える。……見てみるか?」
彼に促されると不思議なことに、何の躊躇いもなしに、足が彼の方へと向かった。まるで呪文か魔法にでもかかったみたいに。
縁側にそっと、二人で腰かける。
穏やかに吹き抜ける夏の夜風は涼しくて──空には満点の星と、小さな影を背負った仄明るい月が照っていた。紫とも濃紺とも言える空は、一つの雲にも覆われてはいない。
ふわりと送り出されたみたいだ。宇宙空間に、突然に。
「綺麗……」
思わず本音がこぼれる。傍らの奏一郎も、柔らかく微笑んでいるようだ。
「……これだけの星が見えるんだ。今日の天気に、感謝しなきゃな」
たしかにそうだと小夜子は思った。
昼間は本当に暑く、歩くのすら億劫だった。もう歩くのを止めたいとすら思った。が、あの暑さもこの絶景を見るためだったと思えば、何てことはない。
すると付け加えるかのように、彼は静かに口を開いた。
「辺りに電灯が無いからこそ、見られるものだろう?」
「……あ」
──夜だからこそ見えるものだって、いっぱいある──
昼間の彼の言葉の意味が、やっと理解できた。なるほどたしかにたくさんあるのだ。それこそ、星の数ほど。
小夜子は少し、可笑しくなって笑った。
「ふふ。でも、こんなに綺麗な月とたくさんの星を見たのは……本当に久しぶりです」
「おや。前にも見たことがあるのか?」
「はい。昔……本当に小さい時ですけど。河原で天体観測してて。今でも忘れられないくらい、星も月もきらきら輝いて。……でも私が土手から転げ落ちて泣いちゃって。お父さんが、何度も私の名を呼んで……」
いつから、だったろうか。懐かしい思い出に想いを馳せると、涙が出そうになるようになったのは。
小夜子は少しだけ俯いて、濡れがちな目尻を隠した。
奏一郎はといえば首を傾げつつ、
「『転んだ』って、さっきみたいに?」
と、少し意地悪な質問をしてくる。先ほどの痛みを思い出し、小夜子は無意識に自身の鼻に触れていた。
「いえ、さっきよりも、ずっとダイナミックに……」
奏一郎は、可笑しそうにくすくすと笑う。
──……でも本当に、あの日の空は忘れられない。
「連絡、しないのか?」
囁くように問う奏一郎。
「え?」
「お父さんに。ほら、何と言ったか……?」
頭を抱える奏一郎。何の答えを搾り出そうとしているのか。不思議に思いながらじっと見つめていると、彼はやがてぱっと目を開き、こちらを見据えてきたのだった。
「思い出した。『ケイタイ』とかいうやつだ。あれはどこにいても連絡ができるんだろう?」
その台詞に、小夜子は褐色の目をぱちくりとさせる。
──奏一郎さん、ケータイを知らな……!? いや、いくらなんでも冗談だよね!?
「はい、できますよ。電波の繋がるところであれば」
「ほう……。便利なものだな」
感心げにそう言って、碧眼の彼は再び夜空を見上げた。
彼の白い肌は月光によってさらに青白く彩られていて、小夜子にはまるで──失礼な話だが──幽霊のように感じられる。
そんな彼は、何か重大なことをを告げるように、だがぽつりと呟くのだった。
「残酷なものかもしれないけれどね。誰とも繋がっていないことを、思い知るというのも」
小夜子は、気のせいであってほしいと思った。彼の言葉に一瞬、息を詰まらせてしまったことが。
何を思って彼がその言葉を発したのかはわからないが──言葉の意味は、わかってしまった気がしたからだ。
いつの間にか夜空とのにらめっこをやめていた小夜子に、奏一郎はふわりと笑いかける。
「今夜は早く寝るといい。明日の朝は早いぞ」
「朝……?」
「『お手伝いもする』と、君が言ったんだろう?」
──そうだった。がんばらねば。
「……あの、何時に起きればいいですか?」
「五時だな」
──は、早い……。何をするんだろう、いったい……。
小夜子がそんなことを思っていると、ゆっくりと立ち上がる大きな影。
「明日の朝までのお楽しみだ。あ、僕は風呂は朝に入るからな。おやすみなさい」
それだけ言うと奏一郎は微笑みながら隣の障子を開き、自室と思しき部屋に入っていった。それを見届けた小夜子も、再び階段をゆっくり上り自室に戻る。
ベッドに勢いよく倒れこむと、習慣化しているのだろうか、再び携帯電話を開いてしまっていた。
相も変わらず、誰からも連絡は来ていない。
「…………」
携帯電話を閉じて、ほぼ同時に目蓋で両目を覆う。
その時、
──『明日の朝までの、お楽しみだ』──
奏一郎の言葉が、笑みが、頭の中を一瞬だけ掠めた。
──……あれ?
目蓋をうっすらと開けば、何もない、やはり見慣れぬ天井がそこには広がっていた。そうして、思うことは。
──あの時、心、読まれた?
そんな馬鹿な、そんなわけない、と結論づけて。小夜子は、心屋での一日目を終えた。