第二十章:はせるもの ―葉月― 其の壱
まだエピローグまで書き溜め終えていませんが、
予定を変更して、少量ずつですが最終章まで
随時更新してまいります。
更新情報はtwitterにて行っています。
よろしくおねがいします。
奏一郎に手を引かれながら、小夜子は森の中を歩いていた。月明かりもなしに、彼は迷いなく歩を進めていく。枝の多いところを避けて通ってくれているのが辛うじてわかるくらいで、小夜子にはどれくらい歩いたのか、ここがどの辺りなのかもとっくにわからなくなっていた。
ふと、あの夢の中に飛び込んだみたいだと小夜子は思う。
どこまで続くのか知れない暗闇。熱帯夜のはずなのに、どんどん体が冷えていく。指先の感覚も薄れてきた。
奏一郎の手が──それだけが命綱のように思えて、ふいに強く握り返してしまう。それでも胸はざわめいたまま。安心できない。それがどうしてなのか、小夜子にはもうわかっている。
「奏一郎さん……」
「どうかした?」
「それはこっちのセリフです……どうかしたんですか?」
奏一郎の声のトーンはいつも通りだ。静かで、穏やかで……それなのに、いつもの彼ではないと小夜子は感じた。ざわり、ざわり。知らない誰かの手が、心臓を不気味に撫でつける。
「どうもしないよ」
「嘘です! 上手く言えないですけどなんだか……変ですよ」
ぴたり、奏一郎が足を止める。小夜子はそのまま続けた。
「緊張しているみたいな。……もしかしてなにか、怖がっていませんか?」
沈黙が走る。ぴんと張り詰めた糸が、あたり一面に張り巡らされているよう。遠く、遠くに花火の弾ける音が聴こえる。
やがて、
「……怖い、か。そうだね、そうかもしれない」
ゆっくりと、それでいて諦めたように奏一郎は声を紡ぐ。
「今朝までは、こんな気持ちになるなんて思わなかった。何事もなかったみたいに、やり遂げられるって思ってた。でも土壇場になって、こんな……」
握り返される手のひら。指先の冷たさが、手の甲をツンと刺す。
「さよに嫌われるかも……また怖がらせてしまうかも。たぶん僕は、それが怖いのかもしれないね」
ああそうか、と小夜子は思った。奏一郎には心が無い。だから自分がどんな気持ちでいるのかも、わからないのだ。
それなら小夜子にもわかるはずがない。
彼が何を考えているのか、これから何をしようとしているのか。
だから少しだけ話題を変えることにした。
「気になっていたんです、教えてくれませんか? さっきの……『初めましてって言わなかった』って、どういうことですか?」
ああ、それはね、と奏一郎は前置きして、
「さよ。僕たちはね、一年前に会うのが初めてじゃないんだ。僕たちはもう、何度も何度も。何度も、出会っている」
……事も無げに、そう言った。
踏みしめる土の音。再び歩き始めた奏一郎。少し遅れて、小夜子も歩き出す。
──何度も、出会っている?
奏一郎の言葉に、小夜子はただただクエスチョンを浮かべるばかり。一年前が初対面ではないとは、どういうことだ。
それ以前に奏一郎と会ったことなんてない。一年前が初めてのはずなのに。
そう思いながら小夜子は何も言えずにいた。
思い返してみれば、一年前の夏。「初めまして」と言わなかったのは、確かだから。奏一郎も自分も、お互いに。
「覚えているはずもないし、それが当たり前できっと正しい。僕がおかしいだけなんだ」
歩を進めるたび、花火の音は遠ざかる。耳を澄ましてようやく聞こえるほどの──遥か彼方にかすかに響くばかりになった頃。
奏一郎が再び足を止めた。先ほどと違うのは、ここが終着点であるということだ……彼が振り返ったので、小夜子はそう察した。
ようやく暗闇に目が慣れてきたらしい。彼の目がまっすぐに自分を射抜いているのがわかる。
開けた空間を肌が感じている。ああ、ここに来たことがあると、直感で思う。
衣擦れの音。開かれた腕。
「さよ、おいで」
他の人ならもしかしたら……今の奏一郎を恐れていたかもしれない。開かれた腕の中に収まることが、死を予感させたかもしれない。
けれど不思議と、小夜子に恐怖心はなかった。躊躇いも当惑もなかった。誘われ、腕の中に収まるのが、ごく自然のことに思えて。
彼の着物の繊維が肌に心地よい。心屋の、あの家の香りがする。とても優しくて温かい匂い。
「さよに見てほしいものがあるんだ」
着物の裾から取り出されたのは、万華鏡だった。鮮やかなのだろう深緋の色も、今は闇夜に溶けてしまっている。
「これを覗いてみてほしい。この中にはね、僕がいるんだ。かつての僕が。そして……」
開いた手のひらに万華鏡が置かれる。瞬間、小夜子の背筋は凍りつく。
「……二人の約束が、詰まっている」
重たい。鉄か、金属で満たされているみたいだ。見た目にそぐわぬ重量感。得体の知れないそれに、血の気がさーっと引いていく。
ただの万華鏡ではないことは明らかだ。
奏一郎のセリフもそれを物語っている。
覗くのか、覗かないのか。突きつけられた二つの選択肢。
覗いたとして、自分の身になにが起きるのかは未知数だ。
けれど、奏一郎は「覗いてみてほしい」と。嫌われるかも、怖がらせてしまうかもとも言っていた。つまり、それが何を意味するか──。
小夜子は唾を飲む。迷いを遠くに追いやって、口を開く。
「奏一郎さんは、私がこれを覗いたら……私に嫌われるかもしれないって、思っているんですね」
返事はない。それは肯定の証だった。
それなら自分がすべきは──、
「大丈夫ですよ、奏一郎さん」
……したいことは、ひとつ。彼の不安を拭ってあげることだ。
「もちろん、ちょっとだけ……ううん、少しだけ怖いです。でも、私……奏一郎さんになら何をされても、嫌いになんてならないです。もうたぶん、そういう風に出来てるんです」
少しずつ言葉を選びながら、小夜子は続ける。
奏一郎が泣きそうな顔をしている。闇夜に邪魔されても、そう感じるから。
「だから大丈夫ですよ。不安に思わなくても大丈夫です。だから……なにが起きても」
──どうか、笑ってくださいね。
星を探すように天に掲げて、小夜子は万華鏡を覗き込んだ。次の瞬間、霞む視界。暴力的なまでの睡魔。意識が奪われる前に思わず手を伸ばす。
小夜子の手を奏一郎が掴んで──ほっとしたのも束の間。小夜子の意識は、そこまでだった。
* * *
あるはずの店が、跡形もなく消えていた。
店だけじゃない。奏一郎と小夜子の二人もだ。姿だけでなく記憶までも、皆の頭から失せている。
何故、どうやって、なんて考える時間も惜しかった。橘はひたすら、森を駆け抜けている。鬱蒼とした森は見通しも悪く、携帯電話の発する光だけでは心許ない。枝の切っ先が、容赦なく肌を裂いていく。
二人がどこに向かったのかなんて見当もつかない。
ただ、予感がした。この森の中にいるんじゃないかと、そう思ったのだ。……正確には、他に思いつく所なんてなくて、がむしゃらになっているだけかもしれないが。
二人だけの思い出の場所だってきっとあるのだろうから。自分はいつだって蚊帳の外だったのだから。それで二人が幸せになるなら、それでいいとすら思って──。
「けど、なにも……消えることないだろ……!」
ため息混じりの独り言を、拾う耳はない。
携帯電話の充電も残り少ない。そろそろ底を尽きそうだ。
橘は枝の隙間から空を見る。
雲か、はたまた花火の煙か。靄が空を覆い尽くしているせいで星は見えない。方向感覚も鈍ってきた。
それでも橘は歩き続けた。確信なんてない。漠然と──二人に近づいている、そう感じた。
次第に見えてきた、青白い光。寒気、鳥肌、悪寒。近づこうとすればするほどに周囲の空気が、体が冷えていく。
体の震えが治まらなくなった頃には自ずと、光の正体が見えてくる。
「ああ、たちのきくん」
目に飛び込んできたのは、不思議な光景だった。
光源は奏一郎。青白い光が彼の体から浮き上がっては舞い上がり、辺りを明るく照らしている。
切り株に背中を預け力なく腰かけている様は、まるでそこから動けないでいるようだ。
けれど橘には、奏一郎の腕の中、眠りに就く小夜子のほうが引っかかった。
「奏一郎、いったい何が……」
言いかけて、止めた。二人に近づけない。足が地面に縫い付けられているみたいに。体を動かそうにも、そこから一歩も動けないのだ。
奏一郎は橘を見ても、特に驚くような素振りは見せなかった。それどころか、
「そうだね。ここに辿り着くならきっと君だろうと、思っていたよ」
どこか納得しているようだ。
二人の姿を見つけられたら、きっと安心するだろうと橘は思っていた。そう思っていたかった。
けれど現実は違った。
奏一郎の腕の中で……彼女は本当に、眠っているだけだろうか。嫌な予感が、鼓動を早めていく。
ぴくりとも動かない瞼。肩は上下していない。周囲の光の色がそう見せているだけだろうか、やけに青ざめた顔。まるで──。
「死んでもらったよ、彼女には」
「…………なに、言ってるんだおまえ」
笑えない冗談だと、吐き捨ててしまえたらよかった。……けれど違うのだ。奏一郎がそんなくだらない嘘をつくわけもない。
考えれば考えるほどに突きつけられる。彼の抱きかかえているものが、小夜子の死体であると。
後悔が波となって押し寄せる。
二人がいなくなったことに、もっと早く気がつくべきだった。もっと早くに捜しに行くべきだった。もっと、もっと──できることはあったはずじゃないのか。
「なんで! なんでそんな……! おまえがやったのか!?」
橘の問いに、奏一郎は答えない。
「たちのきくんは知っていたかな。わかっていたかな。僕はね、とても我儘なんだ。ずっとそうだったし、今だってそうだ」
腕の中で眠る彼女の顔を、奏一郎は眺めていた。ゆっくり、ゆっくりと体温が消えていくのを静観していた。
「本来ならきっと、さよにとっては知らなくてもいいこと。知らずに一生を終えても支障のないこと……。けれど、危険だとわかっていても、僕は知ってほしかった。見てほしい、わかってほしいと思った」
また一つ生まれていく、青白い光。
「昔に交わした、二人の約束。……そして、僕の我儘の話」




