第八章:まもるもの ―神無月― 其の七
〈注意事項〉流血表現があります
桐谷の焦香の目に瑠璃色のグラスが映る。皹の入った箇所をなんとなく親指でなぞりながら、彼はそのまま話を続けた。奏一郎はといえば、微笑を浮かべながら沈黙を貫いている。
「過剰防衛ってやつ。心のお医者さん曰く、俺ってそれらしい。周りは俺を傷つけるから。傷つけてばかりだから。自分を護りたい。でも自分を護るには、人を攻撃しなきゃ。でも、世の中の全員が俺を傷つけるわけじゃない。それを頭ではわかってる。だったら人じゃないものを傷つければいい……っていう。……馬鹿だよね」
いやいやと首を振る奏一郎。なおも笑みは湛えたままだ。
「自分を護りたいと思う人間なんか、たくさんいる。いやむしろ、そう思わない人間なんかいないんじゃないか?」
「……そうかもね」
それでも、桐谷の表情は晴れない。
「物を壊すってのは、俺にとっては護り方なの。自分を護る気でいられる。人も傷つけないで済む。問題は……もっと、別にあって」
それだけ言って目線を送るのは――細い光の漏れる、茶の間。
「……どうしても甘えちゃうんだ、俺。きょーやに。昔からだけど」
「たちのきくんに、か」
こくりと頷く。
「俺ね、友達の作り方知らなくて。下手くそで。一人もいたことなかったんだ……友達。生まれた時から、高校まで。上級生も下級生もみんな、俺のこと怖がってたから……。自分で言うのもあれだけど……一人遊びの名人だったよ、俺」
左手の包帯は、既にうっすらと血が滲んでいた。
「……でも、きょーやは違った。俺の素行とか、前科とかじゃなくて……内面を見て、接してくれた。内面を見た上で……ちゃんと、俺の変なところも理解してくれた……。……俺と関わっても、何も得なんかしないだろうに。損しか、しなかっただろうに」
血は、滲んで。白の包帯を赤く染め上げる。
「……嬉しかった」
血染めの包帯から自然と、赤い液体がぽたぽたと垂れ始める。店内の床に生じる水溜りを一瞥するも、奏一郎は何も言わなかった。
「……でも高校卒業して、大学に入って。……きょーやと離れて。『ああ俺も、独り立ちせねばー……』と思ったんだけど。方法わかんなくて。イライラして。結局また、物壊して……という悪循環」
ここで、やっと奏一郎が口を開く。
「……たちのきくんのこと、好きなんだなぁ」
彼ににこやかにそう言われ、
「うん。好き。大好き。……初めての友達だから」
と、すぐさま答えを返した。
その表情は、どこか誇らしげで。緩やかに上げられた口角は柔和な笑みを作り出してすらいた。が、それも一瞬のこと。
「……でもさ、違うでしょ。“友達”って……どっちか一方が甘えたり、執着したりするような……そんな甘ったるい関係じゃないでしょ。ぬるま湯みたいな関係じゃないでしょ。……少なくとも、俺はそんなの嫌だ……」
きょーやと、対等になりたい……と、か細い声ながら桐谷は続けた。
左手の包帯を解いてみれば、嫌でもその傷跡は目に入る。赤く染まった手のひら。こんな怪我をするのは、高校時代においてはもはや当たり前だった。しかし、久々のその感覚は――……痛く、疼き。痺れていく。
「きょーやだって働いてるんだし……社会人だし。色んな付き合いとかあって当たり前なのに。……未だに、甘えちゃう自分がいて。……それだけに飽きたらず……きょーやに会いたいとか思っちゃう……。物を壊す自分よりも……こんな甘えたな自分、嫌いだ」
瑠璃色のグラスを、そっと元の位置に置く。壊れやしないかと思っていたが、どうやら難なく机との接触を受け入れたらしい。
「……止血、しないか?」
奏一郎はにっこりとした表情を浮かべ、薬籠を顔の位置まで持ち上げてみせる。
「さあ、そこに座って」
と、自らの向かいの廊下を指した。
桐谷は足元の赤の水溜りに今更気付き、はあ、と肩を落とした。それほど大きなものではないが、これを綺麗に落とすとなると大変な作業なのではないだろうか。
「ごめんなさい。後でちゃんと綺麗にするから……」
「まあいいさ」
そのさっぱりとした返答に、桐谷はとりあえず奏一郎の前に腰掛けた。
「……消毒液、沁みない?」
桐谷の不安げな表情に、奏一郎は笑いを抑えるのに必死だ。
「さあ、どうかな。薬籠は家にあるけれど、僕は怪我なんてしないから」
「……ふーん……?」
奏一郎の言葉の意味はわからなかったが、よほど注意深い性格なのだろうか、だから不注意な怪我などしないのかと、桐谷はそんなことを思った。
本当に怪我をしたことなんか無いんじゃないか、そう思わせられるほどに、奏一郎の処置は見た目にそぐわず大雑把なものだった。栓を捻りすぎた蛇口のごとく消毒液をドバドバとかけ、包帯は不規則にぐるぐる巻きである。彼のおかげで桐谷の腕の一部はミイラ化している。しかしそれでいて、奏一郎の表情は真剣そのものなので、桐谷はとりあえず口を結んでいた。
「初めて人の怪我を目にした。まあ、血が止まればいいんだろう?」
「……必要最低条件だよね……」
なんとか包帯を結ぶところまで辿り着くも、奏一郎は理想の形にならないのが気に入らないらしい、もう一度腕に巻かれていた包帯をするすると解いていった。
「……さて、処置の間は暇だろうから、少し僕の知っている女の子のお話をしようか?」
「“お話”? ……保育園みたいだ……行ったこと無いけど」
「おや、そうなのか?」
「うん。……保育園とは、別の場所にいた」
「そうか」
奏一郎は再び、包帯を桐谷の手のひらに巻きつけ始める。雑な動作なせいか、少しだけ痛みが走るも、桐谷は何も言わなかった。
「ある女の子がね、僕を訪ねてきたんだ。友達が笑わないんだって。辛くても、無理して笑うんだって。本当に楽しい時でも、どこか寂しそうに笑う。そんな友達のことを、彼女はとても心配していたんだ」
「……優しい子」
「ふふ。うん、そうだね」
奏一郎は目を細めた。
「俺、そういうの尊敬する。持ちつ持たれつ、みたいな」
「……でもね、僕の見る限りだけど。彼女も、あまり上手に笑わない子だったんだ」
奏一郎の頭に浮かぶのは――何かを耐えたような。今にも泣き出してしまいそうな。そんな、弱々しい笑み。
「人間は、様々な形を成す鏡だ。友達が辛そうに笑うことに彼女が気付いたのは……自分も、そうだったからだよ」
奏一郎の微笑みは、慈愛に満ちたものだった。真っ暗な空間に灯された、一つの蝋燭の光のよう。綺麗で、静かで、そしてなによりほんのりと温かい、そんな笑みだった。
「……君は、自分のことを嫌いだと言うけれど。たちのきくんは、どうかなあ」
その問いに、自然と答えを出し渋る。そんなこと、桐谷は考えたくもないのだ。
もし、もし、呆れられていたら? 嫌われていたら――?
桐谷の心情を察してか、
「さっきも言ったろう? 人は鏡だ」
にっこりとした笑みを絶やさずに、そのまま奏一郎は続ける。
「君はたちのきくんのこと、大好きだろう? そういう感情は、自分に返ってくるものさ。人間は、自分を愛してくれる者を大好きになる」
そうかもしれないな、と桐谷は思い始めていた。
自分が父親を良く思わないのは、きっと父も自分をそう思っているからで。どちらが先にそう思ったかはわからないが、きっとそういうことなのだろうと。
「……たちのきくんにも、素直とは言いがたい部分があるけど。きっと君のこと、大切に想ってるんじゃないかなぁ」
「……なんで」
「だって、さっき君のことを迎えに来た時……たちのきくん、口ではあんなことを言っていたけど。あれは、心底安心した顔だったよ。君が何も問題を起こしてなくって、よかったって顔をしていたよ」
その時のことを思い出してか、奏一郎はくすりと笑う。
「大切に想っているのは、君たち、お互い様。十分に対等な関係じゃないか」
小川に密集しているものだろうか。
ススキが触れ合って、さわさわという音が駆け巡る。
涼しい風はその音を乗せて、どこへやら吹き抜けていった。
「……対等、かな……」
桐谷は、半分無意識にそう呟いていた。
奏一郎に『対等』と言われても、そんなこと考えたこともないのだから正直、それはとても受け入れ辛い言葉だった。
「……俺、甘えてばっかりなのに。きょーやに、迷惑ばっかかけてんのに」
「……『甘えてばっかり』……か」
反芻してから、奏一郎は「うーん……」と言って天井を見上げた。
そして、目を丸くしつつも、こちらに顔を向ける。
「甘えることの、何がいけないんだ?」
「え……」
何がいけないか。そう問われると、明確な答えなど無いような気がする。
ただ、甘えることで、甘えすぎることで生まれる罪悪感が、積み木のように重なって――。身動きが、しづらくなる。その感覚だけははっきりと、明瞭なのだ。
「甘えるって、そんなに悪いことだろうか?」
桐谷は、黙ることしかできなかった。生まれてこのかた、誰かに甘えられた記憶など皆無だ。甘えられた側の気持ちなど、おそらく自分は知らない。
そんなことを思っていると、がたがたと店のシャッターが風に揺れた。
「……おやおや、もう店仕舞いだったな。ちょっと待っててくれ」
巻きかけの包帯から手を離し立ち上がると、桐谷の視界から奏一郎は姿を消す。耳には、シャッターを閉めるガラガラという音が響いた。
「……なあ、桐谷くん」
奏一郎の声が、微風に乗って桐谷の鼓膜を震わせる。
振り返ると、シャッターに手をかけるも、完全に日の落ちた空を彼は見上げていた。否、その下に聳え立つ、遠くのビルの数々を見つめていたのだ。まだ明かりの点くそれは、人がそこに在るという証。
「……この世は、ひどく息がしづらいな」
そう、ぽつりと呟いた。
シャッターを完全に閉められ、外界との隔絶は増した。もはや風の音も、ススキの触れ合う音も聞こえない。月光も遮断され真っ暗になった空間を、奏一郎がオレンジの明かりで淡く照らし出す。
彼はゆっくりと、再び桐谷の元へと戻ってきた。そしてまっすぐにこちらを見つめる、透き通ったような碧の瞳が目の前に現れる。
「……でも、そんな息苦しい世界を、君は今までどうやって生きてこられた?」
――……今まで、どうやって?
彼の問いを頭の中で反響させる。ややもすると現れる、答えは。
「人に、頼ってきた……」
「そうだろう? だったら、世のみんなだってそうだろう」
ご飯を食べるのも。洋服を着るのも。靴を履くのも。文字を読むのも。話ができるのも。笑顔になるのも。
「……こうして、包帯を巻くのも。みんな、最初は誰かから教わったことで。誰かがいるから、できることだろう。……誰にも甘えたり、頼ったりしない人間なんているわけがないんだ」
奏一郎は綺麗な包帯の巻き方を、数回失敗を繰り返しただけで学んだようで。
包帯の端を掴むと、とても綺麗に、まるで医者のように、優しく手のひらをそれで包んでいく。
そして、静かに言葉を紡ぐ。まるで傷口に言葉を封じ込めて、包帯で優しく閉じ込めるかのように。
「いいんじゃないか、甘えたって。罪悪感なんか感じることはない。君が甘えたらその分、たちのきくんに優しさを与えてあげればいい。彼のことを、もっともっと好きになればいい。たくさん、たくさん……大切にしてあげれば、それでいい。そうやって、そういうことを何度も繰り返して……」
奏一郎が手を止める。そこにあったのは、綺麗に包帯に巻かれた左手――。
「何度も何度も、繰り返して。“一生の友”になっていけばいい」
その静かな言葉に、一瞬だけ目を丸くすると――桐谷は自身の、左の手のひらを見た。
もう、痛みは無い。疼きもしない。痺れなど、無い。
「…………」
何も、言えなかった。
ただ、ひどく息がし易くなったことはたしかで。それでも、どこか息苦しく感じて。
「……いいのかな……」
やがて気付けば、口から声が漏れ出ていた。
「何が?」と、奏一郎は小首を傾げる。もちろん、笑顔は絶やさないまま。
「……俺、さ……」
声が震えているのを。声が潤いを持ち合わせ始めているのを。
自覚した、その刹那。
桐谷の両の目から、飴玉がぽたぽたと落ちてきた。
「こんな俺、だけど……。不良品みたいな……最初から壊れてるみたいな、俺だけど……きょーや、の……友達でいても……いいのかなぁ……」
表情は無いまま。目鼻を赤くすることもなく。突然、人形の目から雫が垂れたみたいに――彼は、涙を流していた。
奏一郎は頷いて、
「……君がそう思うのなら、あっちもそう思っているかもしれないぞ」
とだけ、優しく言った。
ぼたぼたと音を立て、淡い水玉模様が浮かび上がる。
それでもなかなか泣き止めずに、桐谷は膝を丸めて泣いた。
子供のような泣き方をする彼の背を、隣に腰掛けた奏一郎がぽんぽんと叩く。
時計の針の一秒一秒は、静かに時の流れを告げていった。
* * *
小夜子が洗い終えた皿を、橘が丁寧に布で拭いていく。「猫たちを構ってあげてください」と言っても、頑として彼がそれを拒んだ結果だ。こういう時、彼を頑固な人だと思うのと同時に、意志が強い人なのだなあとも思う。
「……迷惑を、かけなかったか?」
声を落としつつ、橘は小夜子にそう問いかけた。
「え? 何がですか?」
「あいつ。桐谷だ」
小夜子は素直に、今日一日の彼の行動を振り返ってみる。
「……飴の袋を開けてほしいと言われたくらいですが」
小夜子の包み隠さない答えに、橘は頭を抱えた。
「……あいつは……まったく……二十七にもなって」
「あ、あの、いや、でも全然迷惑とはほど遠いものですので!」
小夜子の懸命なフォローも空しく、彼は眉間に皺を寄せ、険しい表情を隠そうとはしない。
「……初めて会った時からそうだったが……あいつは、気に入った者にはとことん甘える節がある。まあ……生い立ち上、仕方ないことだから気を悪くしないでくれると助かる」
「えっと……たしか初めてって言うのは高校生の時、でしたっけ?」




