第八章:まもるもの ―神無月― 其の四
――どういう基準で。
どうして、選ばれるのだろうね……。
慈しむように、腕の中の彼女を抱きしめる。
少し、力強くしてしまったせいだろうか。焦香の着物に、あんずが爪を軽く食い込ませた。
* * *
小夜子は邪魔な枝をかき分けると、人通りの無い横道へと桐谷を誘った。一方の彼は、頭を低くしてその道に入り込むや、先ほどまで通っていた本道を振り返り、沈黙。静音もまた、以前この道に案内した際には同じように訝しげな表情をしていたような気がする、と小夜子は思う。
かと思いきや。桐谷はどうやら本道ではなく、背を通り抜けていった焼き芋屋のトラックを見つめていただけのようだ。彼の腹の虫がぐう、と鳴いたのを、小夜子は聞き逃さない。
「……一日って、終わんの早いよねー……。ああ。お腹、空いたなあ……」
「そ、そうですねー……」
――なんかこの人のペースに……流されてる……。
もう夕陽は遠くに沈んで、本道から逸れた脇道を歩いていく二人に、別れを告げていた。
罅割れたアスファルトは、徐々に砂利道になっていき、歩を進める度にごつごつとした音を立てる。行き交う車の音が、歩を進めるごとに遠くなっていく。
「あ、あの。ところで……桐谷先輩、猫はお好きなんですか?」
右隣の彼に、唐突に問うてみる。彼の管理能力の有無が心配だが、猫好きならいくばくか心配の情も薄まるからだ。
しかし彼は、
「『桐谷先輩』……?」
と返し、そのまま思案顔で黙り込む。
小夜子は眉を顰めた。
落ち着いた声や態度から彼を先輩と判断していたのだが、違っただろうか。たしかによく見ると童顔というかベビーフェイスかもしれないが、まさか同い年、なんてことはないだろうか……。
「…………」
一分経過。
ようやく彼は口を開いた。
「好きっていうか……猫好きな人が身近にいるから飼おうかなって……」
「あ、そうなんですか?」
「俺が猫飼えば……たぶんまた会いに来てくれるかなって、思って。だから、猫は魚釣りの餌みたいな扱いになってしまうのかな……。……猫なのに?」
彼は小夜子の目をまっすぐに見て、『でもちゃんと世話するから』と付け加えた。そこだけは明瞭な声だ。
「……その人のために、猫を飼うんですか?」
「うん。まあ、俺も猫は好きだけどね……俺はついでみたいなもん」
「『ついで』ですか……」
――自分のことはそっちのけ?
なんか、それって……。
「……その人のこと、好きなんですね……」
不躾な物言いかもしれない。好きな人のことなんて、探られたくないものだろう。しかし桐谷は気にする素振りも見せずに、
「うん、好き。すごい好き」
と言ってのけるばかりか、柔らかく微笑みさえ浮かばせている。今までのぼーっとした無表情から生み出されたそれは、ませたように笑う子供を連想させた。
小夜子はなぜだか、体の中がぽーっと温かくなっていくのを感じる。桐谷に対して抱いたのは、一方的な共感のようなものなのかもしれなかった。
「……あ、あれ?」
――私、どこに……どの部分に共感したんだろう?
「あ……着いたね」
桐谷の声に、ハッと意識を呼び戻される。
目の前には、オレンジの明かりの点いた古い木造住宅。
「『心屋』……面白い名前だよね」
看板を見ながらそう言って、小夜子を置いて心屋に入っていく彼。迷いは無い足取りだ。
――……私、『心屋に連れていく』なんて言ったかな……。
心の中で少しだけ首を傾げつつも、小夜子も遅れて店内に入る。桐谷の目は真剣な眼差しで店の商品を見つめていた。
様々な色を帯びた、心屋の商品の数々。
未だに一つでも売れた例が無いが、果たしてこの店、経営は大丈夫なのだろうかと心配でならない。
が、
「すごいセンス光る……」
「そ、そう思われますか?」
桐谷はどうやら、これらの商品をお気に召したようだ。先ほどまでの真剣な眼差しは、きらきらとしたそれにいつの間にか変わっていた。小夜子には、理解できぬのだが。
「奏一郎さーん。ただいまでーす」
家主に向って声をかけると、店と家を隔てる玄関の戸が開く。そこにはあんずを抱えた奏一郎が、にこりと笑って立っていた。
「おかえり、さよ」
「お連れしましたよ」
商品をじっくり見ていた桐谷が、奏一郎を見てぺこりとお辞儀をする。
「こんにちはー……。……あ、もしかしたらもう『こんばんは』かな……失敗失敗」
と、またとんちんかんなことを言い放つ桐谷。
奏一郎はといえば、彼の言を受けて天井を見上げている。
「うーん。……あ、それじゃあ今はまだお昼ってことにして、さ。それなら『こんにちは』でいいんじゃないか?」
「……おお、すっきりした」
小夜子は、二人の会話に首を傾げる。
――か、会話が成立している……?
どうやらこの二人、変人同士で波長が合うらしい。
「さ、こんな所で立ち話は止そう。夕食はまだとっていないのだろう? よかったらご一緒しないか?」
「……遠慮とか知らない……ので。お邪魔しまーす」
桐谷は促されるまま、家に上がった。それに小夜子も続こうとした、時だった。
「面白そうな人を連れてきたんだな」
奏一郎が、小声で小夜子に笑いかける。心臓が縮みそうになるのを抑えつつ、
「は、はい。ちょっと……変わってますよね」
と、気丈なフリをして応えた。
「まあ、猫たちを責任持って飼ってくれるならいいさ」
「あ、その点については大丈夫だと思いますよ」
「ほう、何故?」
「……えーっと」
――……『好きな人のため』だから……。なんて暴露するわけにはいかない、よね。
「桐谷先輩も、猫がお好きみたいですから」
「……ふむ、そうか」
奏一郎は納得したように頷いた。
「さあ、夕食にしよう。“お客様”を待たせるわけにはいかないぞ、さよ」
「あ、はいっ」
* * *
その頃、桐谷はとある人物に電話をかけていた。
「……あ、もしもし、俺だけど……。あのね、留守電聞いたらすぐに来てほしいんだ……場所は」
その声はどこか頼りなく、弱々しく響いた。
* * *
ちゃぶ台を鮮やかに彩るのは、桐谷曰く、「見た目にも美しい食事」。
ゴーヤと玉葱のサラダに、大根や人参、里芋や鶏肉などが入った具だくさんの煮物。なめろうに、菜っ葉のおひたし。
炊きたてと思われる白米は、わざとらしいくらいにふっくらとし、真珠もかくやとばかりにぴかぴかに輝いている。
「お口に合うといいんだが……まあ、召し上がってくれ」
「いただきまーす」
小夜子と桐谷の声が被る。
桐谷は最早お決まりの台詞なのか、食事を口に運ぶ度、目を細めて「んまい……」と呟いていた。
小夜子は奏一郎の作る食事を口にして以来、人は本当に『美味しい』と感じたとき、大袈裟なリアクションができないものなのかもしれない、と思い始めていた。
胃だけでなく、脳までも満足させている――そんな食事を、彼は作れるのだ。
『昔は失敗していた』という彼の言葉を、疑ってしまうほどの。
「心屋さんはいいお嫁さんになれる……」
桐谷の呟きに、「たしかに」と小夜子が頷く。しかししばらくして、奏一郎の意であろう『心屋さん』という言葉に、何故か笑ってしまった。が、
「お嫁さんねぇ。欲しいくらいだけどな」
そんな何気ない、世間話の流れで出てきた台詞に。奏一郎の言葉に。思わず、箸を掴む手に力が入る。
「……え……奏一郎さんって、結婚願望あるんですか……?」
きょとんとした碧い目が、小夜子を見る。
「うん。あれ……ダメか?」
「い、いえ」
心臓がざわめく。『うん』という彼の返答が、視界をぐらつかせていく。
「あれ……心屋さんて歳いくつ……?」
ぼやっとした声が、小夜子の前を横切った。
「二十六だったな、たしか」
「へぇ。不明瞭なのが謎なとこだけど……。じゃ、いつ結婚してもおかしくないか」
――……『いつ、結婚しても』……。そうか。そうだよね。奏一郎さんだっていつかは……。
よく噛んだつもりだったのだが、煮物の大根が喉に突っかかりかけた。
心臓が急に重みを増した上に、胃に食物が流れていく感覚が――不快だ。美味しいはずなのに。
――……。……な、なんだろうこの気持ちは……。
何だかんだ言っても変な二人の会話はやはり面白い。なのに、何故だ。笑えない。
小夜子の心情の変化に気づいていないのか、桐谷はそのまま結婚観について話し出す。
「俺はさぁ、結婚したくないんだよねー……そもそも向いていないし。でもそのうち無理やり政略結婚とかさせられそーで恐怖なんだよー……。夜も寝られない。寝てるけど」
「政略……それは嫌だなぁ」
うんうんと頷いて、相槌を打つ奏一郎。二人が思いのほか話を弾ませるので。よかった、と思うのに。それなのに。心のモヤモヤは増すばかりだ。
しかし男性二人の結婚観に、女子高生が口を挟むわけにもいかない。小夜子は強くそう思って、いや、無理やりそう思って、急いで食事を口に運んだ。
* * *