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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第九章:きめたこと ―神無月・中旬― 其の弐

* * *


「明日からほぼ毎日練習だから、皆、台本には目を通しておくこと! では、解散!」

 静音の指示の下、皆はそれぞれ鞄を持って教室から出て行く。時刻は既に六時半。小腹が空いたのか、お腹を擦るクラスメイトの姿も見受けられる。

 小夜子も鞄を片手に、静音と共に既に蛍光灯の消えた廊下に足を踏み入れる。今や教室の明かりだけが、唯一足元を照らしてくれている。


「静音。小夜子ちゃん」

 甘ったるい声。振り返ると、陽菜が人懐っこい笑顔でそこに立っていた。

「一緒に夕飯食べてかない?」

「おっ、いいね! 何食べよっか?」

 静音も笑顔で応える。


 すると教室の電気が消え、中から芽衣が現れた。もう中に誰もいないのを確認すると、無言で扉の鍵を締めて去っていく。

 陽菜はその背中をじっと見送って、

「……大丈夫かなぁ、劇。楠木さん、やる気無さそうだし……」

 相手役だけあって、芽衣の態度が不安なのだろう。小夜子はそう思った。たしかに自分も彼女の立場だったら、同じ気持ちになるだろう。嫌われているかもしれないから、余計に。


「だーいじょうぶだってば。あいつ、意外といいとこあんのよ? ね、小夜子」

「え? ……うん」

「ちょっと、なによその煮え切らない感じはっ! こっちまで不安になるじゃんよっ」

 言葉とは裏腹に、静音は笑いながら言った。


 そう、たしかにいいところは――ある。

 過去に、「林檎を買ったほうがいい」と、彼女に言われたことがある。

 あの雨の日は――そう、心屋を壊されそうになった日。雨除けに傘を差している余裕など無く、がむしゃらに心屋を護ろうとした日だ。結局、橘のおかげで事無きを得、後に彼らの起こした事故によって、事態は収拾したかのように見られたけれど。

 雨によって濡れに濡れた体は夏とは言え、着替えたとしても風邪をひいてもおかしくないほどに冷え切っていた。

 そんなとき、奏一郎が小夜子と橘に振る舞ったのが林檎だったのだ。


 タイムリーに林檎を差し出してきた奏一郎もそうだが、後の展開を予測していたかのように芽衣の口から現れた“林檎”という言葉。

 あれが何よりも不思議に感じられた――。だから、だろうか。


 容姿や性格を抜きにして考えても、彼女を“特別”に感じてしまうのだ。もしかしたら現在、彼女の見舞われている状況も鑑みているのかもしれないけれど。


「……ね、小夜子」

「え?」

 顔を上げると、そこには通常は見られぬ顔があった。静音の、真剣な表情。そこに、笑顔など無く。

「楠木のあのことはさ、誰にも言ってないよね?」

「うん……」

「そか。私も」

 芽衣の机の中に入れられていた、人の憎悪の形。思い出すのも嫌で、小夜子は誰にも言えずにいた。隣の陽菜は携帯電話を取り出し、家族と会話しているようだ。ちらりと彼女を見てから、静音は小声で続ける。

「ああいうのって、誰に相談すりゃいいんだろね。先生……とかかなぁ。でも、これってあたしらが干渉していいような問題なのかねえ?」

「うん」

「……楠木には、いないのかね。こうやって、並んで歩く友達とか。相談に乗ってくれる家族とか」

「……“相談”」

 暗闇は、小夜子の浮かべた苦笑をうまいこと隠していた。

「並んで歩くくらいなら、私らにもできんのにね」

「……誰にも、頼る気が無さそうだよね」


 そうなのだ、不思議なくらい――彼女は、耐えている。

 平気なはずは無い。何のために、あのようなことに耐えているのか。

 ……耐えなければならない、理由があるのか。


 その時、陽菜の電話が終わったらしく、

「ご飯食べてきていいって~」

 と、ふわふわとした声が流れ、その場の空気が一気に緩む。小夜子も静音も笑みを浮かべてその声を受け止めた。

「小夜子はどうする? 一緒にご飯食べてく?」

「え。ど、どうしようかな」


 ――奏一郎さんになんの連絡もしていないしなぁ。……無断でそういうのは、よくない。うん。あのお家、電話無いし!


「ごめん。また今度誘って?」

「了解、了解。お家で美味しいご飯を食べてくるといいさ」

「う、うん。じゃ、またね!」


 夜風が頬を撫でる。夏とは違い、そこに湿気など無く。乾いた風が髪をなびかせる。夏が高揚の季節だとしたら、秋は沈静の季節だろう。

 だけど、どこか――心は、逸っている。


* * *


 人通りは決して多くない脇道。だから、走ったってなんの障害も無い。もし障害があるとすれば――それは自分の体内にあるのだけれど。

 だが今日は不思議なほど、息切れがしない。こんなことは久しぶりだ。

 やはり心屋の環境が良いのだ。森で一度濾過された風は体に優しく溶け込んで、隅々まで浄化してくれる。穏やかに静かに流れる、優しい時間。


「……いろいろ理由付けてきちゃったけど、単にホームシックなのかな、私……」

 友達よりも下宿先を――彼を優先してしまう。いつから、こんな風になっていただろう。

「……なんで、かな」

 考えていたらキリが無いような気がする。


 そうこうしていうるちに、体はいつの間にか心屋の店先にあって。

「奏一郎さん、ただいまです」

 そう声をかければ、

「おかえり、さよ」

 優しい声が迎えてくれる。


 オレンジの光に照らされた朱の着物によって、彼の雪のような肌が映えている。地味とは決して言い難いその容貌。それでも深く碧い目は落ち着いた灯火を見せていて、思わずほう、と安堵の息を吐き出してしまう。


「今日は遅かったな、さよ」

「は、はい。文化祭の準備がありまして……」

「お疲れ様、だな。お腹空いたろう? さあ、夕飯にしよう」

 その刹那、走ったせいもあろうか空腹を訴える小夜子の体。小動物の鳴き声のようなその音は、やたらと長く響いたように感じた。

「あう……」

 思わず、主張し続けるお腹をぐっと押さえる。しかし、奏一郎は聞こえなかったふりをしてくれるほど甘くはない。

「お喋りなお腹だな……」

 そう言って、くすくす笑う。口元を覆うその手から垣間見える微笑に、小夜子が胸を高鳴らせたのは言うまでもない。羞恥と、それとはまた違う感情を材料に、彼女の紅い頬は出来上がっていく。

「そ、奏一郎さんは意地悪ですね」

「ん? そうかな……。さよにだけかもしれないぞ?」

「な、なんですか、それ?」

「あははは」

 碧い目を細めると、彼は鍋の中の味噌汁を温め直すべく火を点けた。


 小夜子が質問をしても、いつも笑顔で流される。毎度のこととは言え、少しだけ寂しい気がしてしまう。

 質問にははっきりとした答えが欲しいのだ。自分がそこまで明瞭な人間ではないのに、それを他人に求めるというのも我が侭な気がするけれど。


「文化祭の準備は、楽しいか?」

 程よく温められた味噌汁を椀に注ぎながら、笑顔で問う彼。椀を受け取りつつ、小夜子はなるべくはっきりとした声を出した。

「楽しいですよ。静音ちゃんがクラスを引っ張ってくれていて、今のところ何の問題も起きてませんし」

「そうか……。彼女もがんばっているんだな」


 奏一郎の目線が、店内の商品に向けられる。つい最近まで真っ黒に塗りつぶされていたキャンバスも。つい最近まで、罅の入っていた瑠璃色のグラスも。

 今ではケーキの絵が描かれた灰白色のキャンバスへ、罅などまったく無い、新品同様のグラスへと、それぞれ変貌を遂げている。その微妙で大胆な変化に、小夜子も薄々勘付いてはいた。しかし大して驚きはしないし、取り立てて奏一郎に詰め寄ることでも無い。


 彼が何者なのか――そんなことはもう、小夜子にとってはどうでもいいことになっていた。

 もちろん全く気にならないと言えば嘘になるが、何かしらの不可思議な能力を彼が持っていたとしても、今この瞬間に幸福な時間があればいい。生活していく上でまったく支障が無いのだから、あれこれ詮索しても仕方ない。

 第一、詮索したとしても流されるだけだ。


「さよ。僕はおかずを運ぶから、お箸を並べてご飯をよそってくれ」

「はい」

 最近では、夕食の準備も阿吽の呼吸になってきたものだった。しかし手慣れた様子で釜を開けると、小夜子は不覚にも目を丸くした。

「……美味しそうです」

「うん。今朝採ってきて、せっかくだから栗ご飯にしてみた」

 いつもは真っ白に輝くお米とご対面なのだが、今日は山吹色の栗たちがそこにいた。

「栗ご飯って、私、初めて生で見ました」

「おや、じゃあ食べるのも初めてか?」

 うんうんと小夜子が頷くと、

「今日採ってきてよかったな」

 満足げに、彼はそう呟いた。


* * *


 褐色の網目の付いた秋刀魚。ほこほこと白の湯気の立った冬瓜のあんかけ。玉葱と胡瓜のサラダ。そして栗ご飯と、なめこと豆腐の入ったお味噌汁。地味な色合いの卓袱台が、食材を乗せるだけでこんなにも鮮やかな物になる。一種の魔法みたいに感じてしまう。

「こういう食事をしていると、ああ、秋だなあって思いますね」

「そうだなぁ」

 のんびりと笑顔で応える彼に、小夜子はふふ、と笑ってしまう。


 この家には電話が無い。テレビも無い。正直、娯楽になるものなんて無い。


 それでも時間は、穏やかに流れる。


「いただきます」

 声を合わせて食事を口に運んでいく。小夜子は好奇心から、まずは栗ご飯からいただくことにした。口に入れ、ゆっくりと咀嚼する。ご飯と栗を一緒に噛むという、初めての感覚。

「……あ」

「美味しい?」

 奏一郎が、微笑みながらそう問う。が、答えは一つ、“美味しい”。その一言に尽きる。

「すごく美味しいです。栗に、ご飯とはまた違う甘さがあると言いますか……でも、ご飯の甘さと喧嘩していないと言うか……」

「専門家みたいな感想を、どうもありがとう」

 冗談めかしく彼は笑った。


「どこに栗の木があるんですか?」

「榎本さんのお宅に招待されたんだ。栗拾いを手伝ったら分けてもらった、と言うのが正しいか」

 そして、彼はそのまま続けた。

「さよも会ったことがあるぞ? 商店街の和菓子屋のご主人だ」

「……ああ! あの人ですか!」

「さよのこと、良い子そうだと褒めていたよ」

「え?」

 小夜子は驚いた。そうだったのか。突然声をかけられて圧倒されたのか、きちんとした挨拶すら交わしていないのに、と。

「嬉しいです……そんなこと言ってもらえて」 

「近々、お礼に伺おうと思っている。さよも次に会ったら、ちゃんとお礼を言うんだぞ?」

「はい」

 四十代半ばと思われたあの和菓子屋の男性。奏一郎の、というより心屋のルーツを教えてくれたあの人だ。

 そう、彼もまた、奏一郎に関する疑問を小夜子に植え付けた一人である。


 彼から聞かされた、戦時からあるという心屋の話。


 奏一郎と、彼の祖父とされる誠一郎の容貌は酷似しているらしい。しかし白髪に碧目、なんて、いくら血が繋がっていてもそのまま受け継がれるわけもない。

 ましてや――。

「奏一郎さん。つかぬ事をお伺いしますが……奏一郎さんは日本人ですよね?」

「うん。そうだよ?」

「……そうですよね」

 彼は日本人であるし。


 やはり――彼は、ずっとここにいるのだろうか。

 どれくらい前からなのか、それはわからないけれど。


「ごちそうさまでした」

 食べ終わった食器を、シンクに置く。奏一郎がスポンジで泡を立て、小夜子は洗われた皿を拭くべくスタンバイ。食器を一緒に洗うのも、その際の役割分担も決まっている。九月の半ばごろだろうか、小夜子が皿洗いの途中で皿を割って以来、暗黙の了解でこの構図ができあがっていた。


 受け取った皿を布で拭いていき、食器棚に戻しながら、小夜子は口を開いた。

「あの、奏一郎さん。ミシンってありますか?」

「“みしん”……? ああ、あの便利そうな道具か」

 この反応からして、この家にミシンは無さそうだ。小夜子は「そう……便利なものです」とだけ言って口を噤んだ。


 ――うう……。やっぱり学校の使うしかないかぁ……。


「“みしん”とやらが必要なのか?」

「はい、あの……文化祭の衣装を、各自作らねばならないのです」

 ポケットを探り、衣装の作り方が記された紙を奏一郎に差し出す。急いで残りの食器を洗い、濡れた手を拭ってから彼はそれを受け取った。

「ふむ……」

 なにやら黙りこくって、彼はそのまま天井を見上げた。考え事をするときの、いつものくせ。


 しばらくして、「あ」と声を上げると、

「さよ、ちょっと待っててくれ」

 と言葉を残して、彼は二階へと続く階段をゆっくり上っていった。


 取り残された小夜子は、まだ雫を滴らせている茶碗を拭うことに。それにしても、奏一郎は皿を洗うのが早い。まだ小夜子が拭いてくれるのを待っている食器がたくさん目の前に積まれてある。決して大雑把なわけではなくて、素早く綺麗に洗えているのだ。

 ――……“家事の天才”というやつかな……。


 今更ながら、家事に関して男性に負けている自分が恥ずかしくなってきた。


 そのとき、とたとたと階段を下る音。

 山盛りになった洗濯物――ではなく、十数着の着物を抱え、奏一郎が降りてきた。

「さよ。洗い物を拭き終わったらこっちにおいで」

「は、はい!」


 その言葉に急いで皿を拭き取るが、「割らないようにゆっくりやってくれ」と釘を刺され、逸りつつも小夜子はなるべくゆっくりと作業を終えた。その間も、彼は着物を広げてはたたみ、また次の着物も広げてはたたみを繰り返す。

「奏一郎さん、何か……?」

「うん。これがいいか」

 着物を持ち上げ、奏一郎は満足げに笑っている。彼の手にあるのは、純白という表現が正しいのか、清潔感溢れる着物だ。高級な呉服屋に置かれていても引けをとらない、それくらい新品同様に輝いている。真紅の蝶が純白の世界に漂っている様は壮観だ。

「綺麗な着物ですね……」

「そうか? よかった、気に入ったようで」

 そう言うと彼は小夜子の背後に立ち、その着物を小夜子の背にかけた。そのよくわからない状況に、彼女はひたすらクエスチョンマークを飛ばす。


「袖に通してみて?」

 言われるがまま、小夜子は腕を通してみる。やはり男性用の――奏一郎の着物なだけあって、伸ばしてみても指先は袖からは現れなくて。

「あのー……?」

「うん、まあいいだろう。さよ、この着物を使って流れ星の衣装を作ったらいい」

「……え?」


 奏一郎の提案に、小夜子が固まるのは――二度目かもしれない。


 ――この着物を使って、衣装を? 作る……?


「ダメですよ! こんな高そうなもの……!」

 焦りだす小夜子とは対照的に、奏一郎は冷静だ。

「いいんだよ。新しく布を買うのも高いだろう? それにほら、この流れ星の衣装……」

 先ほどの紙を指しつつ、彼は続ける。

「和服を模したものだろう? 布から作っていくのも大変だと思うぞ?」

「う……」


 たしかに、騎士や王女――人間――とは異質の存在という区別をつけるためだろう、流れ星の衣装は他の生徒たちと違い、古風かつオリエンタルなもの。着物から作ってしまえば、簡単に完成するということは理解できる。だが、ここで食い下がるわけにはいかない。


「でも、これは奏一郎さんの着物ですし。私用で改造するわけには……」

「うん。だから二人で作ろう?」

 にっこりと彼は微笑んだ。


 彼の子供のような笑みに弱い小夜子。それに加え、この殺し文句ときた。

「……ふ、二人で、ですか?」

「うん。夜なべ覚悟でがんばろうか?」

 本当に、小夜子は弱いのだ。彼の笑みに。いやむしろ、彼という存在そのものに弱いのかもしれない。

 気づけば、「はい」と返事をしてしまうほどに。

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