第八章:まもるもの ―神無月― 其の九
桐谷は気付かなかったかもしれない。が、橘には奏一郎の笑い方が、笑みを抑えているというよりも――もっと別の何かを、ひた隠しにしているようにも見えた――。
その時、とたとたと軽く響く階段の音。
「あ、あの、桐谷先輩!」
小夜子が二階から降りてきたのだ。その腕には、空色がかった――。
「これ、もしかして……桐谷先輩のじゃないですか!?」
『桐谷建設』と印字されたブルーシート。
そう、先ほどあんずを見て小夜子が思い出したのはこれだった。かつて佐々木によって店を取り壊されそうになり、雨ざらしになりかけていた家具を、雨から守ってくれていたものだ。
桐谷は「ああ……」と合点がいったような声を出し、
「そうだった、言い忘れてた。俺、ここの店ぶっ壊そうとしてました……ごめんね?」
去り際にものすごいカミングアウトをしてくれたものだ……。
爽やかな奏一郎のそれとは違い、小夜子は多少引きつった笑みを浮かべるも、
「ず、ずっと預かってたので、お届けしに行こうかなと思ってたんです」
と言って、「ありがとうございました」という言葉と共に、桐谷に手渡した。
「……んー……」
桐谷はなにやらぼーっと、『桐谷建設』の文字を見つめる。
「……うん、ちゃんと……するね」
「はい?」
どういう意味で言っているのか小夜子にはわからなかった。が、珍しく彼の目は真剣なものに見えたので、あえて何も言わない。
「えっと。また、おいでくださいね」
「ん。……ていうか、また近いうちに会うと思うよ……?」
「え?」
「さよさよの通ってる木之下高校……もうすぐ文化祭でしょ。俺らの母校だから、遊びに行く……」
――……『さよさよ』って? ああ、私のことか。いつの間にそんなあだ名を……? …………。
「って、ええ!? 同じ高校だったんですか!?」
小夜子が彼の発言に反応するまでに、数秒の時を要した。それだけ『さよさよ』のほうを先行してしまったということだ。しかし桐谷の発言には小夜子のみならず、橘までもが目を丸くしている。
「うん。だから“先輩”呼びも、ある意味では合ってるんだよね……。あ、チケットも何も要らないよ? 卒業生は無条件で入れるからね……」
「桐谷……。俺たちはブレザーだったはずだが。制服が変わったのに何でわかったんだ」
少しだけ猜疑的な目を向けられるも、桐谷は緩慢ながらも饒舌な説明を始める。
「四年前の代からセーラーと学ランになったんだよー……。しかも近年稀に見る黒セーラーだからね……超レア。母校がセーラー服になるとか……嬉しかっ」
「俺たちはこれでお暇する。長居してすまなかったな」
スルーという技も、橘は身に付けていたらしい。
無理矢理桐谷の頭を下げさせ、「行くぞ」と指図すると、街灯の少ない夜道を先に歩いていった。
「んじゃ、お邪魔しました……」
置いてかれまいと風に揺れ始めた路考茶の髪からは、やはり犬の耳が垣間見える。が、やがて暗闇に紛れ、二人の姿は視界から完全に消え去った。
「……いやあ、強烈な人……でしたね」
「うん、そうだなぁ」
流れる沈黙。奏一郎はにっこりとした表情を浮かべたまま、二人が先ほどいた場所を見つめている。彼が何を考えてそのような満足げな表情を浮かべているのかわからずに、小夜子はじっとその空色の瞳に釘付けになった。
「……あの、奏一郎さん」
「ん?」
「……奏一郎さんも……文化祭、遊びに来てくださいね?」
ほぼ思いつきでそう言ったのに、
「うん、誘われるのを待っていた」
と、彼は照れたようにして目を細める。細められた穏やかで優しい碧い目に、刹那、見つめられ。小夜子は少しだけ、息をするのが苦しくなったように感じた。
――……か、かわいい、なぁ。この人……。
心臓をそのまま掴まれて、少しだけ宙に浮いたような感覚。
そして鏡を見るまでもなく間違いなく――……またもや自分は頬を染めているのだと、実感させられたのだった。
――……なんか……好きかも。
奏一郎さんの笑顔って、私……好きかも……。
そう思ってしまった瞬間、急速に体温が跳ね上がったような気がした。
* * *
心地よく耳に響くのは、さわさわという掠れたような音。その正体は小川に佇み風に揺れるススキで、満月を仰ぐかのように、まっすぐにその身を夜空に翳していた。
腕に抱える大き目のブルーシートは風に煽られて、がさがさと耳に良くない雑音を立てる。捲れたブルーシートが強風で顔に当たるたび、『桐谷建設』の印字が目に入った。
「…………」
桐谷は四歩ほど遅れて、先を行く橘の背中を見つめている。共に歩き始めて数分経つも、まだ一言も言葉を交わしていない。奏一郎の言葉を疑うわけではないが、やはり橘は怒っているのではないだろうか……。そんな疑問が、不安が、ふっと脳内を掠めていく。
そしてその不安は、声という形になって現れて。
「……きょーや」
「なんだ?」
短く素っ気ない応答。少しだけ、ほんの少しだけ怯んでしまう。
が、
「……心配かけて、ごめん」
驚くほどすんなりと、口から漏れ出た謝罪の台詞。
アスファルトに視線を合わせ、親友――と思いたい――の、目を見るのを避けた。
愛想を尽かされていたら。見放されてしまったら――……とても怖いから。
「もうちょっと、しっかり者になるから。……物ももう、壊さないようにがんばるから。……だから」
「桐谷」
厳かな声に、ふと顔だけを上げる。いつの間にか、橘は体ごと振り返っていたらしい。
笑顔こそ無くとも、少なくとも橘の眉間に皺は寄っていなかった。
そして、
「お前は、馬鹿か? いや、馬鹿だな」
降り注がれる、罵詈雑言。
「お前がそう簡単に、しっかり者になどなれるわけないだろう。飴の袋も満足に開けられないお前が」
「……あー、うー……。……そだね」
異論は無い。事実だから。
「それでまたストレスを抱えて、物を壊すんだろう? とんだ悪循環だ。むしろそんな目標は要らん」
「……うわあ」
自らの野心とも言えるものをかなぐり捨てられ、桐谷は崖っぷちに立たされた気分に陥った。子ライオンの気持ちを思い知る日が来ようとは、夢にも思っていなかった……。
そして、橘の口が紡いだのは――再びの罵詈雑言、ではなく。
「ゆっくりでいい。……しっかり者になるのなんか。お前のそれが治るまでは」
再び帰り道の方向に体を向ける橘。彼の表情は、見えなくて。予想もつかなくて。
それでも――声色は穏やかで。
「俺がどこへでも駆けつけてやる」
風が、髪を撫でる。それはとても軽やかで、清々しくて。
どこまでも、吹き抜けていった。
――……なんだ……。高校の時と、なんも変わんないや、俺ら。
橘は知らない。背後の彼が滅多に見られないくらい、柔らかな笑みを浮かべたのを。
「……きょーやってさ……そういう台詞言えば、女の子にもっとモテるんじゃない……?」
「……今、お前に言ったことを後悔してるよ」
苦笑しつつも、橘はそう言った。
軽やかな風が、二人の間を通り抜ける。
「きょーやもさ……文化祭、行く?」
「……まだ杉田先生はいるんだろうか」
「いるんじゃない……? まだ若かったけど……転勤とかしてなければ」
「……卒業してから、一回も会いに行っていないしな。行くか」
桐谷は、その返答を待ってましたとばかりに提案。
「きょーやー。文化祭の日は、俺が車で送り迎えしてあげるね……」
「徒歩でいい。お前、この間事故を起こしたばかりだろうが」
早速、却下されてしまったが。
――……きょーやからもらった優しさ。
……少しずつ返してこうっと。
二人は、歩く。肩を並べて。
* * *
風呂から上がり、パジャマの釦を留める。もう夏は完全に過ぎ去ったのだと、乾いた空気が教えてくれる。パジャマもそろそろ冬物にしなければ、風邪をひいてしまうかもしれないな。今週末には衣替えをしようか、そんなことをぼんやりと小夜子は思った。
しかし、そんなことよりも――。
――……お父さんに連絡しないと。三者面談のこと、言わないと……。
それだけは、はっきりと心の中で口にしていた。
いつも通り、脱衣所から出る頃には一階の電気は消えていた。
だが、いつもと少し違ったのは――。
いつもは障子で区切られているのだが、今日は茶の間からでもその空間が垣間見える。茶の間に面した、奏一郎の部屋だ。
真っ暗なため、時折暗雲から解放された月光のみが、この空間を、そして彼を目にするための唯一の明かりであった。
畳の部屋には、何も置かれてはいない。
布団も無ければ、書棚も無い。ただ、栞が挟まれた数冊の古書が、積み上げられているだけ。
「たちのきくんが気に入っているからあの子が選ばれた……そうわかった瞬間、少し安堵した自分がいたよ」
縁側に腰掛けつつ、どんよりとした空に向かって、彼は朗笑を送り続けている。小夜子は隠れて、その笑みにぽーっと見惚れてしまう。
「ああ、あの子は、愛されるために選ばれたんだなと思って」
傍から見れば、暗闇の中の男の独り言。しかし、彼の言葉に耳を傾けるモノは、小夜子以外にもたしかに、いた。ちゃぶ台の上に。
「どうして選ばれるのか……なんて、理由はどうでもいいんだ」
時計の短針は既に十を差し、夜空もさらに黒を纏おうとしている。その様を眺めながらも、彼は自らの見解を述べていた。
「時と場合によって、そんなものは変わっていくのだから。……ただ、選ばれた者のその先に、幸せが待っていればそれでいい。選ばれた者のその先に、幸せが待っていることを祈っていれば……人間は、それでいいんだ」
するとむくりと起き上がり、手足を生やすのは銀色の水筒――とーすいである。
「……そう思うのは、選んだ方の傲慢なんじゃねえか?」
小学生ような高い声ながら、その口吻には迫力があった。それに負けたかのように、奏一郎は自ら折れるような表情を浮かべるも、
「……そうかもな。……でも、そう思わずにはいられない」
やはり自分の意見は貫徹する。
「だって、“彼ら”もそうだったろう? 自分達に幸せが待っていると思ったから……あの道を選んだんだろう?」
青白い光が幻想的に彩る、碧の瞳。空と海が融合したような――瑞々しく、潤いと渇きを兼ね備えたようなその瞳に見つめられ、とーすいはきゅっと口を――正確には飲み口かもしれない――を噤んだ。
小夜子には、彼の発言の真意がわからない。
それでもなんとなくわかったのは、彼のその目が憂いに満ちていること。
ただ、それだけ。
「……それはそうだが、旦那」
今度は怒り心頭、といった調子で飲み口を開くとーすい。感情表現の豊かな水筒である。
「なんで、あんな危険な野郎の思考を変えようとは思わなかったんだ?」
「桐谷くんのことか?」
「そうだよ! あいつが『けいたい』とかいうやつを木端微塵にしたのを見た時には……俺様のパーフェクトボディの危機と強く思ったんだぞ!?」
そのパーフェクトボディとやらをぶるぶると震わせる彼に、奏一郎はくすくすと笑った。
「ははは。いいじゃないか。“護り方”にも色々あるが、あれが彼なりの“護り方”なんだろう? 僕にそれを無理やり変える権利なんか無いさ」
「ちっ」と軽く舌打ちをし、とーすいはぷいっと外方を見る。
今日の言い合いは、彼の完敗のようだ。
「それに、護りたいものがはっきりしているだけ、彼は上等な人間だと思うぞ? ……大切なものを大切にできる人間は、少ない」
「…………」
小夜子は彼の台詞を胸に抱えたまま、気付かれないようゆっくりと、階段を上っていく。二階に到達した瞬間にすとん、と軽い音がして、ああ、もう奏一郎さんが障子を閉めたのだな……と、ぼんやりと理解した。
* * *
ベッドに横たわり、暗闇の中、小夜子は携帯電話をぎゅっと握り締めていた。
息が、しづらい。
発作だとか、そういうことではないけれど。
メールの機能のボタンを一度押してから、優に十分は経過している。しかしどうしても、どうしても――……次のボタンが押せないのだ。
ディスプレイに映る文字が、ボタンを押すのを躊躇わせる。
だが、いつまでも悩んでいるわけにもいかない。それは……わかっている。
彼女ははあ、と息を吐き、意を決したかのようにディスプレイを睨んだ。
そして『お父さん』のメールアドレスを選択し、簡潔に本文を入力する。
[お父さん、久しぶりです。
新しい学校で三者面談があるんですけど、来られるようなら、都合の悪い日を私に教えてください。
なるべく早めにお願いします。]
「……愛想、無い」
そう、ぽつりと言葉を落として。
『送信』の、ボタンを押した。
《第八章:まもるもの 終》
次章より、第九章:きめたこと ―神無月・中旬―
夏は過ぎ、秋風に揺れる紅葉の季節へ。
季節の移り変わりとともに、登場人物たちの心情にも変化が表れて──。
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☆物語の、一つの区切りが訪れました
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