第二十章:はせるもの ―葉月― 其の参
屋根を叩く、雨の音。
奏一郎は深い眠りから目を覚ました。
上半身をむくり、起こしてみる。最初に目に入ったのは、下半身を覆う柔らかな布──自分が布団の上にいるのだと知る。
いったいどれくらい長く眠っていたのだろうか、見当もつかない。瞼を軽くこすったところで立ち上がり、辺りを見回す。
見覚えのない場所だと思った。
申し訳程度の外の明るさが、決して広くはない部屋を照らす。
木造の壁。
外へと通じているのだろう扉へ向かおうにも、堅牢な格子がそれを阻む。カチャ、カチャ。錠の高い音が短く響く。
身長よりやや高い位置にある窓からは、雨と風の音。耳を澄ませば川の流れる音が聴こえてくる──でも、それだけだ。
人の気配はない。
「誰か……誰かいないの?」
助けを呼ぼうと声を出したその時、奏一郎は違和感を覚えた。
眠りに就く直前まで続いていた息苦しさ。頭痛、節々の痛み、体の火照りまでもが失せている。まるでそんなもの最初から、存在していなかったかのように。
両の手のひらを見つめる。
なんだろう、何かがおかしい。
不快な症状がない。それはとても喜ばしいことのはずなのに──生きている実感が、まるで湧かないのだ。
奏一郎は、はっとした。
外扉の向こうから濡れた土を……草を踏みしめる音が聞こえる。明らかにこちらへ向かってきている。
声を出すより早く、扉がガラガラと音を立てた。
「……ああ、やはりお目覚めになりましたか」
入ってきたのは、知らない男だった。
歳は三十代半ばくらいだろうか。肌にツヤはなく、落ち窪んだ目。身奇麗な衣服がよけいにそれを際立たせている。小脇に抱えているのは、小さな膳だ。
「体の負担が大きいのでしょうか。もう、三日も横になっていらっしゃったのですよ」
三日。そんなに眠り続けていたのか。
奏一郎は驚きつつも、体の違和感の正体が見えたかのように思えた。
けれど疑問は尽きない。
「朝から雨が降ったので、もしや今日あたりでお目覚めになるかと思いまして……食事を女房に用意させてよかった。……この音を聞くのは、本当に久しぶりでございます」
男はまるで愛おしい者を眺めるかのように、壁を見つめる。壁の向こうの雨音に、聞き惚れている。
この男が何者なのか、何を言っているのか。なぜ自分はここに──そう、閉じ込められているのか。
奏一郎がいつ訊ねようかと考えているうちに、男は我に返ったように口を開いた。
「ああ、申し遅れました、お初にお目にかかります。私、分家の者でございます。どうぞ彦二郎とお呼びください。このたび、白蓮様の身の回りのお世話をさせていただくことになりました。よろしくおねがい申し上げます」
分家……聖の一族の中でも、夢見の力を持たないがゆえに、雑用や畑仕事、楠木家への伝令役を担う者たちだ。
本家とは住まう屋敷も異なるので、奏一郎にとっては分家の人間と会話をするのも初めてだ。
彦二郎は頭を深く、深く下げたまま、膳を格子の隙間から差し出した。
「このようなものしかご用意できず、申し訳ございません。白蓮様のおかげで日照りは解消されましょうが、まだ食糧の余裕もございませんで……」
茶碗一杯の玄米に、漬物。それから竹筒に入っているのは、どうやら水のようだ。
ここで食事をとれと、そういうことらしい。
この状況をどんなに前向きに捉えようとしても、奏一郎の頭の中に浮かぶのは、「囚人」の二文字だった。
「……僕は、なにか悪いことでもしたのかな。折檻されるようなことを、した覚えはないのだけれど」
「折檻など、とんでもございません。白蓮様には、皆が感謝しております。しかし白蓮様には……ここに留まっていただかないといけません」
強く否定こそされたものの、気は休まらない。
絶望的に話が噛み合わないのだ。
この男は口を開けば「白蓮様」と言う。
それもどうやら、自分のことを指しているらしい──なにかの手違いだ。奏一郎はそう思った。
「ええと……彦二郎さん? 勘違いをしていないかな。僕は白蓮様じゃ……」
「白蓮様です!!」
心臓が跳ねた。
目玉が落ちんばかりにまぶたを見開き、奏一郎を見つめる彦二郎。
最初の覇気のなさはどこへ行ったんだ? 驚きで、二の句が継げない。
「白蓮様じゃなくて奏一郎だ」なんて最後まで口にしようものなら……首でも締めてきそうな勢いだ。
ふと、彦二郎は再び頭を下げた。地面に額を付けながら。
「たいへん失礼をいたしました! しかし……貴方様は、白蓮様なのです」
白蓮様、白蓮様。
そういえば耳にしたことのある名前だと、奏一郎は思った。
長い眠りに落ちる前に、父が口にしていた名前だと。
「聖一族の、守り神……?」
「左様でございます、左様でございます! 夢見の力を聖の一族に授けた後、この地に眠ったとされる白蓮様です」
嬉しそうに、かつ誇らしげに彦二郎は破顔する。
「それで……それでどうして、僕をその名で呼ぶの」
先程の剣幕を思い出し、奏一郎は恐る恐る訊いた。しかし、
「ああ、そのことでしたら」
彦二郎は破顔しながら、淡々と続けた。
「神降ろしの儀を行ったからです。貴方様のそのお体には、白蓮様が憑いていらっしゃる。これから長い長い時間をかけて、貴方様は白蓮様に成っていくのでございます」
……頭を石で殴られたかのような。いや、そのほうがまだマシだったかもしれない。
「…………何を言っているの?」
神降ろし? 白蓮様に成っていく?
わけがわからなかった。
訊きたいことはたくさんある。けれどもうこれ以上、話していても無駄だと思った。それ以上に、恐ろしかった。こんなにもどろんと落ち窪んだ目をした男と、話をしていたくはなかった。
「父上は? 父上を、父上を呼んで……!」
「誠一郎様は、こちらにはいらっしゃいません。ここを訪うのは私だけでございます。白蓮様は守り神であらせられるのですから、父子として振る舞うことはもうできぬ……と。誠一郎様より言付かっております」
耳を疑う。
けれど、その耳はたしかに覚えていた。父の声を。最後に交わした、言葉の数々を。
──「死なないでくれ。生きて、生きて、生き永らえてくれ」──
──「きっと孤独だろうと思う。寂しい想いをさせると思う。けれどそれでも……!」──
……あの、張り詰めたような表情も。
奏一郎は悟る。彦二郎が嘘をついているわけではないのだと。
その後も彦二郎は、神降ろしの儀がどのように行われたのか、まるで見てきたかのように口にした。
どれだけの人間がその儀式を見届けたのか。
どのような器具を用いたのか。
今、奏一郎の体が、どうなっているのか……。
それを聞いた奏一郎が青ざめ、吐いてしまいそうになっても……気づかないのか、彦二郎は続けた。
話したいことだけを延々と話して、満足したのだろうか。
「こちらに鐘を吊るしておきますので、ご入用でしたら鳴らしてくださいませ」
林檎と同じくらいの大きさの鐘を吊るして、ようやく出ていった。
並べられた膳を見る。食欲なんて湧くわけがなかった。
そもそも腹は空いていないし、喉も乾いていない。
自分の体に何をされたのか──儀式の跡を目で確認するのも、恐ろしかった。
布団の上に、すごすごと戻る。
震える体を抱えて、ぎゅっと目を閉じる。
夢であればいい。これが夢であればいい。
次に目を覚ましたら……父が言ってくれる。「悪い夢を見たんだね」と、きっと言ってくれる。
……長く、長く目を閉じる。
時が経てば経つほどに、心臓が早鐘を打つ。
これが現実なのだと、知らしめるように。
きっと、三日間も眠っていたから。
雨音がうるさいから。
──眠れないのは、そのせいだ……!




