第八章:まもるもの ―神無月― 其の参
* * *
ちらちらと壁掛けの時計を確認しながら、箒で床を忙しく掃いていく。急ぎの用がある時に限って掃除当番になってしまうとは、運というか間が悪い。
もちろん独りで掃除するわけではないが、他の掃除班員は小夜子が急いでいる事など知るわけもないので、怠そうに且つ適当に掃除をしているようだ。高校生なんて総じてそういうものだろうか。
しかし、小夜子はどんなに急ぎの用があろうが大雑把なことは嫌いなのだ。
「……小夜子ー。窓拭きまでしなくていいんだぞー?」
静音のやんわりとしたツッコミにも、
「でも、綺麗な方がいいかなって……」
と返して、拭き掃除を続行。
自分の椅子を窓際まで運んでから、水で濡らした布を窓に当て、力を入れて拭いていく。窓は一見綺麗に見えて、意外と汚れているものなのだ。
やれやれといった調子で静音も小夜子に従い、同様に窓拭きを始める。
「……あ、そうだ、静音ちゃん」
「ん、どしたー?」
くりくりした目をこちらに向ける彼女。
「あのね、実は昨日……電話が来て、子猫飼ってくれるって人が現れたの」
小夜子の言葉は、元々大きな静音の両の目をさらに見開かせた。
「まじ!?」
「うん!」
「わ~! そっかぁ! よかった~!」
はにかみながら、まるで自分のことのようにはしゃぐ静音。そんな彼女を可愛いなぁと、心底思ってしまう。
「え、いつもらってくれるって?」
「えっとね。今日、その人と駅で待ち合わせしてお話してくるの」
「そっかぁ……。猫たちに会えなくなるのは辛いけど。貰い手が見つかってよかったな……。いい人だといいね!」
「うん!」
小夜子は大いに頷いた。と、同時に――。
――……あ。そういえば、何年生なんだろう、“桐谷”さんて……。
ポスターは全ての階の掲示板に貼ってしまったから、『桐谷』の学年を予測することはできない。が、声の落ち着き様から察するに、恐らく先輩なのだろうな、と小夜子は思う。
「静音ー、萩尾さーん、私たち先帰るよー?」
振り返ると、背後には他の班員の男女が、入り口の扉の傍らに四人立っていた。窓拭きをしている二人を手伝う気はさらさら無いらしい。
静音がにっと笑って、
「わかったー。その代わり、ごみ捨てよろしくね!」
と言うと彼らは、
「このちゃっかり者ー」
と弾んだ声で返してから、太ったごみ袋を抱えて去っていった。
まずそんな彼らを見てから、次に窓拭きに勤しむ静音を見る。
――……そっか。……こういうの手伝ってくれる人って……あまりいないものだよね……。
「し、静音ちゃん。なんか……付き合わせちゃってごめんね? 私が勝手に始めたことなのに……手伝ってくれてありがとう」
「えー? 何でよ、いいじゃん。私、小夜子のこういうところ好きだよ?」
そう言って笑ってみせて、静音は窓の天辺にまで腕を伸ばす。
「視点とかが人と違うじゃん。それってさ、他の人が気付かないことにも小夜子は気付けるってことでしょ? ニブいけど。かなりの長所だよ」
あまりに彼女があっさりと言うので、小夜子は目を丸くする。
「最初、小夜子はよくいる大人しい子かなーって思ってたけど。話してみたら意外とそうでもないからなぁ。そういうところ、一緒にいるとすごく楽しいよ。ニブいし」
「……あの、なんでところどころ『ニブい』が入るの?」
先ほどから、誉められているのか貶されているのかわからない。一方の静音は、
「ニブいじゃん」
と言ってニヤリと笑う。
そうこうしている間に、窓は新品もかくやとばかりにぴかぴかになった。誰もそんな些細な違いに気付かないかもしれないが、掃除をした後の達成感にはやはり素晴らしいものがある。
「さ、窓拭き終わったし帰ろっか」
「うん」
その時、がたんという足音に二人は振り向いた。
教室の戸の傍らに、いつの間にか芽衣が立っていたのだ。夕焼け色が、彼女の雪肌を健康的な色に染め上げてくれている。
「あ、楠木じゃん」
人懐っこい笑みを浮かべた静音が、自身の椅子から降りる。
「どしたの、忘れ物?」
「……ペンケース」
彼女の問いかけに浅く短く返す芽衣は、まっすぐに自席へ向かう。二人のやり取りの最中にも、小夜子はただ俯くばかりだ。
先日、『関わらないで』とはっきりと言われてしまったから、どう接したらよいのかわからない。その場を凌ごうと仕方なく布を片付ける素振りをするも、やはり目だけは彼女のほうに自然と向いてしまう。
だからこそ。すぐに、気付いてしまった。
机の中に触れた芽衣が、微動だにしないことに。まるで、呼吸を忘れてしまったかのように。
小夜子の視線に気付いたのか、静音も芽衣を見やる。やがて芽衣の異変に気付いたのか、黒の目は徐々に丸くなっていった。
「どうした? 楠木……」
「……話しかけないで……!」
場の空気が、一瞬にして凍った。
彼女から吐き出されたのは、珍しく冷静さを失った震え声。
目当てのペンケースだけ取り出すと――芽衣はまるでその場から逃げ出そうとするかのように、教室から出て行った。
しんと静まり返る教室。
凍てついた空気が落ち着きを取り戻すのに、多少の時間が必要となった。
小夜子も静音も、何が起きたのかわからずに――事態を理解できずに――ただひたすら、茫然とすることしかできず。
先にこの状況を打破せんとしたのは、静音だった。が、
「……な、なんだ、今の」
楽観的、なおかつ天真爛漫な彼女でさえ、突如目の前で起きた非常異常には対処しきれないらしい。
小夜子もやっと重苦しかった口を開く。芽衣の机を見つめながら。
「……机の中、見てたよね?」
「……見て、みる?」
そう切り出した静音の目は真剣だ。
「プライバシーな気もするけどさー……今のはちょっと、放っとけないっしょ」
静音の言う通り、たしかに――放っておけない。が、芽衣の机に近寄るのを少し躊躇ってしまう。やはりプライバシーに触れることになるだろうし、何より。冷静さを極めたような芽衣があれだけ取り乱すほどのもの――それがこの中に入っていると思うと、何の変哲も無さそうな机が、今にも襲いかかってきそうな猛獣のようにすら見えてくるのだ。
「……じゃあ……見るぞー?」
「う、うん」
体育のかけ声の時の元気なそれとは打って変わって、静音の声には緊張感が漂っていた。
二人で腰を屈め首を傾げ、机を同時に覗き込む。そうして、飛び込んできた眼前の光景に――小夜子は息を、呑んだ。
教科書やノートは全てビリビリに破かれ、机の中に散らばっている。ビリビリに破かれたそれらの奥には、嫌に湿った生ごみも垣間見える。
つんとした異臭には鼻を摘まざるを得なかった。
「なんだ、これ……」
口元を押さえて目を見開いているのは、静音も同じだ。
「誰が、こんな」
――ひどい。……ひどい……。
先ほどの、気を動転させた様子の芽衣を思い出す。
恐らく彼女も、今の二人と同じように目の前の光景に驚き――衝撃を受けたのだろう。
彼女の震えた声。あれは――悲哀の声だったのだ。
「……静音ちゃん」
「な、なに?」
「……掃除、しよっか」
「……そう言うと思った」
静音も、力無く笑った。
* * *
「……いじめ……ってやつかなぁ」
教科書やノートの残骸、生ごみを詰めたビニール袋をごみ捨て場にしまいながら、静音が呟いた。
「うちの学校にはそういうの、無いと思ってたんだけどなぁ……」
溜め息混じりに憤る彼女は、どこか悲しげだ。
ごみ捨て場の扉を施錠しつつ、小夜子は「うん」とだけ返してから、
「……怖いよね」
と付け足した。
静音も、うんうんと大きく頷く。
「そりゃー、怖いよ。あんなんされたらさー」
「……それもあるけど」
小夜子は、昔のことを思い出していた。
同級生に怪我をさせてしまってから、靴を隠され、ごみ箱から見つかったことも――。
母が亡くなってからの、父との生活も。
当時の記憶を辿ってみると、真っ先に思い浮かぶ色は黒。
……真っ黒だ。
ぞくっと、体が独りでに震える。
「……あそこまで、人を恨んだりできる人がいるっていうのが……一番怖い」
小夜子の静かな呟きに、
「……そうだね」
と静音も返した。
夕陽が、二人を淡く照らす。
昨日見たそれとまったく同じ色を帯びているはずなのに――今日の夕陽はどこか冷たく、無情だ。
* * *
静音と別れてから、小夜子は夕陽の下、小走りで駅に向かっていた。
放課後になってから、優に数十分は経過している。先ほどの光景のショックが大きかったせいか、“桐谷”との約束がすっかり頭から抜けてしまっていたのだ。
小走りとは言え、息苦しい。本来、走るのは医者から止められている。呼吸を整えつつ、体の負担にならない程度に走ることしかできない。
――……本当に、不便な体。
だんだんと、道行く人の数が多くなっていく。夕方の駅となると、どこもやはり盛況になるものなのだろうか――。そんなことを、焦りながらも分析してしまう自分がいた。
駅に辿り着き、小夜子は額に流れる汗を拭う。
「ふう……」
きょろきょろと辺りを見回すも、制服を身に纏った者はいない。いるのは買い物帰りの主婦や、会社帰りのサラリーマンくらいだ。
小夜子の焦りも、最高潮に達し始める。
――……か、帰っちゃったかな? かなり遅くなっちゃったし……。
そ、そうだ、電話!
学生鞄の中から携帯電話を急いで取り出し、“桐谷”へ電話をかける。
コール音が左耳に響く中で――ほぼ同時に、小夜子の右耳が別の音を感知した。
小さく聴こえてきたのは、聞き慣れた音楽。恐らく、日本人なら老若男女、誰でも知っているような軽快なリズムとメロディ。
――……ア、アンパンマンマーチ?
ぱっと振り返ると――遠くのベンチに腰掛けていたのは、路考茶の髪。
鳴り続ける携帯電話を見つめるぼーっとした目がどことなく、昨夜も耳にした抑揚の無い声とマッチしているような気がして仕方が無い。
――……もしかして、あの人、かな……?
恐る恐る、小夜子はベンチに近づいていった。
一度帰宅したのだろう。制服ではなく、白のシャツにジーパンというラフな格好に身を包み、携帯電話を見つめる男。
なぜ見つめるだけで電話に出ないのか不思議なところだが……。
ところどころ不規則に跳ねた髪がフワフワと、微風に踊っている。しばし観察していると、長毛種の小型犬に見えてきてしまう。例えるならば、ヨークシャーテリアといったところか。その絶対に噛みつかなさそうな小型犬にさえ恐る恐る話しかけてしまうのは、小夜子の臆病な性格故だ。
「あ、あのー……“桐谷さん”ですか?」
「んー」
小夜子の顔をゆっくりと見つめ始める男の目。鳶色のそれは、あまり寝ていないのかと思われるほど細められている。
「あー……。んーと、『萩尾 小夜子』ちゃんか。ポスターに書いてあった……」
「は、はい、そうです!」
「ども。『桐谷 由良』です。よろしく……」
電話のままの声質と声色。小夜子はとりあえず、桐谷がまだここにいてくれていたという事実に、ほっと胸を撫で下ろす。
「すみません、遅くなってしまって……」
桐谷がまたもやゆっくりと首を振る。
「へーき……。俺もよく待ち合わせ遅れるし……」
その言葉に、小夜子は感激の涙を流しそうになった。
――や、優しい人だ~……。この人なら、猫ちゃんを任せても問題無さそう。
「あ、あの、どうしますか? せっかくですし、猫たちを見にいらっしゃいませんか?」
奏一郎は『おもてなししなきゃな』と言っていた。夕飯前には、桐谷を心屋に招待してしまいたい。
一方の彼は欠伸をしつつ、うんと腕を伸ばした。そうして、ゆっくり口を開く。
「……あのさ……その前にお願いがある……」
「はい?」
桐谷は何も言わずに、小夜子の前に拳を差し出す。なんだろう、とその下に手のひらを広げると、ポンとそこに乗せられたのは――袋に入った、苺味の飴玉。
心なしか、袋がくしゃくしゃに見えるのだが――。
「開けてほしい……」
「え。……え?」
――今、なんと?
我が耳を疑う。が、どうやら小夜子の聞き間違いではないらしい。彼はそのまま言葉を続ける。
「待っている間、開けようと頑張ってた……。でもね……ダメだった。だから、開けてほしい……」
「……あ。は……はい……」
思わぬ命令をされると、人は逆らえないものらしい。小夜子はそのくしゃくしゃの袋から、どうにか桃色の飴玉を取り出す。小さい袋なので、男性の大きな手では開き辛かったのだろう。開き辛かったのだろう、けれども。
「あの……どうぞ」
「ん、ありがと」
眠る直前のこっくりに似た礼をすると、桐谷は飴玉を口に含む。そして、
「んまい……」
しみじみと呟く。その姿が、やたらと夕陽に似合った。老人のような子供……。彼を形容するのに、この言葉が一番ぴったりなのではないか。
――……猫ちゃんをこの人に任せて……大丈夫だろうか……。
心の片隅に芽生えたものが、杞憂に終わることを小夜子は願った。
* * *
「よし、こんなものかな」
満足げに、奏一郎は鍋を熱していた火を消した。
茶の間に歩を進めると、あんずとその子猫たちが一斉に奏一郎を見上げる。
もう子猫たちの毛並みも母猫に似て、茶と白の入り混じったふわふわの体毛になってきている。生まれたばかりのときは、朱の色を帯びていたものを。
奏一郎はにこりと笑って、
「出ておいで」
と、ケージから彼女たちを出す。元気よく畳の部屋を駆けずり回る、短い手足。
「さあ、遊ぼうか」
ボールを取り出して、四匹の猫たちに向かってころころと転がす。
すると猫たちは本能に従い、ボールに向かって上半身を擡げる。更に、その勢いで転がっていくボールを追いかけるようにして、やがて猫たちのボール争奪戦が始まった。それを見て、くすくすと奏一郎は笑う。
ひとしきり笑い終わると、膝元に座り込む存在に気づく。じゃれ合い戯れる四匹の子供たちを、距離を置いてじっと見守る茶の瞳。
奏一郎は目を丸くしてから、ふっと笑みをこぼす。
「……君は頭がいいなあ、あんず。わかっているんだね……」
言いながら首を撫でると、瞼で隠されるその瞳。
「今日で最後かもしれないからね、たくさん見ておくんだよ。焼きつけておくんだよ……君の子供たち。どの子が……貰われていくだろうね」
あんずは甘えるように、奏一郎の膝にすり寄る。やはり猫にも、悲しみの情はあるのだろうか。優しく慰めるように、奏一郎は彼女をそっと抱きしめた。
「……どういう基準で、選ばれるのだろうね」