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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第八章:まもるもの ―神無月― 其の弐

 青のトップスに白のスカートという無難な格好に着替えてから、階段を駆け下りる。台所を見ると奏一郎はもう、調理過程のほとんどを終えてしまっているようだ。


 鼻を掠める、馥郁たる香り。鍋にぐつぐつと煮えているのは肉じゃがだろう。庭で穫れたばかりの新鮮な野菜ばかり使っているせいだろうか、実家で作られたものよりも、それはずっと馨しい。


「す、すみません。遅くなりました」

「まあ、気にするな。概ね、どんな女性も服選びには時間をかけるものだ」

「う……」

 言い返す言葉が無い。そんな資格も無いが。

「さよ、味付けを頼む」

「は、はい!」

 醤油差しが手渡された。


 ――あ……。ということはもう、砂糖やら料理酒やらは入れてしまったのか……。相当着替えるの遅かったんだな、私……。


 そう心の中で呟きながら、小夜子は醤油を鍋に注ぐ。


 そんな最中でも、先ほど彼が発した“どんな女性も”という言葉が脳内で反響する。

 出かけることもほとんど無ければテレビも無いので、そんな情報を得ることも無いだろうに。何故、彼はそんなことを心得ているのだろうか、と。


 ――やっぱり……あるのかな、奏一郎さんには。誰かとお付き合いしたこととか……あるのかな。

 もし、あったとしたら。それはどんな人だったのかな。


「……さよ。さよー?」

「!」

 奏一郎の声に勢いよく反応すると、左手にいる彼はふわりとした微笑みを浮かべていた。

「入れすぎ」

「え……? ……あーっ!」

 なんということだ。

 ぼーっとくだらないことを考えている間にも、小夜子は醤油を注ぎ続けていたのだ。ぐつぐつと煮えているそれは、茶色の不純な液体と化してしまっている。

 これは肉じゃがではない。ただの醤油汁だ。


「ど、ど、どうしましょう。すいません、本当にごめんなさい……っ」

 冷や汗がだらだらと頬を伝う。

 またもや失敗してしまった。しかも、料理で。これで二度目だ。二度も失敗を犯してしまったのだ。

「うーん、さよのドジっぷりはなかなかにすごいな。『ぎねすぶっく』とやらに載る日も近いんじゃないか?」

 くすくすと奏一郎が笑うので、小夜子は目を見張った。

 ――何故この人は、いつも笑顔でいられるんだろう。


 どんな時でも。何が起きようと。何故笑みを崩しはしないのか。


「さよ。もう三つ、じゃがいもの皮を剥いてくれないか?」

「は、はい!」

 言われた通りに、小夜子はじゃがいもを包丁で剥く。「焦らなくていいから」という彼の言葉に、指を切らないように注意深く。

 その間、奏一郎はもう一つ、玉ねぎを細かく微塵切りにして、鍋に入れていた。

「ど、どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 にこりと微笑むと、剥かれたじゃがいもを四等分にしてから鍋に入れ、蓋を閉じる。

「さて、後は柔らかくなるまでゆっくりしていよう」

 そう言って、台所から姿を消そうとする奏一郎。

「え……お水で薄めなくていいんですかっ?」

 小夜子が見た限り、彼は水を使うようなことはしなかったはずだ。


 ちゃぶ台の湯呑みに麦茶を注ぎ入れつつ、奏一郎が口を開く。

「煮物が濃いめの味付けになってしまったときは、水を入れるよりもじゃがいもを余分に入れた方がいい。風味が失われずに済む」

「……へ、へぇ……そうなんですか」


 これは、今は亡き母も知らなかったことなのではないだろうか。

 料理で失敗するようなことはあまりしない人だったが、じゃがいもで風味を失わせない、なんて知恵を持っていただろうか?


 ぼんやりそう思いながら、おずおずと奏一郎の隣に腰掛け、開かれた障子の隙間を見る。

 そこからひょこりと現れたのは、あんずとその四匹の子供たちだ。あんずはまっすぐに奏一郎の膝に乗り、尻尾を体に巻きつける。背中に黒のブチがある子猫のうちの一匹が、小夜子の膝で一声鳴いた。


 彼女たちが現れた障子の隙間から眺められるのは、西の空に引っ張られながら沈んでいく夕日。雲や空が朱、橙、黄と、グラデーションを身に纏っている。そしてそれらは徐々に紫色を帯びて――。


「綺麗な夕焼けだな」

 あんずの首元を撫でながら、独り言のように呟く奏一郎。

 ――……なんて、落ち着くんだろう。


 不思議なくらいに、時間が経つのがゆっくりに感じられた。


* * *

 

 夕食時。

 卓袱台に乗せられた料理たちを囲みながら、件の肉じゃがを口に運ぶ。

 しばらくして思わず、

「……奏一郎さんは……すごいですね」

 と、感嘆を漏らした。本当に、心からそう思うのだ。


 あの醤油汁が、ちゃんと肉じゃがに変わっている。魔法使いではないか、この人の正体は。


 小夜子の反応に奏一郎はけらけらと笑う。大袈裟だな、と前置きして。

「あはは。何もすごいことなんかないさ。知っていれば、誰にでもできることだろう?」

 謙遜しているわけではないのだろう。彼はそういう人だ。

「いや、味を修正できるのはもちろんなんですけど、そもそもこんなに美味しい料理を作れるのがすごいと思います」


 初めて彼の食事を口にした時の、あの味は未だに忘れられない。衝撃、というとそれこそ大袈裟になってしまうだろうが、それに近い出会いだったと小夜子は思う。


 味噌汁を飲み終えて、奏一郎は口を開いた。

「僕だって、最初から料理ができたわけじゃないぞ?」

 その言葉に、小夜子は褐色の目をぱちくりさせた。

「え……本当ですか?」

「ああ。何度も失敗したものだ。それこそ、さよよりもひどい失敗をな」

 ――し、信じられない。


 小夜子は、奏一郎に不可能なことなど無いのでは、くらいに思っていた。それなのに、料理を失敗した経験があるとは。


「何度も失敗して、やっとまともな味になったのがつい最近のことだと思うぞ」

 天井を見上げながら奏一郎は言う。

「料理が美味しく作れるようになれたらいいなあって思ったから、何度失敗をしても頑張れたんだけどな」

「……なんで、そう思ったんですか?」

 どんなことでも失敗し続けてしまえば、どんな人でも心が折れて、諦めてしまうものなのではないか?


 彼は小夜子の問いに、

「まだ秘密」

 とだけ言って微笑む。


 その答えは容易に予測できただろうに、なぜ――自分は諦めることができずに、問うてしまうのだろう。小夜子にはわからなかった。



* * *


 風呂から上がると、一階の電気は既に消えていた。もはや、恒例のことだ。

 すっかり秋めいたせいだろう、最近では襟で風を起こす必要も無くなっていた。

 茶の間の隣には、奏一郎の自室と思しき部屋がある。

「……奏一郎さん、おやすみなさい」

 閉じられた障子に向かってか細い声で、そう呟いた。

 聞こえているのか否かは、わからない。もう眠ってしまっているかもしれないから。

 だが、それでも言いたかった。


 音を立てないようゆっくり階段を上って自室の戸を開け、一息吐く。そうしてから、小夜子は学生鞄から白く膨らんだ袋を取り出した。


 『萩尾 小夜子 様』と印字されたその袋から、錠剤を二つだけ取り出して、口に含んで水で流し込む。

「ん……」

 そう、これも『恒例』だ。


 病院で一ヶ月分、まとめて薬をもらう。定期検診も同時に行う。

 もし悪化していたら……と思うと、毎回の定期検診が、今度は心臓までもが悪くなっていくような心地さえする。


 食道を、薬が通っていく感覚。最早慣れたものだ。

 だが――それでも、こうも思う。


 ――……いつまで、こんな薬を飲み続けなきゃいけないんだろう。


 水分が火照った体に浸透していく。それと同時に、薬が体に馴染んでいくのがわかる。まるで、飲まなければ本当の自分の体にはなり得ないと思い知らされているような妙な気分だ。


 その時だった。突然、携帯電話から流れる音楽が着信を知らせた。この時間帯に電話がかかってくることなど殆ど無い。

 訝しく思いつつも急いで携帯電話を開くと、ディスプレイには知らない電話番号。


 ――……誰だろう。


 電話に出ようか迷った末、小夜子は着信のボタンを押した。

「はい、もしもし?」

《…………》


 何故か黙る電話の相手に、小夜子は眉を顰めた。まさか、考えたくはないがイタズラ電話の類だろうか。


「あ……あの……もしもし?」

《……あーっと、『萩尾』さんですか……?》

 低い、だが緩慢な口調の男の声に小夜子は背筋をぴんと伸ばす。知らない声だ。それなのに相手は自分の名を知っている。

「は、はい。そうです」

《猫のポスター見て電話したんですけど……》

「……え!?」

 思わず、釣り上げられた魚のように小夜子は飛び跳ねてしまった。


「え、あの……それは、猫を飼ってくださるということですか……!?」

《……はい》

「あ、ありがとうございます! えっと、お名前! お名前を控えてもいいですか!?」

《『桐谷』です》

 メモ帳に走り書きをする。


「えっと……受け渡しについてお話したいんですが……お時間、ありますか?」

《あーっと……じゃあ、明日。駅前で待ち合わせってことで……いいでしょうか》

「はい! 時間は、放課後でいいですか?」

《…………》


 何故か黙る電話の相手。黙るのが癖なのだろうか。


《……わかりました。では、また明日》


 お互いに、電話を切った。

「……やった。ポスター、頑張って作った甲斐があったなぁ……」

 嬉しくて、あまりに嬉しくて。


 気付けば、小夜子は階段を駆け下りていた。

 

「奏一郎さん!」

 勢い良く障子を開くと、奏一郎はまだ眠りに就いてはいなかった。縁側に腰かけているからには、また月夜を見上げていたのだろうか。月光だけが、彼の肌を仄かに青白く照らしている。


 ――ああ、奏一郎さん。なんて似合うんだろう……って、今はそんなこと考えてる場合じゃなくて!


「……ええっと。どうしたんだ、さよ? 嬉しそうだな」

 珍しくきょとんとした碧い目が、こちらを見据える。隣に腰かけ、

「猫ちゃんたちの飼い主さんが見つかりました! 今、電話をもらったんですよ!」

「おお……そうか」

 いつになくウキウキ、ハキハキした様子の小夜子に奏一郎は気圧され気味のようだ。が、彼女はそんなことはお構いなしだ。


「それで明日の放課後、その人に会いに行く予定なのですけど……そのまま、心屋に連れてきてもよろしいですか!?」

「ああ、いいぞ。ちゃんとおもてなししなきゃな。……」

「……?」


 小夜子の頭上に、クエスチョンマークが飛び交う。奏一郎の反応が、想像していたものとは違ったのだ。

 どこか困ったような笑みを浮かべている。ひょっとして、猫たちと離れるのが寂しいのだろうか。

 小夜子からすれば、手放しで喜んでいるのが自分だけ、なのが少し寂しいのだが。


「……あの、奏一郎さん? もしかして嬉しく、ないんですか?」

「いや、もちろん嬉しいさ。ただ……」

 何がおかしいのか――ふっと、こぼすような笑みのまま、彼は続けた。


「さよ。女の子が易々と、男の部屋に入ってきてはいけないよ?」

「へ?」


 流れる沈黙。そして、やがて。

「……あ」

 体が、爆発した。

 そう思うくらいに、一気に全身が熱くなった。


 彼の穏やかな性格やその口吻からして、責め立てているわけではないのだろう。怒っているわけでもないのだろう。わかっていても小夜子は、

「す……すいません、でした……」

 と、小さくなって謝った。早くその場から――奏一郎から――逃げ出してしまいたくて、小夜子は彼に背を向ける。


「いや。明日は頼んだぞ、おやすみ」

 彼はくすくす笑いながら、退室する小夜子の背中に囁いた。


* * * 


 駆け足だった。部屋に入ってからは、倒れ込むようにベッドに横たわると毛布を頭まで被った。

 まだどきどきと全身が脈打っている。腕も、指先も、頬も熱く。まるで全身が、心臓になったみたいに。


  ―― 『男』……。そ、そっか。そうだよね……。男の人……なんだよね、奏一郎さんは。


 下宿を始めて二ヶ月は経とうか。

 今更意識することだろうか、と思われるほど、本当に“今更”な話だ。それなのに、あんな一言で急に意識してしまうなんて。彼が、自分とは違う「男の人」であることを。


 ――ほんのさっきまでは、こんなに心臓うるさくなかった……のに。


「……な、なんで?」


 ――ついに心臓まで病に冒された? 病院の精密検査、受けてみようかな……。


 なかなか静けさを取り戻さない心臓を抱えながら、浅い眠りに就いた。


* * *


「小ー夜ー子、おはよ!」

 後ろの席を振り返ると、輝かしいばかりの静音の笑顔。朝から元気な彼女は、どこか鶏を彷彿とさせた。

「……おはよ~……」

「うっわ、どしたの。あんま寝てない? 目の下のクマがひどいぞ~?」

 小夜子の胡桃色の前髪をどかしながら、静音が心配そうに声を上げる。

「うん……あまり、寝てないかも」

 言いながら、力無く椅子に座り込む。

「え~!? どうした小夜子!? 睡眠不足は美容の大敵! ストレスもまた然り! 何があったか話してみんさい!」


 その言葉に、静音の方に振り返る。相談してみれば、何が自分の身に起こっているのか、わかるかもしれない――。

 一縷の望みにかけるべく、小夜子は一つ、溜め息を吐いた。


「……最近、心臓がおかしいの」

「んな、なにぃ!?」

 テレビドラマかと思わせられるほどの、静音のオーバーリアクション。


「病院行ったほうがよくないか、それは!?」

「だ、だよね、やっぱり? 私もそう思う……!」


 静音が珍しく眉を八の字にする。

「うぁ~、もう、心配だなぁ……! あ、奏一郎さんに言ってさ、一緒に病院に行ってきなよ!」

「うええぇぇ!?」

 突然出されたその名前に、いつになく大声で反応してしまう。教室中の視線が、一斉に二人に注がれた。

 視線を気にする素振りも見せず、静音は、おや? と首を傾げる。そしてそう間を置かずに、彼女は手のひらをぽん、と叩いた。


「もしかしてさ、小夜子……」

「へ? な、何? 何?」

 目を潤ませ、頬は紅潮気味。そして、出された名前に対する、この過剰なまでの反応――。


 数学を苦手とする静音の、計算が始まる。

 しかし、数学とは別の――こういう類の計算は、得意な静音である。すぐさま、脳内に答えは現れた。


「うーん。言おうか……言ってしまおうか。いや~でも、こういうのは本人が自然と気付くのがオイシイかな。む~」

 真剣に腕組みをして、なにやら独りごちる静音を、やりきれない気持ちで小夜子は見つめる。

「……なに? なんなのっ?」

「…………やっぱ言わない!」

「な、何で!? 言ってよ~!」

 涙目の誘惑を振り切り、言わ猿のポーズをとった静音は結局口を割らなかった。

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