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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の参

* * *


 風呂から出ると、茶の間のちゃぶ台に並べられた針と糸、そのバリエーションの豊富さに小夜子は舌を巻いた。二十四色、綺麗に揃えられた糸の束。この絶妙な色のバランスを崩すのが惜しくて、使ったら元の位置にきちんと戻そうと思いたくなる。


「商品を直す以外に、あまり使わないものなんだけどな」

 そう奏一郎はは言うけれど。それはあまりにもったいない気がした。


「さ、始めようか」

 そう言って、寸法の確認。小夜子の身の丈に合わせ、彼は着物を切ろうと鋏を取り出す。が、小夜子はそれを必死で止めにかかる。自分の文化祭の衣装のために、見た目にも高価な着物が裂かれるのはあまりにも居た堪れない。

「奏一郎さん! “大は小を兼ねる”です! ぶかぶかでいいですから! どうか切るのだけはご勘弁を!」

「えー?」

 奏一郎は困ったように笑う。どこか、彼女の反応を楽しんでいるように見えなくもない。が、今回は彼が折れることになり、結局着物に鋏を入れられることは無かった。


 それでも、やはり衣装に近づけるには多少のアレンジを加えねばならぬようで。躊躇うことなく針と糸を羽織に通す奏一郎の様は、見ていてやはり冷や汗が出そうになる。


 そんな小夜子の気を紛らそうとしてか、彼は口を開いた。

「そういえば、この流れ星はどんな役なんだ?」

「えっと……さっき台本に目を通してみたら、挑戦的で……どこか、人を馬鹿にしたような態度を取る……ちょっと偉そう? な役です」

「……さよには不向きかもしれないな」

 奏一郎が短く笑った。小夜子も、はい、と笑いながら応える。

「そうかもしれませんね。でも、面白いんですよ演出が。流れ星が去った後は、その衝撃で、周囲の物が壊れちゃうらしいんです」

「……さよに向いてるかもしれないな、その役」

 ――ん……?

「奏一郎さん、それはどういう意味で……?」

「そのままの意味だよ?」

 そう言って、碧い目を細める。


 ――ああ、優しいけど……やっぱり意地悪だなあ、この人。


 その落ち着いた空間は、あまりに静かで。正確な時計の針の音と、鈴虫と松虫の、不規則な鳴き声の協奏曲だけが流れる。そして時折、木の葉同士が触れ合う音。


 そして――これまた不規則に、速まったり遅まったりする心臓の音。

 その音の原因はいつも――目の前の人物のような気がして。


 小夜子は収まりそうにない心臓の音に、ほんの少しだけ、躊躇いを覚えていた。


「……なあ、さよ」

「は、はい?」

 唐突に奏一郎が話し出すので、小夜子はどもってしまった。

「なんだか、こういうのいいよなぁ」

 緩慢な声色。それは秋の落ち着いた空気によく似ていた。

「こういうの……ですか?」

「うん。よくよく考えてみるとさ、小夜子は平日は学校だし。朝に会えても朝食と……帰ってきても夕飯の時くらいしか、ゆっくり話ができないだろう?」

「……そう、ですね……」


 あまり意識したことはなかったけれど。言われてみれば、確かにそうだ。付け加えるならば、小夜子が風呂から出るころには、彼はもう就寝の時間を迎えている、というのが常。風呂から出てきて一階の電気が点いている、今の状況が特例のようなものだ。


「一緒に暮らしていても、やっぱりすれ違うことってありますもんね」

 小夜子は俯き加減になり、そう言葉を零す。


 そして奏一郎は彼女の言葉に、

「うん。だからね」

 笑顔で。

「今、一緒にいられて、すごく嬉しい」

 あどけない笑顔で、そう応えた。


「……!」


 まだ濡れた胡桃色の髪をタオルで拭いながら。

 いや、拭うフリをして。その急速に紅く染まった顔をタオルで隠した。

 顔だけじゃない、もう全身を隠したい。顔だけならまだわかる。理解できる。だが、全身までもが熱くなっているというのはどういうことか。

 これは紅くなっているんじゃないだろうか。

 これは、この熱さは、全身が紅く染まっていてもおかしくないんじゃないか。


 ――……うわ、うわ……なんだ、なんだ、これ……っ!?


 またも速まる心臓の音は――どくん、どくんと太鼓のような音を立てて。収まる気配を一向に見せない。


「さよ」

 自分を呼ぶ、低い声。

「は、は……はい?」

 タオルの隙間から、彼をそっと見上げてみる。相変わらず、彼はにこやかな表情をしていて。

「髪、乾かしておいで?」

 これは嬉しい提案だ。飛びつかないわけにはいかない。

「は、はい……っ」

 そそくさと、逃げ込むかのように小夜子は脱衣所へと向かった。そんな彼女の背中を見送り、ふふ、と笑みをこぼす碧眼が一人。


* * *


「はぁ~……」

 大きなため息が、脱衣所に漏れる。

 温い風を髪と顔に浴びせながら、小夜子は顔の火照りが冷めるのを待っていた。とうに髪の毛は乾いているのだけど。これ以上ドライヤーの熱を与えていたら、髪の水分が全て持っていかれそうなほど。


 ――……あれは……あれは反則ですよ奏一郎さん……。


 とても現実の彼には言えないので、心の中の彼に弱弱しくも抗議する。心の中の彼も現実同様、笑いながら去っていくだけなのだけど。


 鏡の中の自分と、睨めっこしてみる。ああ、やはり紅い顔。林檎みたいに真っ赤だ。


 ――奏一郎さんに見られなかったかな……。どうせ、訊いてもはぐらかされるだけか……。いや、訊くわけにもいかないのだけど……。


 これが雁字搦め、というやつか。


 スイッチを冷風に切り替えて、それを顔に浴びせる。髪の毛にするよりも、より重点的に。


* * *


 脱衣所からひょこっと顔を出すと、奏一郎は真剣な表情で羽織に糸を通していた。


「よし、終わったか」

 満足げにそう呟いて、彼は羽織を丁寧にたたんだ。しかし、出来上がりと想像図を見比べ、またしても「うーん」と天井を見上げる。


「奏一郎さん、なにか不都合でも……?」

 なるべく気丈な声で話しかけると、彼は天井から目を離した。

「うん。やはり、想像図と実物を見比べると……ね」


 彼が何を不満に思っているのか、小夜子にはわからない。金糸が袖に施されたその羽織は、彼の手先の器用さによってひと際輝いて見えるのに――。

「やはり少し手を加えたいな。さよ。少し僕なりに、好きなようにしてもいいだろうか」

 真っ直ぐな碧い目。彼が真剣に取り組んでくれているのだということが、とてもよくわかった。

「は、はい。どうぞ」


 その答えに満足したように、金糸と銀糸を両方取り出して、再び奏一郎は裁縫を開始した。小夜子もそれに続き、袴に糸を通していく。


「それにしても……その流れ星とやら」

「は、はい?」

「登場する度に物を壊していくとは……なかなか破天荒な人物だな」

「……ふ、はは。そうですね……」

 彼の呟きに、必死に笑うのを隠した。奏一郎はそんな彼女を、不思議そうに見つめている。


 ――“破天荒”、そうですね、奏一郎さん。でもね、その流れ星、あなたにそっくりなんですよ……。


 それから、時折言葉を交わしながら。手を休めることなく、作業は続けられた。


* * *


 あっという間に時間は経って、気づけば時計の針の両方が、天辺を指し示そうとしている。奏一郎は時計を見上げ、次に小夜子を見た。

 いつもならもうとっくに眠っている時間だ。長時間に渡り集中していたことも重なり、小夜子は首をこっくり、こっくりと上下に動かし始めている。そのままうとうとし始めると、はっと意識を取り戻し、右手の針を動かそうとする。が、再びうとうとと眠りの世界に誘われて――そしてまた意識を取り戻す、このループを彼女は延々と繰り返していた。


 奏一郎は笑いを抑えるのに必死だ。睡眠欲に対抗しようとしている人間を見るのが、おかしくてたまらない。

「さよ、眠たくなったならもう二階に行くといいよ」

 しかし小夜子はゆっくりと首を左右に振る。

「い、いえ、ダメです」

 彼女から言わせれば、いつも自分より早く寝るはずの奏一郎がぴんぴんしているこの状況がおかしいのだ。


 ――協力してもらっといて、私が先に眠るわけには……いかない。


「奏一郎さん……なにかお話をしてください。そうすればたぶん……起きていられます」

「……ふむ。じゃあ、むかしむかしある所に……」

 ここまで言いかけて、奏一郎はふふ、と笑みをこぼした。理科の実験を始めようとする、子供のような笑み。

「……おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんは山へ芝刈りに行くのが習慣でした……」

「え……。あ、あえてそこは逆なんですね……」


 小夜子の突っ込みに応えることなく、奏一郎は話を続けた。


「が、山頂に辿り着いたおばあさんが目にしたのは、いつもの風景ではなく……なんと“よーろっぱ”の“あるぷす山脈”というところでした。雪がまぶされた草原に、広く青い空に浮かぶ白い雲。まさに絶景がそこには広がっていました」

「……すごい、ファンタジーなお話……ですね」

「そしてその雪原にいたのは、雪と紛れたような動物たち――……そう、その正体はまさしく羊でした」

 奏一郎はより静かな声で続ける。

「その羊たちは元気に、柵を跳び越えていきます。さあ、羊を数えてみよう。羊が一匹……羊が二匹……」


 そのまま、羊の数はどんどん多くなっていき――十匹目に差し掛かるころ、彼は羊を数えるのをやめ、口を閉じる。見ると、小夜子は――すっかり、眠りの世界へと旅立っていた。もう、奏一郎は笑いを抑えるのが辛くなってきた。

「はは……本当に効くんだ、これ」

 小声でそう独りごちて、座ったまま瞼を閉じた彼女を、起こさないようゆっくりと横たわらせる。胡桃色の長い髪が、畳の部屋に広がった。

「……さて、どうしようか」

 奏一郎は再び、天井を見上げた。二階に運ぶのは正直、面倒だ。別に、部屋まで送り届けねばならない事情があるわけでもない。が、ここで寝かせてしまえば風邪をひくこともあろう。


 そのとき、

「うーん……」

 声が、小夜子と被った。


 初めて聴く、人の寝言。奏一郎は興味津々である。話しかけたら、起きてしまうんだろうか、と。


 そんな一抹の不安も、好奇心には勝てず。彼女の名前を、そっと呼んでみる。

「さよ?」

「ん……」


 少しだけ身を捩らせるも、彼女はその瞼を開けようとはしない。


 ――……ああ、やっぱり。“眠って”いるんだな、この子は。


 安定した寝息を立て、それとほぼ時を同じくして、胸が上下している。


 ――……これが、“眠る”ということか。


 奏一郎がそう感心していると、小夜子はゆっくりと、薄く唇を開いた。

「ん?」

 奏一郎もそれに反応し、彼女が発する言葉を待つ。

「……そ、いちろ……さ……」

 掠れた小さな声であっても、自分の名を聞き間違えたりはしない。滅多に聞けない寝言で名を呼ばれて嬉しいのか、奏一郎は顔を彼女に近づけ、

「……なぁに? さよ」

 努めて静かに、そう囁いた。


 そしてその問いかけに対する小夜子の答えは、彼には思いもよらないことだった。


「……お、と……さん…」


 “お父さん”と。たしかに、小夜子はそう呟いたのだ。

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