第八章:まもるもの ―神無月― 其の五
* * *
小夜子、奏一郎、桐谷が共に夕食を囲む、その一方で――。
静音も母と二人、食事の乗ったテーブルを囲んでいた。咀嚼しつつ、静音が頭の中に思い浮かべるのは――頬を朱に染めた、親友の昼間の姿。
――うーん……それにしても小夜子が奏一郎さんを、ねえ……。……これは楽しくなりそう。
「ふふ……」
「なにニマニマしてるの、気色悪い……」
思わず漏れる不気味な笑みに、母・香澄の冷淡な視線が突き刺さる。それでも静音はめげない。この程度の視線にはもはや慣れたものだ。何の躊躇いも無く、
「香澄ちゃんには関係無いよ~だ」
と言って、ステーキをフォークで口に運ぶ。
「もうふぐぶんふぁふぁいばから、楽ひみだなっふぇ思っふぁだふぇ」
訳しておくと。
『もうすぐ文化祭だから、楽しみだなって思っただけ』である。
「口に物を入れたまま、喋るんじゃありません! お嫁に行けなくなるでしょう!?」
ヒステリック気味のキンキン声。さすがに何年一緒にいても、これにはどうしても慣れない。が、静音にだって言い分はある。
指摘通り、きちんとステーキを飲み込んでから口を開く。
「お嫁になんか行かないよー。結婚する気無いし」
「またそんなこと言って……! 前までは『はいはい』くらいには答えてたじゃない!」
――“前”とは事情が変わったんだよ。……香澄ちゃんには言わないけどね、一生。
グラスの水を、わざと喉を鳴らすようにして流し込む。「もうアンタおっさんじゃないの……」と、か細い突っ込みも気にも留めない。グラスをテーブルに安置しつつ、
「文化祭実行委員は忙しいんですー。ってなわけで、しばらくお部屋に引きこもって参りますわねーっと」
言い逃げ。
自室の扉を閉じるのと同時に、香澄の深い溜め息が耳に入った。少しだけ、本当に少しだけ湧き上がる罪悪感。
――……ごめんね、香澄ちゃん。香澄ちゃんのこと、好きだけど。もっと好きな人がいるんだ。
静音も軽く溜め息を吐いて、自身の肩から重荷を取り去ろうとした。
学生鞄のファイルから、約三十枚ほどの紙片を取り出す。今日のホームルームでクラスメイトに書いてもらった、文化祭の出し物の希望票だ。
――集計せな。今は恋愛事にかまけている場合ではない!
普段使わない机の上は、いっそ清々しいくらいにこざっぱりとしていた。普段の勉学に積極的でない反面、周囲に対する責任感は強い彼女である。
皆の希望票を確認し、白紙には眉を顰めつつも、お化け屋敷やら喫茶店やらの希望数を、紙に記していく。
やがて集計し終えると、皆のやりたいことが一つ、見えてきた。
――……うーん。これは……報告がてら、小夜子に相談してみっかなー。
静音は携帯電話を開くと、素早い指使いで小夜子に電話をかけた。
コール音が耳に響く。何回目かはわからないが、少し遅めにコール音が途切れた。
「もしもしー、小夜子ー? こんばんはっ」
《……あ、えと、こんばんは》
少し躊躇いつつも挨拶を返す小夜子に、静音は今朝の彼女の表情を思い出し、にやにやしてしまう。
「あはは、やっぱり小夜子ってば可愛いわぁ」
《えっ……ええ!? いきなり電話で、なに…!? っていうか……そんなこと無いんだけどっ》
慌てふためいた様子の小夜子。どんな表情を浮かべているのか、容易に想像がついて今度は吹き出してしまう。
「ぶっはは、いやいや別にいんだけどさ。あのねー、今、文化祭の出し物の集計してたんだけどさー」
《う、うん》
「『演劇』がみんなの意見の半分以上を占めてんのね? でも演劇やるなら、やっぱり一人一役与えたいじゃん? 公平にさー。それに加えて大道具・小道具・脚本ってなるとかなり難しいと思うんだけど、どう思う?」
小夜子の沈思黙考。こういう姿勢が、彼女の誠実さを表していると静音は思った。
しばらくして、
《……お待たせしてごめんね? 私、演劇とかよくわかんないんだけど。みんなが一人一役やるのは公平できっといいことだと思うし、まだ文化祭まで一ヶ月以上あるし、みんなで協力すれば大丈夫だと思う》
「うん、うん……」
――……この子……本当は前向きなんだな~……。
静音はにかっと笑いながら、自身の肩の荷がいつの間にかふっと降りていたのを感じた。
「そっか、ありがとー小夜子。文化祭実行委員だから……ちょっと変に責任感じちゃっててさぁ。小夜子の意見聞きたくって」
《うん。あの、何かしてほしいことがあったら何でも言ってね? 頑張って手伝うから……》
うーんと背筋を伸ばすと、そんな嬉しい親友の一言にほっと息をつく。
「ありがと。また相談したり、愚痴ったりしちゃうかもしれないけど、そんときはよろしくね!」
《う、うん。人間だし……そういうときもあるよね……》
「……小夜子?」
静音は小夜子の声が、いつもよりも若干低くなっていることに今更ながら気付いた。これは――あくまで推測であるが――何かを我慢しているときの声、のような。
「……小夜子、何かあった?」
奏一郎さんと。とまでは、言わないけれども。
黙る小夜子に、静音も従う。ややもすると、彼女の口が開く気配。
《静音ちゃん……どうしよう》
「な、なんだ、どうした!?」
――心臓がどきどきしてたまらないか!?
《イライラする》
「……はい?」
予想外の答えに、静音は素っ頓狂な声を出す。
《こう、鍋で何か煮えたぎっているような……沸々とイライラが湧き上がってくるのだけど……》
静音はさっと血の気がひいたのを感じた。こんな小夜子は初めて見る。いや正確には、小夜子のこんな陰鬱な声を初めて聞く。
「ちょ、やめ。小夜子怖い……。あんた怖い。いつものおっとりしたあんたはどこに行ったんだ!?」
《だ、だって、奏一郎さんが……》
「奏一郎さんが何?」
《結婚話を……お客様としてるから……》
「……け、結婚!?」
静音は目を丸くした。と同時に、はっと閃く。
――……っは! そうだ、奏一郎さんは大人なんだった……! いつ結婚してもおかしくない!
「だ、ダメだよ、小夜子! 奏一郎さんに結婚とか、絶対にさせちゃダメだからね!」
《え……ど、どうして?》
「あー……っと、それは、だ……」
狼狽える様子の小夜子に、静音はやきもきしてしまう。
――くっそ……。何故ここまで来て気づかないんだ自分の気持ちにこのニブ子は! ああ、言いたい……っ! 言ってしまいたい! けど我慢!
「だ、だって、考えてもごらんよっ? 奏一郎さんが結婚したら……あんた確実にお邪魔……いや、出てかなきゃいけないんだよ!?」
自分でも無理やりな誤魔化し方だと思った。が、小夜子にはこれで通じたらしい。
《ええ……!?》
衝撃を受けた声を出しているから。
「だから、阻止しろ! 奏一郎さんの結婚を……なんとか阻止するんだ!」
《そ、阻止って、どうやって?》
困惑した声が、静音を答えに詰まらせる。
「う、そ、それはー……自分で考えなさい!」
《ええ!? ここへ来て丸投げですか……!?》
「小夜子なりの方法でいいんだって! じゃ、私はこれから他にもやることあるんで!」
《え!? し、静音ちゃん!?》
「おやすみ!」だけ明るく言うと、静音は勢いよく電話を切った。真っ暗になったディスプレイを見つめ、
――……こんだけ焚きつけとけば、小夜子も自覚するかもしんないでしょ。
親友である彼女の、今後の幸福を祈った。
* * *
小夜子もまた、真っ暗になったディスプレイを見つめ心臓をどきどきと震わせていた。
「“阻止”って……」
人様の結婚を阻止するということが、いかに大変なことか――。
小夜子は店先で独り、夜風に当たりながら立ち尽くす。二人の話の邪魔にならないように……という配慮、というのは名目であって、本当は話を聞きたくないだけだ。
空を見上げれば、青白い顔をした満月。ベールで覆うようにして、霧のような暗雲がその顔を時折隠している。
つい最近も実感したことではあるけれど。奏一郎だって一人の男性なのだ。別に今は相手がいなくても、そのうち恋人の一人や二人はできてしまうかもしれない。彼の年齢を鑑みても、果ては結婚も遠くは無いだろう。
そうなれば、自分はどうなるのか。自分は、所詮はただの下宿生。いや、ただの下宿生から、厄介者――静音も言っていたように、邪魔者になってしまうんじゃないだろうか。
「……もし、そうなったら……」
――私は……どうしたらいいんだろう?
すっかり夏を忘れた夜風が、小夜子の髪をさらっていく。食事を終えて火照った頬の熱も。どこへやら運ばれていく。それでも、心臓の音は高らかに。何度も大きく脈打って、ざわめいて。ああ、なぜだかとても、落ち着かないのだ。
「……何をしている?」
「え?」
突如として耳が捉えた低い声。その声の方向を見やると――月明かりが、黒の雰囲気を漂わせる彼をほんのりと照らしている。
「……橘さん」
いつものように、黒のスーツを着込む彼。思いがけない人物の登場に、小夜子は目をぱちくりさせる。
「こんばんは。……どうかしたのか?」
ありきたりな挨拶の後、心配そうな声が脳に優しく響くのを小夜子は感じた。“どうかした”のは事実なのだが、彼女は笑顔を取り繕う。
「い、いいえ。えっと。こんばんは、橘さん。奏一郎さんに、何かご用ですか?」
「……いや、何と言うか、説明しづらいのだが」
久方ぶりに見る橘は仕事が忙しかったのだろうか、どこか疲れた顔をしているように見えた。心なしか髪も少々乱れているような。それでも、毅然とした声で彼は続ける。
「桐谷は、いるか?」
「え? 桐谷……先輩ですか? はい、中に……」
「悪いが、お邪魔するぞ」
言うが早いか、橘は心屋の中に入っていった。こんな強引な彼は初めて見る。
「え、ちょ、橘さん……っ?」
小夜子の静止など気にも留めず、スパンと小気味よい音を立てて開くのは玄関の扉。その奥には、なにやら楽しげに談笑する二人の人物。
「おや、たちのきくんじゃないか。久しぶりだな」
「あ……きょーやだ」
ほぼ同時に、二人がそれぞれの反応を見せる。和気藹々とした雰囲気を肌で感じ取った橘は、魂が抜けて出るんではないかと疑ってもよいほどの、大きな溜め息を吐いた。その背には、小夜子も続く。
「……ずい、ぶん、と。楽しそうじゃないか」
暗い声には怒りが張りついている。橘が一体何に対して怒っているのか。そもそも橘と桐谷は知り合いなのか。まったく話が見えてこない小夜子は、頭に浮かぶクエスチョンマークに対応しきれそうにない。そんな中でも、桐谷はぼーっとした目で橘を見つめて言い放った。
「え……なに、きょーや……。……嫉妬?」
「違う。桐谷、お前から電話を寄越したんだろう。まったく、お前ら……一体どういう繋がりなんだ」
ぴしゃりと言い返す橘に対し、桐谷の思考は遅い。ゆっくりと手のひらをぽんと叩いて、「そーだった。忘れてた」と小さく呟いた。
「あ、あのー」
小夜子の躊躇いがちな挙手に、その場にいた全員が注目する。
「まったく話が見えてこないんですけれど。橘さんと桐谷先輩は、その。お知り合い……なんですか?」
橘は答えるのが面倒くさいのか、もう一度溜め息を吐く。どうやら、本当に疲れ切っているようだ。そんな彼を気遣ってか、桐谷が代わりに口を開く。
「きょーやは俺の、心の友なの……」
「……お友達、なんですか!?」
小夜子は目を丸くした。
「いやむしろ、“高校の友は一生の友”ってやつ……。あれをね、実践中なの……」
「は、はあ……そうだったんですね」
――……橘さんは奏一郎さんと友達で……。桐谷先輩は奏一郎さんの猫を飼ってくれることになって。橘さんと桐谷先輩は高校の頃からの友達で。こんなことってあるんだ。
……って、ん?
桐谷の『高校の友』という単語が引っかかり、小夜子は再び小首を傾げる。
「……あ、あのー、失礼ですけど……桐谷先輩、お歳はおいくつになるんですか……?」
思わず声も上擦る。頭の中に思い浮かんだ‟とある可能性”を、信じたくなくて。信じられなくて。が、それもあっさりと桐谷によって導き出される。
「今年で……二十七だよー……?」
「え……!? そ、そんな馬鹿な!」
小夜子は思わず大声を出す。
「どう見ても高校生じゃないですか!」
「さよ。本当に失礼だよー」
やんわりと奏一郎は注意するが、これほど失礼な物言いもそう無い。