第二章:であうひと ―葉月― 其の弐
「じょ、冗談ですよね? だってお父さん、言いました。ここの下見に、一度だけですけど来たんですって。そしたら、『管理人はおじいさんだった』って……。言いました。言いましたよっ?」
これまでの人生で最速の喋りを発揮した小夜子。こんなの嘘、嘘だ。嘘に決まっている。そう思う。思うのに──。
一方の彼は腕を伸ばしつつ、のんびりと自らの見解を述べる。
「うーん……。僕、君のお父さんには会っていないぞ。書類のやり取りだって郵送だったしな。あ、この髪の色だし、後ろ姿だけ見てそう判断したんじゃないか?」
無邪気に微笑みつつ自らの髪を摘む彼。どこか楽しげに見えるのは気のせいか。
──……お父さん、あなたって人は。ありえないでしょう。
十も歳が離れていないような男性と一つ屋根の下、なんて、ありえないでしょう……!
呆れと焦りの青い顔を見せる彼女に、奏一郎は目を細めた。
「まあそう落ち込むな。ここは空気もいい。君の体に負担もかからないだろう?」
落ち込んでいる、というわけではないのだけれど、彼の言うことはもっともなことだった。呼吸がいつもより容易にできるのは、ここの空気が澄んでいるからだ。仄かに緑の香りがして、気分も清々しい。
前の家とは大違いだった。
「……はい」
素直にそう応じた彼女を見て、奏一郎もうんうんと頷いたかと思うと、ゆっくり立ち上がり天井を指差す。
「ひとまず、君の部屋に案内しよう。大きな荷物も届いているぞ」
外からは今にも崩れ落ちそうに見えた二階は、いざ中を見てみると目立った老朽化の痕跡はなかった。廊下はぎしぎしと悲鳴を上げているが、慣れれば済む話である。
「ここが君の部屋だ」
廊下の一番奥にあるその部屋は南に面しており、窓からの風通しもよさそうだ。山盛りの段ボール箱のおかげで暑苦しい様になってしまってはいるが。
それでも別段狭く感じることもなく、足を踏み入れても床は悲鳴を上げていない。
すると突然、
「……さて。早速、手伝ってもらうとしようか」
にこりと笑う彼に、小夜子はまたも首を傾げる。
奏一郎がこの部屋に来て最初にしたこと、それは──電球の取り付けだった。
どこかから持ってきた椅子に彼は足を乗せ、取り付けの作業に入っていくのだが……椅子の脚は腐りかけていて、彼が上るとぐらぐらと揺れ始める。小夜子は必死で椅子の脚を支えた。
「ふーむ……。やってみると、案外難しいものだな」
頭上から降ってくる言葉に小夜子も応える。
「あ、あの。というか何で電球を取り付けていなかったんですか?」
「ああ、この家な、電球を今まで付けたことがなかったんだ」
──本気……ですか?
思いっきり疑ってしまう。
「え。で、でもじゃあ、今までどうやって生活してたんですか? 夜になったら何も見えないじゃないですかっ!?」
「日が暮れたら寝る。昇ったら起きる。いつもそうしてきた」
──本気、でした……。そういえば、さっきの茶の間にもテレビが無かった……。
「安心しろ、君も一応お客様だからな。全ての部屋に電球は付ける」
「あ、ありがとうございます……?」
当たり前のことにお礼を言うなんて、妙な感覚だと小夜子は思う。
一方の奏一郎は、
「それに君は一つ勘違いをしている。夜だからこそ見られるものだって、いっぱいあるぞ」
楽しそうにそう言って椅子から降り、電気の紐を引っ張る。次の瞬間、部屋は柔らかなオレンジ色で満たされた。
終始その調子で廊下、全ての部屋に電球を取り付け終えた頃には、もう辺りは夕闇に包まれようとしていた。
「ふう。手間取ったがやっと終わったな」
息つく割には、あまり疲れているようには見えない。彼は小夜子と違って汗一つかいていないのだ。実に涼しい顔である。
「あの。奏一郎さん」
小夜子は額の汗をタオルで拭うと唐突に、言うべきことを思い出したのだった。
「ん?」
「……ちゃんとお手伝いもします。奏一郎さんにご迷惑はおかけしません。いや、ご迷惑にならないよう、努力しますので。……これから、よろしくお願いします」
言い終わり、深々と頭を下げる。
──これからお世話になる身なんだから、しっかりしなきゃ。がんばらなきゃ。
ふっと漏れた声に顔を上げると、奏一郎はもう階段を下り始めていた。そして振り返り、静かに言葉をこぼす。
「君は……面白い子だね」
妖しい笑みを、まだ真新しいオレンジ色の光が淡く照らす。それを目の当たりにした瞬間……小夜子は首筋に、ひんやりとした寒気を覚えた。
「……さぁ、下りよう。夕飯の時間だ」
しばらくそこに立ち尽くし、もう既に消えてしまった彼の言葉にぽかんとしてしまう。
──何も、面白いことなんか言っていないのに。
あれ、そういえば。奏一郎さんって……日本人なのかな?