第八章:まもるもの ―神無月― 其の八
先ほどの橘の台詞が少し気になったので、「お二人は、どんな高校生だったんですか?」と小夜子は問うてみる。
シンクの上を滑るように泡が流れていくのを、橘は見つめていた。
「……当時、桐谷は不良みたいなものだったんだ」
「ふ、不良、ですか?」
――……ギャップの塊だ、あの人。
小夜子が目を点にしていることに気付かないのか、彼はそのまま続ける。
「いつも何かしら壊していたからな。窓ガラスを割らない日などほぼ無かったし。朝、登校したら教室の黒板が真っ二つになっている時もあった。……つい最近判明したことだが、ピアノまでもを奴は目茶苦茶にしていたらしい……」
「ピ、ピアノって壊せるものですか……!?」
――あんな甘いオーラを出しているあの人は、過去にそんなことをしていたのか……。
「と言っても、命あるものには絶対に手を出さない奴だから、猫たちのことに関しては安心してくれ」
「は、はい」
小夜子が気にしているだろうと思って彼は気遣ったのだろうが、その部分に関しては、実は小夜子はあまり心配はしていなかった。好きな人のために猫を飼うと言っていた桐谷だ。猫を傷つけるようなことはしないだろうと。
「でも、桐谷先輩も言ってましたけど、よく退学になりませんでしたね……」
そんなことを繰り返していては、学校から追い出されても不思議ではないのではないか。
「……いや、あいつが退学になるなどありえない」
「え?」
やたら手慣れたもので、橘の皿を拭くスピードは小夜子の皿を洗うそれに勝っていた。それに気付いたのか、わざと彼女のスピードに合わせてゆっくりに拭いてくれている。
その間も口を開いて、小夜子の疑問に答える。
「あいつの親父さんと当時の校長が、懇意の中でな。二人の間には、桐谷を退学にはさせない、という暗黙の了解があった。……が、それを知っていようがいまいが、桐谷は破壊行動を止めはしない。そこで教師陣は……生徒会長に奴の見張り役を兼任させようと決めたんだが、それに俺が抜擢されたというわけだ」
「せ、生徒会長だったんですか、橘さん? すごい……いや、それよりも……そ、そんなことがあったんですね」
彼の破壊行動は、学校全体を巻き込む大問題であったのだ。今更ながら、桐谷という人物の、ある種の偉大さが感じられる。
橘はふうと息を吐いて、
「あいつが何か物を壊すたび、俺はあいつと一緒に、教師たちに謝りに行ったものだ……」
と呟く。その声のか細いこと。仕事の疲弊ついでに、過去の記憶の疲労感も呼び覚ましてしまったらしい。
その哀愁漂う背中につくづく、この人は本当に苦労性なのだなあと小夜子は思った。よくぞ白髪が生えてこないものだ。
しかしここで、彼女には予想外の言葉が橘の口から漏れ出る。
「……楽しかったけどな」と。
その声はどこか優しく安らかで、表情も柔らかいものになっていた。
「楽しかった、ですか?」
「……俺はどちらかと言わなくとも、素直じゃない」
「あ、それは知ってます」
思わず即答すると、橘は苦笑を浮かべた。
「感情を表現するのが苦手なんだ。……昔はもっとひどかったように思う。自分を偽ってでないと、他人と接することができなかった」
「皆、そうかもしれないけどな」と小さく付け加えつつも、彼は手の動きを止めない。
「だが、桐谷と知り合って。あいつを叱ったり、あいつの話を聞いたりしていくうちに……だんだん、本当の自分が出せるようになって。……あいつといるのは、苦痛じゃない」
素直に見せかけてやはり素直でないその台詞に、小夜子はふふ、と笑みをこぼす。
「桐谷先輩が橘さんのことを好きな理由、なんとなくわかります」
「え?」
「橘さんも、桐谷先輩のことを大切に想っているからですよ」
橘は一瞬だけその黒い目を丸くすると、すぐに「うーん……」と思案顔をし始める。
「……その、桐谷“先輩”なんだが、本当に今後もそう呼ぶ気か? 君は…」
「え? ああ、はい。まあ、呼び方なんて何でもいいかなって」
「ならいいが……あいつがますます若々しくなりそうでそれは困る」
少しは成長してもらわなければ困る、という意味だろうか。
――……本当に、この人はどこまで面倒見のいい人なんだろう。桐谷先輩がこの人を好きな理由、またわかっちゃったよ。
清々しい気持ちで皿洗いを終えると、橘は再び猫たちの元へ行く。ずっと触れたいのを我慢していたんだろうか。少し表情が綻んであどけなさが残るそれに、小夜子はしばし目を奪われた。
「……橘さん」
「ん?」
猫から視線を外す彼に、小夜子は微笑みかける。
「橘さんは、笑っていたほうがずっといいですよ。その方が……うーんと、ずっと可愛いですよ?」
「……は? か、かわ……?」
橘はきょとんとした表情を浮かべる。小夜子の言葉の意味が理解できないのだろう。
「いや、だから橘さんは、きりっとした無表情でいるよりも、笑っている方が可愛いですよ? って言ったんです」
「いやいや、待て。“可愛い”って……何を言っているんだ、君は」
そう言いつつも、橘は少しだけ頬を赤くしている。言葉の意味が徐々に浸透されてきたらしい。
「なんか少年みたいで可愛いんですよ? 猫たちに触れている時とか」
その言葉に、橘は両手で抱えていた子猫をぽろりと落とした。わざとではないのだろう、急いで抱きかかえたから。子猫も少し驚いたのか、抗議の目を彼に向けている。
「あの、な。今後の君のためにも言っておく。二十七の男をつかまえて、か、わいい……だの、なんだの、言わない方が……いいぞ」
伏し目がちに彼は言うが、赤くなった顔は隠せていない。
「あ、失礼でしたか?」
小夜子はからかっているわけでも馬鹿にしているわけでもなく、純粋に本心から言っているのだが、それも無礼にあたれば言ってはいけないことになる。もう何回も言ってしまっているのだが。
「失礼……というわけではないが。……その、そういう発言は……照れる」
「……照れ? ……ますか?」
「だから、なるべくそういうことは言わないでくれ……」
それだけ言って、空気の抜けた風船さながら、彼は顔を下に沈めていった。小夜子はその反応に思わず笑いそうになりながら、十も年上の彼をますます「可愛いな」と思ってしまった。頼まれたのでもう言わないけれど。
彼は感情表現が苦手と言ったが、決してそんなことはないと小夜子は思う。
「……そういえば、桐谷はどこに行った? もう夜も遅いから、あいつを連れてお暇する」
話題を変えたいのか、早口にそう言う彼。しかし、まだ猫選びも済んでいない。なぜ元来の目的が一番後回しになってしまったのだろう。
「あ、奏一郎さんもさっきからいないです。お庭にもいませんでしたし……お店でしょうか?」
小夜子は茶の間からいそいそと立ち上がり、玄関の戸をそっと開く。店のオレンジの明かりは、行方不明になっていた二人の人物を淡く照らしていた。
奏一郎はぽんぽんと桐谷の背中を叩いているし、桐谷は膝を丸めて顔をそこに埋めている。その、なんとも形容しがたいよくわからない状況に、小夜子はひたすらクエスチョンマークを飛ばす。
「あの、奏一郎さん、桐谷先輩……。橘さんが、『もうお暇する』らしいですが……?」
遠慮がちにそう言われ、彼女の存在に先に気付いたのは碧眼の彼であった。
「おや、さよ。呼びに来てくれたのか、ありがとう」
「い、いえ……。桐谷先輩、どうかしたんですか?」
奏一郎が口を開く前に、「……ターニングポイント」と、くぐもった声が聞こえた。桐谷が、またもぼーっとした顔を膝から上げる。
「ターニングポイントに到達しただけ……だから心配しないで」
「は、はい、わかりました。あの、でも……店の床に血溜りがあることについては心配してもよろしいでしょうか……?」
小夜子の視界には、オレンジの明かりが混じって煌々と輝く鮮血が映る。さーっと血の気が引いたのを彼女は感じたのだが、これを見て心配しない人など果たしているだろうか。
「大丈夫。……そんな日もあるよ」
「そんな日、あっちゃたまりませんよ……」
小夜子の突っ込みに奏一郎が吹き出したところで、茶の間から「桐谷、さっさと帰るぞ」とよく通る声が響く。
名を呼ばれた桐谷は本当に犬のよう。珍しく俊敏な動きで、茶の間へと消えていった。
「懐いてるよなあ」
奏一郎がくすりと笑う。その笑みはどこか温もりに満ちていて、小夜子はまたもや心臓をそのまま掴まれたような錯覚に陥る。
「今日は楽しかったなぁ。“お客様”は来るし、たちのきくんも来るし。結婚談義もできて」
「……う」
『結婚』――。その単語が彼から出てくるだけで心臓がもやもやして、こんなにも面白くないのは何故なのか。
「さあ、さよ。桐谷くんに猫をお渡ししなければね」
「は、はい……」
そう、本来の目的――猫を、渡すということ。
「……どの子が、選ばれるかな」
茶の間に入る前に、そんな独り言が小夜子の耳を掠めた。
* * *
「決定しましたー……」
メインコメンテーターのような言い回しをする桐谷だが、声に張りが無いのとやる気も無いせいか、どこか間延びしている。何はともあれ、どの猫を貰っていくかを決めたらしい。
彼がしばらく悩んでいたおかげで、結局、時計の針は夜の九時という時を刻んでいる。橘が「早くしろ」と急かした結果がこれなのだが、彼がもしここにいなかったら、何時までかかっていたのだろうか。
桐谷の発言にぴくりと反応するも、奏一郎はにっこりとした表情を覆さないまま、あんずを抱っこしていた。
遊びきって疲れたのか、畳の上には深い眠りにつく子猫が三匹。そしてもう一匹は、橘とまだじゃれていた。
「あ、決まりました?」
小夜子が明るく訊くと、うんと桐谷は頷いて、橘が抱いている猫を指す。
「その子にする……ファイナルアンサー……」
「あ、なんだ、桐谷……。この子にするのか?」
橘が一瞬、沈んだ表情になる。自分に懐いてくれているので、離れるのが寂しいのだろう。
その時、
「……なあ、桐谷くん。どうして、その子にしたんだ?」
奏一郎が静かに問う。彼の目を、小夜子は見逃さなかった。見定めているような、探っているような、そんな目。やたらと真剣な眼差しを。
それとは対称的に、のんびりと説明を始める桐谷。
「んー。きょーやが……あの子を一番気に入ってるみたいだから……」
「……たちのきくんが?」
「いや待て、判断材料は俺か?」
奏一郎と橘が、同時に目を丸くする。桐谷はこくりと頷いて、
「だから今後も俺のところに遊びに来てほしい……仕事の息抜きがてら。自然とその猫も待ってるよ……?」
「お前……俺を猫で釣る作戦か」
半ば呆れた調子の橘だが、今胸に抱いている猫とは完全には離れ離れにならないという結果に、些か安心しているように見えた。
四匹の中でも一番小さく、少しひ弱な雰囲気の子猫。彼女ももう眠たいのか、橘の腕の中で欠伸をし始め、安らかな眠りにつこうとしている。
その様子を見て――穏やかな笑みを浮かべ、「そうか」とだけ碧眼の彼は呟いた。
そして、小夜子がふと気付いたこと。内容が内容なだけに、桐谷を引き寄せてそっと耳打ちする。
「桐谷先輩の好きな人って、橘さんだったんですね?」
「うん。……あ、文脈的に女の人と思った……?」
「そりゃ思いますよ」
「だよね。説明不足でごめん……」
あまり謝罪されている気がしないのは、彼が本心から謝罪をしていないからだろうか。本当にこの人は、勘違いばかりさせてくれる……。小夜子はふうと軽い息を吐いた。
「ちなみに、いつから飼えるんですか?」
「もう今日から飼えるよ……。ケージもごはんも買ってあるし」
これはまた意外なことに、準備の良いことだ。
「じゃあ、今日でこの子とはお別れですね」
小夜子は名残惜しそうに、まだ名も与えられていないその猫を撫でる。愛着が湧いてしまうからと、今までどの子にも名は与えていなかった。それでもやはり、一ヶ月という短い期間ながら世話していた猫と離れてしまうと思うと、どこか寂しさと言うのは募るものだ。
奏一郎があんずを抱え、橘に――正確には、その腕の貰われていく子猫に歩み寄る。
「……あんず。“さよなら”しようね」
彼の口吻は静かなものだった。
けれど。
自分に向けられたわけではないはずのその台詞は、なぜか――小夜子の胸に突如として突き刺さった。それを彼女も自覚しているから、なんとも歯痒い感覚が体中を駆け巡る。
彼の声に反応してか、あんずが軽く、甘い声で鳴く。すると橘の腕の中、今まで目を瞑っていたその子猫は、ぱちっと円らな瞳を覗かせた。
やがて小さく、とても小さなか細い声で、母に応えたのだった。
そしてあんずを見た瞬間、ふと小夜子はあることを思い出して――。
二階の自室に、駆け上がったのだった。
* * *
夜風は乾燥していて、秋めいた中にも早くも冬が迫ってきているような感覚に襲われる。思い知らされるのは、季節の変わり目の早さ。ほんの少し前まで安眠など到底できないほどに蒸し暑かった気候が、もう過ごしやすいからりとした空気に変貌しているのだから。
漂う暗雲は時折満月を隠し、星々を独占している。
奏一郎はその星が見えない空を残念そうに見上げながら、「さよ、まだ降りてこないなあ」と、独り言をこぼす。
「お世話になりました。そして、いろいろとご馳走様でした……」
店先にて深々とお辞儀をする桐谷に、奏一郎は向き直った。
貰われていく子猫は橘の腕の中、安らかな眠りを満喫している。よって橘は、静かなる至福の時を手に入れているというわけだ。
「またいつでも来るといい。“お客様”が来るのは嬉しいし、今日はとても楽しかったからな」
「じゃあ入り浸ることにするね……」
極端なまでに決断が早いのは、彼の長所と言えよう。
「……あ。あのさー、一つ訊いてもいい?」
「ん?」
小首を傾げる奏一郎に、桐谷もつられる。
「なんで、あんなに俺の話聞いてくれてたの……? なんか、単なる親切とか……お客様相手へのサービスとかとは全然違う風に見えたんだけど……」
ぼーっとした目でそう問うので、
「見た目に相反して鋭いなぁ、君は」
奏一郎はくすりと笑った。
「そうだなあ、君がお客様だからってだけではないな」
「……あ、やっぱり?」
ある程度予測はしていたのか、桐谷は納得したようにそう言う。案外と聡明な彼に、奏一郎も思わず苦笑を浮かべた。
「……何て言うのかなぁ。同一視ってやつかな。かつての僕も、友達がいなかったから」
「あ、そうなん? へー……意外」
微かに親近感の湧いた桐谷は、彼にもう一つだけ問うてみる。
「なんでいなかったん? 友達……」
「理由も、君と一緒だと思うぞ?」
――……『俺と、同じ』?
桐谷は深く、深く考えた上で、もう一度口を開いた。
「……昔、暴れまくってたんだ……?」
「……あっはっはっは。ちょっと、違うなあ」
奏一郎が高笑いに近い豪快な笑い方をするので、何事かと橘は子猫から目を逸らす。奏一郎はくく、と笑いを抑えながら、
「……怖がってたからな、みんな。僕のこと」
そう、呟いた。
そのときの笑みは――どこか楽しそうで。どこか儚げで。どこか、とても――寂しそうだった。




