第十九章:さりしもの ―葉月― 其の九
* * *
祭りの会場から離れていく度、喧騒が遠ざかる。人通りももはや皆無。静かな夜だ。
だからこそ、鼓動がいつにも増して全身に伝わっていく。小夜子の手は、いまだに奏一郎の手のひらに包まれていたから。
夢の中の出来事みたいだ。そう思うけれど、奏一郎の手の冷たさが、小夜子を現実にどうにか押し留めていた。
互いに何も話さないまま歩き続ける。手を引いている奏一郎の歩幅は、いつもより小さい。小夜子はそんなことすら嬉しくて。とても愛しく感じた。
「奏一郎さん」
「ん?」
「どこに向かっているんですか?」
「着くまでは秘密だよ」
暗闇の中でも、奏一郎が微笑んでいることは容易く想像できた。
質問こそしたけれど、小夜子にはおおよその見当はついていた。
何度も歩いたこの道。奏一郎と手を繋いで歩くのも、初めてじゃなかったから。
珍しいことに心屋に電気は点いていなかった。
闇に溶けたそれに裏から周り込み、梯子に手をかける。奏一郎が先行し、小夜子は後をついていく。
「おいで」
差し出された手に応えると力強く、けれど優しく手を引かれる。見ると、屋根の上には茣蓙が敷いてあった。
「まさか用意してたんですか?」
「せっかくの浴衣が汚れてしまうからね」
遠く、遠く、アナウンスが流れて反響している。内容こそわからずとも、それが何を意味しているかは察することができた。
茣蓙に腰掛けると、思っていたよりも距離が近い。右隣の彼の体温が伝わってきそうなほど。暗闇で表情が見えないぶん、聴覚や触覚が鋭敏になったみたいだ。
「そろそろ始まる頃合いだね」
奏一郎の台詞からしばらくして、暗闇にひとつの光が射した。
空へ、空へとぐんぐん伸びる光。音もなく、空中でぱっと弾けて。瞬間、大輪の花を咲かせている。太鼓に似た音が身体を貫いて──、
「わー……」
導かれるように声が漏れる。
「綺麗……」
「そうだね」
そう反応した後に、奏一郎はふふ、と笑みをこぼした。
「どうしたんですか?」
「いや……さよは、綺麗なものを見るといつもそう言うなぁと思ってね」
「……綺麗なものは綺麗なんだから、仕方ないじゃないですか」
頬を膨らませてみる。奏一郎が目尻を下げて笑うのを、花火色が照らす。
「ふふ、そうだね……」
会話の最中にも、花火はドンドンと音を立てては消えていく。
ああ、今日が最終日で良かったかもしれない。小夜子はそう思った。
──好きな人と、二人きりで花火が見られるなんて。最後にこんな良い思い出ができるなんて、幸せ者だ、私は。
明日からはもう、心屋に自分の居場所はない。
朝一番に会話をするのは奏一郎ではなくなる。
帰る場所もここじゃない。
向き合わなくてはいけない人がいるからだ。
「……奏一郎さん。少し、お話しても良いですか?」
「もちろん」
ぱらぱら、ぱらぱら。光の粒が広がり弾ける。
「訊いてみたんですけど……お父さん、私の名前の由来、知らないそうなんです」
「名付け親は、お母さんだったんだね」
「私が生まれた時、お父さんは仕事で立ち会えなくて。面会に行った時にはもう、『小夜子』で決まってたそうなんです。由来も知らされてはいないらしくて……」
そうか、とだけ奏一郎は呟いた。
でも、と小夜子は続けた。
「調べてくれるそうなんです。名付けの時に参考にした本は無かったか、とか。捨てずにメモに残してあるかも、なんて言って。……その時のお父さんの慌てっぷりが……なんだかおかしくて」
小夜子は思わず失笑した。父のあんな一面を見たのは初めてだったから。
きっとまだまだ知らないことが、互いにたくさんあるのだろう。
「私……まだあまり自信はないですけど。お父さんとも上手くやっていけるように、がんばりますね」
花火の音が身体の内側を揺さぶる。こんなにも脆い、自分だけれど。
「心屋で奏一郎さんと過ごして、親切にしてもらえて。助けてもらって。それまでは傷ついていたかもしれないけど、それも充分すぎるくらいに癒やしてもらいましたから」
奏一郎は何も言わなかった。ただ黙って聞いてくれていた。……彼のそういうところが、本当に好きだ。
「……さよ」
小さな声だった。花火の合間でなければ、届かなかっただろうほどの。
「さよは、楽しかった? 僕と一緒にいて、楽しかったかな」
珍しい。本当に珍しいことに。彼の声に不安の色が見える。
──……不安に思うことなんて、何もないのに。
まさか最終日に奏一郎のこんな声が聴けるなんて。小夜子は嬉しくて。……どうしても安心させたくて、笑った。勢いで涙がこぼれてしまいそうなくらいに、笑ってみせた。
「もちろんです! 思い出がたくさんありすぎて、もう、何から思い出したらいいやら……!」
奏一郎の微笑みを、花火が照らす。
「そうだね、デートに行ったこともあったね」
「デ……!? そ、そうでしたね!?」
体温が急に上がったせいで、一気に汗が噴き出しそうだ。
そう、たったの一度だったけれど。奏一郎とのデートはとても楽しくて。三ヶ月経った今でも、何度も思い出してしまう。
「春のお花見も綺麗でしたよね!」
「ふふ。ほら、綺麗って言った」
「あ……」
でも、本当に綺麗だったのだから仕方ない。
小夜子はその日に倒れたり熱を出したり、踏んだり蹴ったりだったけれど。
「誕生日には、私の好きなもの作ってくれましたよね!」
「ハンバーグ?」
「そうです、絶品でした!」
思わず頬が綻ぶ。奏一郎が好物を覚えていてくれたのが嬉しくて。
また食べたい、なんて言っても……難しいだろうが。
「『ばれんたいんでぃ』の時は、南瓜のお菓子をくれたよね。あれ、美味しかったなぁ」
「あ。あの時……実は、チョコレートのマフィンを作る予定だったんです。でも失敗しちゃって……」
「そうなのか……何事にも歴史はあるのだね……」
奏一郎が遠い目をし始めた。これはいけない。
「あ、あと、えっと……初詣! この時に初めて藤さんともお会いしましたね!」
「そういえば、ハンバーグのレシピは藤さんから教えてもらったんだよ。お店に行けば、きっと僕のよりもっと美味しいのが食べられるね」
「そんな悲しいこと言わないでください……!」
私は奏一郎さんの作ったものが食べたいんです!
……なんて言ったら、迷惑だろうか。
「文化祭の頃は……すれ違っていたこともあったね」
「……そうですね……」
喉元過ぎれば熱さを忘れる、なんて言うけれど。
まだまだ、小夜子は忘れてはいない。
奏一郎とのすれ違いに心が摩耗して──気がつけば、奏一郎の元へ駆け出している自分がいた。
抱きしめられた時の胸の高鳴りも、ちゃんと体が覚えている。
「仲直りのきっかけをくれたのは、さよだった」
「いえ、奏一郎さんですよ。あの日食べたカレーの味は、今もよーく覚えてます」
二人で初めて作ったカレーは、お世辞にも上出来とは言えなかった。それでも小夜子には、大切な思い出として深く刻まれている。
「三者面談に僕が飛び入りで参加した日のことも、覚えてる?」
「忘れられようもないですよ、あんなの! びっくりしましたもん!」
小夜子は腹を抱えて笑った。笑いながら、思う。
恋心が芽生えたのはあの日だったなと。いつの間にか生まれて、知らないうちにすくすくと育って。……気づいた時にはもう、取り返しがつかないほどの大きな気持ちになっていた。
「ふふ。こうして振り返ってみると、色々あったよな。立ち退き勧告を受けたこともあったしなぁ」
「下宿生活始まって、すぐでしたよね……。ほんと、どうなることかと思いました」
花火が打ち上がる。枝垂れ桜に似た面影を残して、名残惜しそうに消えていく。
「さよ。ちょうど一年前の今日、君はここに来たんだね」
昨日のことのように鮮明に思い出す。
太陽が身を焦がす、暑い日だった。
不安で、心細くて、無事に辿り着けるかもわからない。
そんな孤独に染まりきった自分を、奏一郎は迎えに来てくれた。
あれから一年。
与えられたもの、生まれたもの、育んできたもの、失ってしまったもの、取り戻したものもあって。
それらすべてが宝物だ。
ひとつひとつ、大事に仕舞ってあるのだ。
時折宝箱から取り出しては眺め、抱きしめ、愛でて。……そしてまた、大事に仕舞う。
今、二人がしていることだ。
けれどこれからはひとりで、それを繰り返すことになるのだ。
「ねぇ、さよ。あの日のこと、覚えているかな」
小夜子は笑顔で応じた。
せめて最後の今日くらいは、笑って過ごしたかったから。
「一年前、僕達が出会った時のことだよ」
「ええ? なんですか?」
ちゃぶ台につまずいて転んだことを指摘されるのでは、と予感が走って。思わず患部の鼻を抑えてしまう。
奏一郎はひたすら、微笑むだけ。
「僕たちは二人とも、お互いに言わなかったよね」
碧眼が小夜子を囚える。
「『初めまして』って」
小夜子はしばし、反応に遅れてしまった。
「え……」
それでも背中には冷や汗が伝う。視界がブレる。夢から覚めたような感覚だった。
全身の血の気が引いていく。これが現実なのだと、囁く。
「ねぇ、さよ。これから、僕の話もしていいかな」
自然と耳を澄ましてしまう。惹きつけられるように、耳が声を拾ってしまう。
「昔話だよ。冗長で、つまらないかもしれないけれど。昔に交わした約束の話。そして僕の、我儘の話だ」
右手を取られる。引き寄せられる。
自分はこれから、どこへ連れていかれるのだろう。
今度は皆目、見当もつかない。
小夜子の手は、経過とともに冷えていく。奏一郎の手は、相変わらず冷たい。
二人の手が重なったところで、温まることはなかった。
* * *
橘は心屋へ向かって走っていた。あの二人の行きそうなところといえば、まずはここだと思ったのだ。
喧騒も遥か彼方。背後の空には次々に花火が打ち上がっている。それに見惚れる余裕などあるはずもなく。むしろ焦燥感を煽られていた。
去年の夏に何度も通った、心屋へ続く道。慣れたはずの道。
走りながら思う。なにか変だと。風はないはずなのに、森がざわめいている。木々がひとりでに揺れているのだ。……胸騒ぎがした。
かくして、胸騒ぎの正体はすぐに判明した。
通り過ぎたはずもない。見落としたはずもない。
けれども橘は、心屋に辿り着くことができなかった。
そんなはずはないのに──心屋は跡形もなく、消えていたから。
第十九章:さりしもの 終
第二十章:準備中
最終章:準備中
番外編:準備中
XXXXX:準備中
【重要】
第二十章からの更新について、作者の活動報告にて説明を行っております。ご覧いただけますと幸いです。




