第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の六
そうだ、今日は鰤大根にしよう、そう思った奏一郎は秋刀魚を元の位置に置いて、鰤と少しの調味料を買って外に出る。向こう側に小さく見えるビルの明かりが、ぽつぽつと点いているのが碧い目に映った。
「……わからないから、思い知らされるものも無いんだよな」
わからないから、思い知らされることはない。
だから――空しくなることなんて、無いはずなのだ、少なくとも、自分には。
もしかしたらそれを、“空虚”と。“空しい”と、人は呼ぶのか。
「あんれ? 奏一郎さん?」
よく通る声が、自分の名を呼ぶ。振り返った先には、自転車を押しながら歩を進める静音がいた。
「おや、静音ちゃん。こんばんは」
「こんばんは! お久しぶりです! やっぱ奏一郎さんだったー! 白髪で着物だからそうじゃないかと思いました~!」
やたらテンションが高い彼女の笑みにつられる。しかし、なぜこんな時間に彼女が商店街を出歩いているのか。奏一郎は少しだけ気になった。
「ああ、三者面談の時に、中間の結果返されたんですけどね? 思ってたよりも死んだ結果じゃなくって、お母さんからバイトの許可出たんで、さっそく働き口を探しているところだったんですよ~」
まあ、もうこの辺りの店は閉店みたいですけどね。そう言って目を細める静音。このテンションの高さは、どうやら安心感から来たものらしい。
「そうか、それはよかったな」
「はい! やっっと、一ヶ月二千円生活が終わりますよ~!」
一ヶ月に二千円という、女子高生にしては哀しいお小遣い事情。それには同情するが、彼女はそれ以上に大事なことを奏一郎に告げる。
「あ、そういえば奏一郎さん……明日、小夜子の三者面談なんですけど、小夜子のお父さんがどんな人か知ってます?」
「え?」
珍しく目を丸くすると奏一郎は、「三者面談?」と復唱する。聞き慣れない単語を口に出して繰り返してみるも、彼には小夜子の口からそれを聞いた覚えが無かった。
「はい。なんでも、海外からここ二、三日はこっちに戻ってるからって。でも小夜子、あまり三者面談の話はしたがらないし、お父さんと気まずいみたいですし。どんな人なのかなーって、ちょっと気になって」
「…………」
「小夜子に訊いても、“不器用だ”って。“私とおんなじだ”って言うだけで、何も教えてくれませんし。もしかしたら、お父さんと何かあったとか……」
「……どんな人か、知ってるぞ」
彼の言葉に、静音は興味ありげに目を開く。しかし彼は、彼の浮かべるにこやかなそれとは対称に、
「よわいひと……だよ。とっても、とってもね」
冷たい声でそう言い放った。
静音はその声にごくりと喉を上下させた。が、次の瞬間には、
「……じゃあ、気をつけて帰るんだぞ? 夜道は危険だからな」
「ら、らじゃです! おやすみなさい!」
姿勢を正してから自転車に跨って、豪快にも立ち漕ぎを披露して、暗闇へと消えていった。そんな彼女にひらひらと手を振る奏一郎。
「……三者面談、ねぇ」
「来るのか? 小夜子の親父が」
気配を消していたとーすいが、にょきっと顔を出す。
「さあ、どうだか。来ない気がするけどなぁ、僕は……」
「ん、なんだ、“予想”してないのか、旦那」
つまらんと言わんばかりに、とーすいは悪態を吐く。
「うん。さよが来てからは一切してないぞ。何が起こるかわからないから楽しいんじゃないか、人生というのは」
「そりゃそうかもしんねぇけど……まあ、小夜子の親父も複雑だしな」
「……自分で、勝手に、複雑にしたんだろう?」
とーすいは、彼の侮蔑した言い方にいったん、口を噤んだ。
「……さ、帰るとしようか、とーすいくん。さよが、もう帰っているかもしれない」
「……だな」
奏一郎の笑顔の提案。これには、とーすいも静かに従った。
秋の夜風が、奏一郎の髪を撫でる。それに湿気など含まれてはおらず、一吹きで肌の水分を奪ってしまえそうな、不快で乾いた風だった。
街灯の無い道を歩く、白髪の男。今や、彼を好奇の目で見る者はいない。小川に沿うこの道は、ここら一帯に住む人々にさえ、認知されていない場所だからである。
それ故、彼がどんな表情を浮かべているか――それを知っているのは、さしずめ、協奏曲を繰り広げる秋虫たち、そして袖元にいるとーすいくらいなのだ。
「お、おい、旦那。なんだ? 怒ってんのか?」
「…………」
返事は無い。これは相当キテる、そう判断したとーすいは、もう奏一郎が口を開くまでは黙っていることにした。眉間に皺を寄せずとも、いつも穏やかに細められている彼の目は、今や獲物を捕らえんとする獅子のごとく、空を睨んでいるのである。
しかしやがて、諦めたように碧い目は伏せられて。
「……なんだろうなぁ、この乱暴な気持ちは」
彼は薄い笑みを浮かべつつも、自らに隠れていた負に近い感情に戸惑いを隠せていなかった。
「だ、旦那? 何に怒ってたんだ?」
恐る恐る、とーすいは彼の機嫌を伺いながら問う。
「うん、わからない。とーすいくん、これが“怒り”なのか?」
少し困ったような顔をして、奏一郎は問い返す。その様は、さながら子供のよう。
「え、えー、でもそういえば旦那、“怒り”は誰からも貰ったこと無いんじゃなかったか?」
黙ったまま、奏一郎は頷く。そして、とーすいはさらに続けた。
「っていうことは、だ。今、旦那は“怒って”はいないんじゃねぇか?」
「……ふむ、理路整然としていていいな、君の説明は」
褒めてきた、ということは少なくとも、気分自体は害してはいないらしい。つまり、“負”の感情であっても、彼が今感じているのは“怒り”ではないのだ。
だとしたら、いったい何なのか――。
とーすいが推察している間に、奏一郎はその答えをぽつりと漏らす。
「今まで出会ってきた“お客様”は、“怒り”という心で以って心屋には来なかったからなぁ。だいたいが、“悲しい”心だったから」
「……旦那よ」
「はい、旦那です」
「それだろう、旦那。何故に気付かなんだ?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべる奏一郎に、御仏の心でとーすいは救いの手を差し伸べることにした。
「だから、な。旦那は今、“悲しい”んだよ。なにを悲しいと思ってるかは、俺様は知らねぇけどな?」
「“悲しい”? ……これが?」
意外そうに目を丸くして、思案顔をし始める碧眼の男。しかし、なにやら考え始めたのは、とーすいもまた同じであった。
彼が何に対し“悲しい”と感じたのか――それが、とーすいにはわからないのである。人間の気持ちには鋭敏であるはずのとーすいも、こと奏一郎の気持ちに関してはわからないことが多い。
――……気持ちを理解できないのは……俺様も一緒か。
しばらくお互いに黙っていた二人だったが、先に口を開いたのは奏一郎だった。
「おや、あんなところに」
あんなところに、何だ? と思ったとーすいは、ふいに袖から身を起こして、耳元を掠め始めた乾いた音の正体を見た。
小川に聳え立つ、ススキだ。風にだけでなく奏一郎に掻き分けられ、かさかさと音を立てていたのだ。小川の流れる音も、少しずつ近くなっていく。
「おーい、旦那?」
「久々に見たから、少し寄り道させてくれ」
茎がしっかりと支えているのは、茶色の風船のような花だった。いくつもあるその風船は萎れていて、くたびれているようにも見える。奏一郎が目をきらきらさせながら見るような、そんな立派な花には到底見えない。
「旦那、何なんだよ。寄り道して見るほどのものか?」
「うん。素敵な花だよ、これは」
そう言って、奏一郎は久々に微笑んだ。しかし、花は咲いていない。むしろ、もう枯れかけだ。いったい、どこが“素敵”だと言うのか。とーすいはため息をついた。
徐にその風船をそっと奏一郎が手のひらで包み込む。すると、かさり、と音がして、中から三つの種が現れた。とても小さなその種は、奏一郎の手のひらでころころと転がっている。
「なんだ、ただの種じゃねえか」
「違うよ。よく見てごらん」
よく見てみると、その種は黒一色で染められてはいなかった。そこに小さく浮かんでいたのは、真っ白なハート。長年この世に在り続けるとーすいも、これは初めて見た。
「なんだこれ?」
「風船葛だよ。夏に花が咲いて、秋ごろになるとこんな種を残すんだ。とても愛らしく感じないか?」
「……女っぽい趣味はわっかんねえ」
ここでまた意見が分かれる。つくづく、趣味の合わない二人だ。
「護っているように見えないか? こんな、触れたら簡単に壊れてしまう果実が……この種を一生懸命、護っているように見えないか?」
奏一郎は手のひらを広げ、先ほどの風船を見た。開いてしまえば哀れなもので、今まで種を護っていたその薄すぎる果実は、風が吹いた瞬間にどこへやら吹き飛ばされていった。
「……花でもできることを、僕はできていなかったんだな」
彼のその言葉に、とーすいはその自慢の体をぴくりと固まらせた。彼が何に悲しんでいたのか、その答えに限りなく近づいた気がして――。
「……自惚れてたかなぁ。さよは、何でも話してくれると思ってたんだよな。僕になら……」
「…………」
その独り言に似た呟きに、ひたすらとーすいは耳を傾けていた。
「それだけじゃない。訊かなくてもわかるものとも思ってた。もう、多くの……ほんとうに多くの人の心を手に入れてきたから、さよの気持ちだって、自ずとわかるものだと……」
でも、違った、と自嘲気味に彼は言う。
「どんなことに悩んでいたのか、今も悩んでいるのか、それすらもわからない。わかってない。わかってなかった。……自分の存在の小ささに、反吐が出るよ」
* * *
彼女が父親と会うことを、悩まないはずがないのに。
悩んでいる、はずなのに。
自分には何も、話してくれなかった。
ずっと同じ空間にいるはずなのに、そんな感情の機微にも気付けなかった。
そして、自分はまだまだ人の心を理解してはいないのだと。
まだまだ人から遠いのだと、思い知らされる――。
すべては交じり合って、“悲しい”を創り出す。
「……“悲しい”に、慣れそうもないな、僕は」
弱々しく微笑んで、彼は風船葛の種を優しく撫でた。手のひらで、小さくそれらは転がっていく。
「悲しみは慣れるもんじゃねぇぞ、旦那」
とーすいの声色は、いつになく優しいものだった。
「人間は良くも悪くも、忘れる生き物だ。楽しいことも、悲しいことも、全てを覚えてなんかいられねえ。そうじゃなきゃ、人間は生きていけねえんだ。楽しみにばかり浸ってなんかいられねえし、悲しみに引っ張られてちゃ、人間の心は壊れちまうからよ」
彼の理論を、奏一郎は黙って聴いていた。
「悲しみは、薄れていくもんだ」
力強い言い方。だが、その台詞は奏一郎にとっては痛手でもあった。
なぜなら彼は――生まれた瞬間から、たった今の今まで、自らの全ての記憶を失わずに持ち続けているのだから。
「でもな」
とーすいは、饒舌にさらに続ける。
「旦那が今の悲しみを忘れられねえのもわかってる。旦那は全てを忘れられねえんだから。ならその悲しみと、どう接していくかが問題だろ」
「……悲しみと、接する?」
「そうだ。その悲しみを、悲しいまんま放っとくのか、それとも……」
悲しみは、薄れていく。
しかし、もし薄れていかなかったならば。
いつまでも、心に棲み付くのであれば。
「動くか」
秋風が、頬を撫でる。
それはとても乾いていて、潤いを全て奪っていきそうで、そう――とても、不快だ。
だけど。微かに、温かみを含んでいる――そう、感じた。
「……ふふ」
奏一郎から、薄い笑みが漏れる。
「僕たち、価値観が大いに違ってて、逆に良かったのかもなぁ」
「あ? なんだそりゃ?」
とーすいが不思議そうに首を傾げる。いや、大して曲がってくれないような、そんな材質なのだが。
「君の考え方は、僕をまっすぐにしてくれる」
「そりゃどーも。俺様の長所が美貌だけかと思ったら大間違いだぞ」
「うん、そうだなぁ」
くすくす笑いながら、奏一郎は手のひらの種を見つめた。
小さくて、弱々しくて、すぐにでも壊れてしまいそうな、そんな存在。
……悲しみを、そのままにしておくか。
それとも……動くか。
「……とーすいくん」
「なんだ?」
「決めたよ」
「そうかよ」
――……大丈夫、僕にだって、護れる。僕も、とても小さな存在だけれど。大したことはなにも、できないかもしれないけれど。
言葉をあげる、心は持ってる。




