第八章:まもるもの ―神無月― 其の六
〈注意事項〉流血表現があります
「……一つ、誤解を解いておこう」
落ち着いた口調で言葉を発したのは橘だった。彼と桐谷は徐に正座をし始める。橘は自主的に、一方の桐谷は強制的に。
「桐谷は俺の高校の同級生で今年、二十七になる。正真正銘の成人であって、学生ではない」
「そ、そうだったんですか……」
なんて分かりやすい説明だろう、と納得しつつも感心する。
橘と桐谷がちょうど並んでいるので、二人の容姿を自然と見比べてしまう。
橘も年齢よりは若く見える方なのだが、桐谷は若いと言うよりは幼く見えるのだ。目も眠たげに垂れているせいかどこか甘い雰囲気が漂うのも、その幼さに拍車をかけているのだろう。どう見ても大学生くらいにしか見えないのだが――。
言わなくても良いことなのかもしれない――が、揺らめく罪悪感に小夜子は堪え切れそうにない。
「す、すみません。ずっと同じ高校の先輩だと思って、“先輩”呼びしてました」
当の本人は、「んーん……」と言いながら、ゆっくりと首を横に振る。その緩慢な動作がまた、彼を子供っぽく思わせるのだ。
「俺、“先輩”って後輩から呼ばれたこと無かったから、嬉しかった……。だから今後もそれでいい……」
「そ、そうですか? じゃあ遠慮なく」
――部活とか……してなかったのかな。
小夜子のそれとは違う疑問を、今度は奏一郎が橘にぶつける。
「で、何でたちのきくんはここに来たんだ?」
「”橘”だ。いい加減そのあだ名を止めろ」
怒りを抑えた風につっこむと、橘はちらりと傍らの桐谷を見る。その視線の意味を汲み取ったらしい、桐谷が口を開いた。
「きょーや、誤魔化すのめんどくさいから言っていいよー……」
「……いいのか?」
「ん……別に隠し事でもなし」
その台詞を受け、橘が真剣な目でこちらを見据える。
「実はこいつ……桐谷は日常生活において、医者の助けを必要としているんだ」
「え、それって……」
どくんと心臓が跳ねる。まさか、彼は何かしらの病を抱えているのだろうか、と。
「だ、大丈夫なんですか?」
小夜子の表情から心情を察知したらしい橘が、いやいやと否定する。
「体は健康なんだ。心の方なんだ、問題は」
「心?」
「こいつは、何の前触れも無く、物を壊したくなる……そういう病なんだ」
思いもよらないその告白に、小夜子はぽかんと口を開けた。桐谷はと言えば、その通りと言わんばかりに頷いている。なんと呑気な所作であろうか。
「……高校生の時が……うん、たぶん一番酷かったかな。物を壊さない日なんかほぼ無かったし。自分でも、よく退学にならなかったなって思う……」
「み、見えませんね……そんな風には」
こんなギャップを、これまでに感じたことがあったろうか。
先ほど好きな人のことを話していた時の、彼の穏やかな笑みを思い出す。それと今まさに話に聞いた彼が、あまりに合致しなさすぎだ。
そのまま、彼は話を続けた。
「今も……時々、その破壊衝動を抑えきれずに物を投げたり潰したりする……。……だから、今日ここに……心屋に来てさ」
続きが気になり、小夜子はごくりと唾を飲み込む。
「あまりにもたくさんの物で溢れてるから……衝動的に壊しちゃうんじゃないかって思うと、怖くなった。ので、……きょーやを呼びつけた、というわけです」
何故か丁寧口調の彼。一方の橘はまだ、イライラとした雰囲気を消せていない。
「急いでここに来たってのに正直……拍子抜けしたぞ。物を壊すでもなく、奏一郎とただただ談笑しているんだからな。まったく……心配して損した」
疲れ気味ながらも、刺々しい言い方を止めない。奏一郎が小さく「たちのきくん、怖いなあ」と笑いながら呟いているのが、小夜子の耳だけは聞こえた。
「ごめんね? きょーや……」
珍しくしょぼんと肩を落とす桐谷の頭に、犬の耳が生えているような錯覚に小夜子は見舞われる。が、猫好きの橘は犬には興味が無いのだろうか、「知るか」と言わんばかりに外方に目をやった。『心の友』と言う関係性の割に、かなり険悪なムードだ。
「ま、まあ、橘さんも、落ち着いてください。ほら、猫ちゃんたちですよ~」
機転を利かせた小夜子が、ケージから子猫たちを一斉に解放する。畳の上を行く短い手足。程よく耳に響く、子猫たちの高い鳴き声。ひよこのような、ふわふわの体毛――。
それらを見た橘の雰囲気は――……一気に丸みを帯びた。なんて簡単かつ単純な男であろうか。近くに寄ってきた子猫を見つめては、触れるのに戸惑っている。
「橘さんって……本当に猫好きですよね」
「それを顔に出すまいとがんばっているから、面白いよなあ」
くすくすと、奏一郎は笑った。
その時だ。またもや、あの軽快な音楽が室内に鳴り響く。桐谷がポケットの中をゆっくり探り出すのを、一同が見つめた。
「……俺の携帯電話かな……」
「え……確実にそうだと思いますよ?」
――アンパンマンの着メロなんて、あなたぐらいなものですよ、桐谷先輩……。
やはりと言うか当然と言うべきか、音の正体は桐谷の携帯電話だった。「ほう、それが『ケータイ』というやつか」と奏一郎は一人、目を輝かせる。携帯電話を開いた桐谷はぼーっとした眼で、
「会社からだ……」
と小さく呟くと、比較的素早い動きで、表へと姿を消した。小夜子が時計を見ると、今はもう夜の八時だ。
――こんな時間になっても会社から電話がかかるなんて……社会人って、大変なんだなぁ。
そう、思った瞬間。それと関連付けてしまったのだろう、小夜子は父のことを――ひいては三者面談のことを思い出してしまった。途端に、居心地の悪くなる心臓。三者面談に関するプリントの提出も、明日の朝に迫っている。少なくとも今夜中には父に連絡を取って、都合の悪い日について訊きださねばならないだろう……。
――……でも……私は。
そのとき、小夜子の思考を遮るのは――……優しく鼓膜を震わせる、まだか細くも高い声。背中に斑のある子猫が、小夜子に向かって甘えた声を出していた。まるで、小夜子を呼び寄せようとするかのように。
それを原因にして。それを理由にして。それを、逃げ道にして。
橘の隣に腰掛け、優しくその子猫の小さな頭を撫でた。まだ手のひらに乗るほどの大きさしかないその体は抱き上げてみると、冬に温かい飲み物を口にした時のような、不思議な温もりと安心感がじんわりと全身に広がるのだった。
「……可愛い、ですね」
傍らの橘にそう言って微笑むと、
「……う、まあ」
と、なんともぶっきら棒で歯切れの悪い答えが返ってきた。
――……私なんかよりずっと好きなんだろうに。……素直じゃないなあ、この人。
そう思うと、何故だか可笑しくって。小夜子はふふ、と笑みをこぼす。
わざとなのか、それとも偶然にか――。二人の気付かないうちに、奏一郎は二人の前から姿を消していた。
* * *
秋風にふわふわと揺れる、路考茶の髪。
微かな寒気を覚えた桐谷は店先にしゃがんで、電話の相手の怒りをスルーしていた。満月が綺麗だなあと、呑気にも思いながら。
「ブルーシート……? 知らんよ、そんなもん」
あくび交じりにそう答える。桐谷からすれば、淡々と厳然たる事実を告げているに過ぎないのだが、電話の相手はその態度が癪に障ったらしい。
《今、うちは佐々木の事件に関与していたと警察から疑われているせいで、信用ガタ落ちなんだ。ブルーシートが現場近くで見つかったりしたら、大変なことになるんだよ! わかるだろう、由良!》
声が大きい。そう感じた桐谷は、密かに電話の音量を下げた。
「『疑われて』って……実際、関与してたじゃん。罪の重さとか関係無しにさ。いっそ出頭しちゃえば……? 楽になるかもよ?」
《…………》
父が押し黙るときというのは何かに呆れているときだということを、桐谷は心得ていた。何故に自分が呆れられるのかが、彼には理解できぬことなのだが。
「会社だってさ……その後の努力と人徳でどーとでもなるでしょ……。あ、親父の人徳が如何なものかは知らないけど…」
《社員だって大勢いるんだぞ、そう簡単に出頭なんぞできるわけないだろう! よく考えろ!》
「……社員のこと、本当に考えてんの? もしそうなら、最初から危ない橋なんか渡んなかったんじゃないの……?」
『よく考えろ』などこっちの台詞だと、桐谷は思っても言わなかった。
そして、
《……お前を息子に選ぶんじゃなかったよ》
この台詞を最後に、交信はプツンと途切れた。
耳から携帯電話を離すと、そこにあるのは真っ暗なディスプレイ。
そして、そこに映るのは――思い出したくもない、真っ暗な過去の記憶だ。頭の中で、真っ黒と、真っ赤と、真っ白が入り混じる。ぐる、ぐる、ぐる、と。螺旋を描いて。それらは決して、交わることはなく。
「……勝手に選んどいて。そういうことを言うか……普通」
――……勝手に、選んでおいて。
……理不尽、だなぁ。
ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。
瞬間に、パキン、と音がしたと思った時には……もう遅かった。
左手には、真っ二つに割れた携帯電話。ディスプレイはまるで蜘蛛の巣が張られたように皹が入り、複雑な電子板を覆っていたはずの黒の機械は、ゆで卵の殻のようにパラパラと細かく地に散っていった。それを追うようにして赤の液体がぽたぽたと音を立てれば、次第に地面は赤黒く彩られていく。
「……やっちゃったか。またしても」
そう独りごちると、もはや残骸と化した“携帯電話だったもの”を地面にそっと置くのだった。
「……ごめんね。……おやすみ、三十四台目」
そうして、ゆっくりと手を合わせる。左の手のひらを止血したのは、それからだった。
ハンカチは便利だ。止血もできるし、包帯代わりにもなる。タオルもまた然り。
片手で、だが慣れた手つきで、桐谷は応急処置をしていった。その間にも、土と混ざった鮮血によって、徐々に足元には赤黒い水溜りが出来上がっていく。その様を見ても、眉一つ動かしはしない。白のシャツの袖が薄赤く滲んでも、気にしない。気にも留めない。
――……あ。だから俺って貧血症なのかな……。
じわりじわりと手のひらが痺れたように、どくどくと音を出すけれど。ぼんやりと思うのは、せいぜいそれくらいだ。
見事に包帯に生まれ変わったハンカチで、左手は見事、止血されたように見える。一先ずの応急処置としては完璧だろう。そう桐谷は思った。
もう、何回目だろうか。こんなことをするのは。何回目だろうか……。
* * *
明かりが点いていないので、月光のみが店内を淡く彩っている。しかし茶の間から漏れた光も手伝って、桐谷には静かに佇む不気味な商品たちをその目に捉えることができた。
小夜子と橘、そして猫たちの声が、桐谷の耳元をすっと掠める。そう――賑やかで、明るい場所に、彼らはいる。
「…………隔絶」
ぼそっと、そう呟いた。もちろん、その独り言に応えは無い。
なぜか――桐谷は自分でも不思議に思うくらい、茶の間の光に近づくのを躊躇ってしまっていた。もう少しだけこの隔絶された空間にいたいと、感じた。
かと言って、ここにいつまでも居続けるのは暇というものだ。そこで目に入ったのは、不思議な雰囲気をその身から醸し出す、商品たちだった。
本当に奇妙な商品たち。個性的で面白いのに何故売れないのだろう、そう桐谷は思っている。
血を商品に付けないように、桐谷は左手を固く握り締めた。彼にだって、それくらいの常識はある。
右手でそっと掴むのは、月の光を受けて美しく輝く瑠璃色のグラス。価値が如何ほどのものか知れないが、目は肥えている彼のこと。決して安くはないだろうことは想像に難くない。ただ一点、この商品に問題があるとすれば。
まるで断層のようにくっきりと、その表面にいくつもの皹が刻まれていることだ。少しでも手荒に扱えば壊れてしまうだろうと、容易に想像がつく。
――……少しでも。……手荒に扱ってしまえば。
「桐谷くん」
いつの間にか、奏一郎が玄関先にゆったりと腰かけていた。本当に“いつの間にか”。月光に照らされた肌は青白く彩られ、透き通っているような感覚にさえ襲われる。
桐谷は、
「……びっくりした……」
と、表情に出ていないことを呟き、奏一郎はと言えば彼のその反応にくすくすと笑う。
「驚かせるつもりは無かったんだが、すまなかったな」
そう言うと、奏一郎は碧の瞳を少しだけ丸くした。視線の先は、桐谷の左手。
「……おや……手を怪我しているじゃないか。大丈夫か?」
「ん……大丈夫だと思う。さっきいっぱいご飯食べたし……」
上記の台詞は、『だから貧血にはならない』という彼の理論である。奏一郎はそんな彼のトンデモ理論を説明せずして理解したのか、「そうか」とだけ言って頷いた。
奏一郎の言葉は続く。
「……壊したいって、思う? この店の商品」
彼の静かな問いに、桐谷は目を伏せた。手元には、ひび割れの入った瑠璃色のグラス。
――もし、これを落としたら。どんな音が、響くだろうか。
そんな些細な疑問は、右手の握力を弱まらせる。
何度も、何度もそう思っては。
何度も、何度も、壊してきた――…。
「……あーあ」
溜め息混じりに、桐谷は項垂れるようにして俯いた。
「……自己嫌悪、甚だしい」
そう、言葉を静かに織り交ぜながら。
「何で……物壊したいとか思うのか……元々の原因は、わかってんだ。もう……どうしようもないことだけど。……過去だし」
「……『過去』か」
「うん。……過去」
桐谷はそう言って、再びグラスを見つめる。
「これはね、きっと俺なりの“護り方”なの。もし治ったら……今以上に人に迷惑かけることになるから。だから」
言うか言うまいか、桐谷は悩んでいるようだ。しかし、
「治さなきゃいけないものだけど……治さなくていーの……」
桐谷自身、自らの言い分が矛盾していると自覚しているのだろう、少し小首を傾げながら、言葉を紡いでいく。
「物を潰したり……投げたり、いつの間にかしちゃうんだよね。でも、これは身代わりで。本当に壊したいと思うのは……」
――『傷つけたい』と思うのは――
「『人』……だから」




