第八章:まもるもの ―神無月― 其の壱
〈注意事項〉この章にはいじめを思わせる描写があります。
大事なものって、なんだ?
君は、大事なものを知ってるか――?
* * *
普段から大きな字を書く静音だが、今日はそれにさらに磨きがかかっていた。後ろから二番目の席からでも、今日の彼女の字は非常に読みやすい。なにせ『出し物』という文字が、黒板の面積の半分を占めているのだから。
教室の奥にまで響き渡るのは、張りのある彼女の声だ。
「はーい、みんなお待ちかねー。文化祭、何をやるか考えてくださーい!」
一気に教室の声色が高まる。
「はい! 俺お化け屋敷やりたい!」
「そこ、早まるな! 今から紙渡すから何したいか書いてねー。多数決で決めっからねー」
静音が俊敏かつ慣れた動きで、クラスメイト全員にルーズリーフの切れ端を行き渡らせる。目を見張るほどの素早さだ。
――静音ちゃんってやっぱり、クラスを引っ張っていくだけの器があるなあ……。
テレビのアナウンサーのように流暢に説明を繰り広げる静音を見て、小夜子はつくづくそう思った。
それと同時に。
最近、彼女はよく笑うようになったと。
もちろん以前から明るい笑顔を振りまいてはいた。が、以前よりも、柔らかながらも眩しい笑みを浮かべるようになったと。これまでの記憶の中の笑顔が、霞んで見えるくらいに。
それがどうしてなのか、何をきっかけになのか。小夜子には知る由も無いのだけれど。
しばらくして、
「もう今日は時間無いから、次回の会議までに何やりたいか考えといてくださーい。なんか質問ある人ー? いないねー? ……ってなわけで、文化祭実行委員からは以上! 先生、あとお願いしまーすっ」
流れるような説明をし終え、彼女は小夜子の後ろの席へと戻ってきた。勢い良く椅子に腰掛け文化祭の資料を団扇代わりにするその姿は、なんとも豪快な彼女らしい。
「うぉあ~、暑かったぁ~。教卓ってあっついんだね! クーラー当たり辛い!」
資料の起こす風が短い黒髪を揺らす。小夜子も浅く頷いて、
「十月になっても、まだ暑いものなんだねぇ……」
とだけ返し、ふと窓を見上げた。
淡い色の空を漂う、掠れた雲。まだ少し蒸し暑い日は続いているけれども、柔らかな日差しは秋の訪れを密かに告げているように小夜子には思えた。
日差しを受けて緑色に輝いていた葉も、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出し、色付きの準備を始めているようだ。
すると自然に視界に入るのは、光を受けて輝く、波打つ黒髪。窓際の一番前に腰掛ける芽衣は、やはりいつものように無表情を貫いていて、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。それは冷涼かつ儚いもので、触れることすら躊躇わせる神聖な花のよう。
転入してきて一か月余りで、わかってきたこと。それは、誰一人として芽衣に話しかける者はこの教室にはいないということだ。それは特にクラスメイトの皆が彼女のことを腫物扱いをしているだとか、無視しているだとか、そういうことではなくて。クラスメイトの誰に対しても、こうした学校行事に対しても、芽衣自身が一抹の興味を持つ素振りも見せないので、誰もが関わりを持つことを躊躇ってしまうのだ。静音は体育の時などに声をかけることもあるようなのだが、芽衣の返答が無かったり、反応が薄かったりするので、「うざがられてんのかな。っていうか、人嫌い?」と思ってしまうらしい。
『私にかかわらないで』――。
芽衣の言葉が、静音の憶測に説得力を与えてしまった気がする。あれは、はっきりとした拒絶の言葉だった。あそこまで明瞭に言われてしまうと、静音と同じ憶測を抱いてしまう。
――……やっぱり嫌いなのかな、私のこと。……そう思いたく、ないけど。
一つため息を吐くのと同時に、小夜子の意識は教卓の担任へと戻された。
「……はい、じゃあ保護者の方の都合の悪い日を記入して、明後日までに持ってくるんだよー」
――……ん?
よく話を聞いていなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、小夜子は静音のほうに振り返る。
「……あ、あのう、静音ちゃん。先生、なんて言ってた?」
静音が少し呆れたように、「話聞いてろよー。まあ、私も半分くらいしかまともに聞いてないけど」と小声で笑った。
「三者面談。文化祭の前にやるんだってさ。んで、保護者の都合の悪い日に丸つけて、明後日提出するんだって。……って、うわあ、中間の結果渡されたらどうしようっ」
遠い目で静音が呟く。
前の席の男子から後ろ手に手渡されたプリントに、小夜子は目を奪われていた。
「……三者面談……かあ」
――あれ? この場合……私は誰を呼べばいいの?
その後、教室は帰りのHRにそのまま移行されたが、小夜子はぼーっと、プリントを見つめていた。ので、話はほとんど耳に入ってきていなかった。
* * *
放課後に一人、学校に残るのは初めてだった。朱色に染まった教室。教室同様、静まり返った廊下。少なくともこの階にいるのは、今や自分だけのようだ。無人の気配が、それを証明してくれている。
先ほどのプリントを机に、ただひたすら睨めっこ。携帯電話を開いては閉じ、開いては閉じを右手で繰り返す。
頭の中にあったのは、顰めっ面の父の姿だ。
父から最後に連絡を貰ったのは、あの留守番電話だ。あれ以来――お互いに連絡を取り合っていない。
履歴を見ると、留守番電話が入ったのは八月の末だったようだから、最後に連絡を交わしてから一ヶ月以上経つことになる。
何を言ったらいいのかわからなくて、結局小夜子は自分から電話をすることはできないでいた。声を聞いたら泣いてしまいそうだったし、まだ父に対する恐怖心が拭えなかったからだ。
散々悩んだ後、『わかった。』と一言だけのメールを返したけれど、あまりにも素っ気ない返事だったなあと、今になって思う。
父のことを不器用な人だと思ったことは幾度となくあったが、小夜子も余すことなくその遺伝子を受け継いでしまったようだ。
しかし、連絡を取り合っているか取り合っていないかは別として、やはり仕事の合間を縫って、海外からわざわざ帰ってきてもらうのは非現実的というものだ。
それも、たかだか二十分ほどで終わる三者面談のために。
――たかが、私のために。……来るわけない。
こほん、と小さく咳が出る。あまりにも自然に出てきたそれに、思わず胸を押さえた。
――……風邪、ひかないように気をつけないと。
早く夕飯を済ませて、早く薬を飲みたい衝動に駆られた。
* * *
朱に染まった空を望遠鏡で眺めるようにして、奏一郎は万華鏡を覗いていた。
深緋の和紙が巻かれたそれには、牡丹の花びらが散らされている。
ただ、無表情で、彼はそれをのぞき込む。
ふとした拍子に万華鏡から目を離し、彼は弱々しく微笑んだ。
心屋から見える景色――さらさらと流れる小川。それは夕陽の光りを受けて金色に輝いて、どこへやら流れていく。
「……綺麗だな」
ぽつりと呟いて、その碧い目を細めた。
「……とーすいくん、起きてくれないか?」
間髪入れずに、むくりと起き上がる銀色の水筒。
「なんだ、旦那」
奏一郎は肩肘を机について、とーすいに微笑んだ。
「記憶というのは、厄介なものだな。美化してしまったり、歪曲してしまったりする」
「……ふん、そういうもんか?」
不貞腐れたように、とーすいは横たわった。
「俺様には脳みそっつーのが無ぇからな。そういうの、わからねえや」
「……まあ、そうだよなぁ」
万華鏡を手渡し、「元の場所に保管しておいてくれ」と言うと、とーすいは頷いた。そして、眉を訝しげに顰める。
「……だいたい、旦那。脳みそって、そんな巧いこと出来てるもんなのか? 旦那の記憶が美化できるほどのもんなのか? 旦那の記憶は、俺の知ってる誰のものよりも……」
言いにくそうに、とーすいは続けた。
「……真っ暗なのに」
奏一郎は、彼の言葉にゆっくりと瞼を閉じた。
金色の小川は、消え失せ――真っ暗に、なった。
* * *
鞄に入ったプリントの存在をぼんやりと意識しながら歩いていると、小夜子はいつの間にか心屋の前に辿り着いていた。玉の汗をハンカチで拭ってから、
「ただいまでーす……」
ひょこっと顔を出し、心屋を覗くと――机に肘をつき、その碧い目を瞼で隠した奏一郎がいた。
「奏一郎さん……眠ってる、んですか?」
起こさないように、足音も立てずそっと近づいてみて、彼の顔の前で手のひらをひらひらと振ってみるも、何ら反応は無い。
――寝顔……初めて見た。
穏やかな表情。朱色に容易く染まった髪の隙間から、雪のような肌が覗いている。
小夜子は、心臓の高鳴りを無視できそうになかった。気が付けばぽーっと、彼に見惚れてしまう。薄い唇はゆったりと閉じられて、夕焼けの色に馴染んですらいる。
――綺麗だけど。……静音ちゃんも、言ってたけど。
……“かっこいい”……んだよね、やっぱり……。
「おかえり、さよ」
「うぁあ!?」
勢い良く後退ると、奏一郎は瞳を閉じたままくすくす笑っていた。
「お、お、起きてたんですか!?」
「うん、起きてた」
悪びれも無い調子に、小夜子もさすがに腹が立ってしまう。
「ね……寝たふりしないでくださいよ……!」
「してないぞ? まばたきだよ。長ーいまばたき」
それだけ言って、奏一郎はその目を開けた。碧いまっすぐなそれと目が合う。
「おかえり、さよ。もう六時だぞ? いつもよりほんの少し遅かったな」
「は、はい。ちょっと……居残りをさせられまして」
咄嗟に嘘を吐いた。見破られている気もしたが、奏一郎が「そうか」とだけ言うので、納得したように小夜子には見えた。
「お腹空いたか? 今から用意するから、着替えておいで」
「はい。あ、手伝いますね」
「ああ、頼んだ」
すっと立ち上がって、台所に姿を消す奏一郎。それを見送ってから、小夜子は長い溜め息を吐いた。
最近、どうも駄目なのだ。奏一郎の一挙一動に過剰に反応してしまう自分がいる。
その反応というのも――顔が赤くなったり、心臓がやたらとうるさくなったりするものなのだけど。
直接触れなくてもわかる。きっと今の自分の顔は――火照っている。
――なんか、私……奏一郎さんにからかわれてる気がする。
そして多分……気のせいじゃ、ない。
「……ったく、お前、本っ当に面白ぇな」
馬鹿にするかのように。嘲けるように、とーすいが笑う。片方の口角を上げたような、意地悪い笑いだ。
このとき初めて、彼の存在に小夜子は気づいた。
「とーすいくん……。あ、貴方まで私をからかうの?」
「だってお前、面白ぇんだもん。反応がいちいちウブで。旦那がからかう気持ち、わからんでもねぇぞ?」
かーっと、体温が上がる。
「な、何よそれっ」
「本当のことなんだからしゃーねぇだろ?」
その言葉を聞き終わるか聞き終わらないかのうちに、小夜子は階段を駆け上っていった。
きょとんとした碧の目が、それを見送る。
「とーすいくん、さよに何か言ったのか?」
特に怒るでもなく、にこにこしながら尋ねる奏一郎に対し、とーすいは笑いを抑えるのに必死だ。
「ふん、別に……旦那には関係ねぇ話さ」
そうして、ぽつりと。
「大嘘だけどな」
* * *
「まったくもう、とーすいくんは……っ何で私のことからかうかな……!」
八つ当たり気味に、箪笥の中から手当たり次第に服を数着引っ張る。
ふと掴んだ桃色のワンピースが目に留まった。
季節問わず着られる上に、デザインも可愛らしかったので一目で気に入り、つい最近買ったものだ。
「これにしよっかな……」
と独りごちたところで、急に思いとどまる。
――た、ただお料理手伝うだけなのに、こんな余所行きを着るなんておかしいよね。普通に、Tシャツとスカートとかでいいはずなのに。……な、なんでだろ。
着たくないなあと、思ってしまう。
以前だったら迷わず、適当に選んだ服を着ていたはずなのだ。そこまでオシャレに疎いわけでもないが、とりわけ敏感というわけでもない。
それなのに、今は。少しでも女の子らしい格好がしたいと、思ってしまう。ただ、夕食の手伝いをするだけなのに。
「な、何で……」
――いつからこうなった、私?
「お、おかしい。何かがおかしい……」
どういう心境の変化だろうか。当の小夜子にも、よくわからない。前兆も無ければ、きっかけも無かったはずだ。
なのに、何故――?
「……はっ!」
突然、小夜子は閃いた。光の一線が脳を走り抜ける感覚。それは数学の試験の際に、公式を思い出したときの感覚と似ている。
「そうか……美意識! 美意識が高まったんだ、きっと!」
――奏一郎さんがいつも、綺麗な着物を着ているから……! いつも一緒にいて、そういうのを見慣れてしまっているから!
「だから少しでも綺麗な格好がしたいって思うんだ……」
もやもやしていたものがすっきりした。思わず、表情が綻ぶ。
――……って、誰に言い訳してるんだろう、私は……。
そもそも、何のための言い訳なのか――再び、小夜子の脳内がもやもやし始めた。
が、桃色のワンピースを丁寧に畳んでから、すぐさま箪笥を開けて、再び服選び。
「お、女の子って……忙しいな……」