第十九章:さりしもの ―葉月― 其の八
体を清め、巫女装束に身を包んだ芽衣。着替えを手伝ってくれた母に、礼の言葉はかけられない。これから先、舞が終わるまでは神職である父としか言葉を交わすことはできない。
廊下を歩いていると、
「お父さん」
朝から今まで、バタバタと忙しく動き回っていた父。広めの額に光る汗。片手のペットボトルの水も底を尽きそうだ。
「おお。着替え終えたな」
「お清めも終わったよ」
「うんうん、よく似合ってる」
豪快にハハハと笑う父。
「今年も祭りは盛況だなぁ、人の洪水だ。人知れず、にはなってしまうけれど今年も誠心誠意、舞わなければね」
「誠心誠意、ねぇ……。この祭りの由来すら知らなかった人のセリフとは思えない」
今度は少しだけ困ったように、それでも父は笑った。
「いやぁ、不勉強でな。柊のやつにもお叱りの電話を貰ったよ。数年ぶりに話すってのに第一声から怒られたもんだから、さすがに堪えたなぁ……」
あの一見穏やかな教授も、怒ることがあるのだな……とぼんやり思うかたわらで、父は続けた。
「柊がな、おまえたちを褒めていたよ。物事の成り立ちや経緯を自分の力で調べるというのは、良いことだってね」
期間にして数ヶ月だ。今更ながら芽衣は不思議に思う。蔵に籠もっての調べもの。父も母も知っていたろうに。
「よく止めなかったよね。受験生だよ、これでも」
「ああ。母さんと話し合ってな。本人が納得いくまでやらせてみようと。いつになく、一生懸命だったからなぁ」
「……一生懸命、がんばっているつもりだったの」
この数ヶ月、受験勉強すら捨てて調べ続けた。すべてはそう、彼女のために。
「誰かのためにって、初めて思ったの。その人のためならがんばりたいって……思っていたの」
けれど最終的に辿り着いたのは──すべて自分のため。
「本当は自分のためだった。その人のため、なんて大義名分もいいとこで。私は最初から最後まで、自分の目的のことしか頭になかったの。誰かのために、私にもなにかできる、なにかしたい、なんて。……自惚れて、かっこ悪い……」
「はい、ストップ、ストップ。それ、そんなに責めることかねぇ。当然だと思うけどね」
濁流にも似た芽衣の言葉を、父はあっさり受け取った。川の水をすくうように。
「人の行動や言動はな、良くも悪くも全部自分に返ってくるものなんだよ。だから心から誰かのために……自分を勘定に入れずに行動できる人なんて、いないんだ。結果的には、すべて自分に返ってくるものだからね」
静かでのんびり。いつもと同じ父の顔に、父の声。それなのに芽衣には、目の前の人物が初対面のように思えた。
「見返りを求めない、無償の愛情。そんなのを振り撒いていられるのは、人じゃないのさ」
いつになく優しく、彼の言葉が響くから。
「自分のためでも、いいんだよ。恥ずかしいことなんかじゃないさ。誰かのためにがんばりたい──芽衣の気持ちは勘違いだったとしても、偽物なんかじゃないさ」
心底嬉しそうに、父が深い皺を目尻に刻む。
「視える力のせいで苦労して……これまで自分のことで手一杯だったおまえが、そんな風に育ってくれたこと。父さんは誇りに思うよ」
「……お父さん」
「早いなぁ、おまえももう18。舞は今年で終わりだろう……精一杯、舞いなさい、神様のために。この街のために。最終的には、自分のためにね」
最後に、いたずらっぽく笑って。父はその場を後にした。目の前には襖。この奥にはご神体がある。
神楽鈴を持つ手に、ぐっと力が入る。
「……もしかしたら俺も、そうだったのかも」
背後から、純がそっと現れた。どうやら、先程の会話を聞いていたようだ。
「姉ちゃんのためになるならって思ったよ。だから……この前は、姉ちゃんが尻込みしたの見てつい、ムキになったのかも。今まで協力してたのに、何で? って思ったよ」
芽衣は口を開きかけた。けれど純がそれを制する。
「でも……そうだよな。それも突き詰めちゃえば最終的には、いつだって自分のためだよな……」
言外にごめん、と謝る純を見て、芽衣は歯がゆく思った。何も返せない、返してあげられない自分が。
「がんばってよね。誰にも見られない、知られない儀式だけどさ。俺たち家族は、姉ちゃんの努力を知ってる」
父同様、純もまた芽衣の元を去っていった。
襖を開く。ご神体に向かって、深々と頭を下げる。
澱んでいたはずの頭の中が、今は妙にすっきりしていた。
──神様のため。この街の人のため。
……自分のため。そして、かつて亡くなった大勢の聖の人々、その鎮魂のために。
芽衣は今だけ忘れることにした。永く心に抱き続けた澱みも、葛藤も何もかも。
……そして忘れることになった。撫子の浴衣、揺れる簪。彼女の笑顔を。
* * *
すっかり日も落ちて、人混みも最高潮に達してきた。提灯や屋台の灯りが、行き交う人々の紅潮した頬をさらに紅く照らしている。
そんなタイミングで、ようやく店番の交代が来た。橘がハッピから解放されると、桐谷は名残惜しそうに呟く。
「あーあ、面白かったのに……」
「俺はなにも面白くなかったけどな!」
キョロキョロ、橘は雑踏を見回した。もうあの二人はこの近辺にはもういないようだ。奏一郎に手を引かれ、小夜子がどこへやら去っていったのは、見間違いではなかったらしい。
深く、長い溜め息。
その傍ら、桐谷の携帯電話がメッセージの受信を知らせた。
「あ、瀬能ちゃんからだ。『橘さんのハッピ姿、保存してバックアップしておきました♡』って。うーん、さすが。仕事が早い」
「何てことしてくれてんだおまえ」
「仕方ない、頼まれてたし……お礼に今度、パンケーキのお店教えてくれるって言うし」
「おまえらいつの間にそんな仲良くなっちゃってんの!?」
普通に仲良しだよ、と前置きして桐谷は続けた。
「瀬能ちゃん、割とさっぱりしてるし話もよく聞いてくれるし、案外付き合いやすいよ。友達少ない俺には、かなり貴重な存在……」
「ああ、そうかよ……そりゃよかったな」
言いながら、橘は今度は視線を落としてしまう。こんな混雑した場所にいるわけもないが、やはりどうしても探してしまう。
「きょーや、なにしてんの? 行かないのー? 屋台だっていつまでもあるわけじゃないよ?」
「例の子猫が迷い込んでないかと思ってな。こんな人通りの多いところにいないとは思うが、念の為な」
「へー……?」
桐谷の反応が珍しく訝しげだ。
言わんとしていることは、橘にもわかっていた。
「わかってるよ。こんなことしたって、振り返ってもらえるわけじゃないって」
子猫ならどんなところを通るのか想像しながら、生け垣を掻き分ける。けれどそれもしだいに、頭の中は子猫を抱く小夜子の姿でいっぱいになった。
「あの子は……初めて会った時から悩んでいたり、困っていたり、泣いていたり。不安定な印象だったんだ。……だから、ふとした瞬間の笑顔が、よけいに可愛く見えたんだよ」
初めて彼女の笑顔を見て惹かれたのは……心屋の立ち退きが回避された時だったか。それとも、亡き母の話をした時だったか。
いつもの困り顔や泣き顔が、蝋燭が灯るように控えめに、ぽうっとほのかに笑うから。どうしたって、魅せられてしまった。
「俺が今こうして動いてるのもたぶん、優しさなんかじゃないんだ」
生け垣の枝先が腕を刺す。それでも構わないと思った。
「あの子が泣かなくて済むなら、悲しまずに済むなら。それでついでに、笑ってくれたら。俺が嬉しいってだけなんだよな……」
ひゃー、と桐谷は声を上げた。いつもの無表情にからかい半分、感心半分が上乗せされている。
「ラブだね。好きなんだねぇ」
橘は密かに苦笑してしまう。
「さぁ、どうだかな。俺はそう思っていたいけど……同情かもしれないからな」
奏一郎の言葉は波紋となって、橘の心の中を未だにざわつかせていた。忙しさにかまけて考えないようにしたところで、こうしてふとした瞬間に想いを馳せるのだから、同じことなのに。
けれど桐谷は、きょとんとするだけだ。
「え、いいじゃん。同情だって。きょーやが高校の時に俺と関わろうとしたのだって、同情も少しはあったでしょ」
橘は目を丸くした。そんなことはない、なんて言えない。図星だからだ。
桐谷は、それくらいわかるよと、のんびり微笑みながら続けた。
「俺ね、俺に生まれてきてよかったって思うよ。それまでは悲惨だったかもしんないけど。きょーやに会えたおかげで、高校生活楽しかったし。今もこうやってハッピ似合わない〜、なんてからかえるのも。……きっかけなんて、なんでもいいんだぁ、俺」
言いながら、残り少ないかき氷を口に運んでいる。シロップの色が舌に移っているのを、無邪気に見せつけながら。
「瀬能ちゃんみたいな友達ができたのも、あんなに嫌がってたお見合いがそもそものきっかけだしね……。終わり良ければ、じゃないけどさ。スタートが同情でも、偶然でも、なんでもいいじゃん。それでお互いが最後に幸せだって……よかったって思えるんならさ。それでいいんじゃないの」
そうして言うのだ。事も無げに、世間話みたいに。
「っていうか、さっき言ってたやつ。『俺はそう思っていたい』って。それが答えでいいんじゃん」
桐谷の思考は、言葉は、実にシンプルだった。
長いこと縺れていた糸が、ちょんと引っ張っただけで元に戻ったような。
「そう、か。俺は、難しく考えすぎていたのか」
──同情だって思ったほうが遥かに楽だ。失恋したことにならないから。
でもそんなの関係ないんだ。自分が傷つかないように、気持ちに蓋をしたって。
心がいつだって、叫んでしまうから。
──俺は、あの子を「好き」でいたいんだ。
隣で呑気に、今度はりんご飴を取り出した親友。
まさか彼に、こんな大切なことを教わってしまうなんて。
「……あれ? ねぇ、きょーや。あそこ見てみ」
桐谷が指したのは迷子待機所。泣き腫らす子どもたちの足を縫うように、子猫がトコトコと歩いていた。見覚えのある斑模様。記憶と視界が合致する。
急ぎ捕まえて、フチタロー、と呼び慣れない名を呼ぶ。おとなしく腕に収まるあたり、人慣れはしているようだ。思わず、橘の顔も綻ぶ。
「はー、よかった……見つかって。すぐにお前の飼い主のところに返してやるからな」
フチタローが返事をする。
桐谷も顔を覗き込み、ふにゃりと微笑んだ。
「へえ。うちのブロッコリーにそっくり。まさか兄弟猫だったりするかな?」
「何言ってんだ、兄弟だろ」
「え、そうなん? なんでわかるの?」
……短いやり取りだった。
けれど長い付き合いだ。だから、橘にはわかる。桐谷がふざけているわけではないと。
本気でそう言っているのだと、わかる。
「……お前の飼い猫、誰から譲り受けたか忘れたのか?」
「え、ブロッコリーは元々捨て猫だったじゃん。きょーやも一緒に見に行ったっしょ? 兄弟が何匹かいて、それで……あれ?」
説明の終わり頃、桐谷の目が泳ぎ始めた。
なにかがおかしい。彼もそれに気づき始めたようだった。
「『心屋』で保護された野良猫だっただろ? 奏一郎と彼女が里親を探してて……それにお前が応募したんだったよな!?」
「違う……と思うんだけど。そもそも、『心屋』ってなに? そういちろーさんとか彼女とか、覚えがないんだけど……」
「『萩尾 小夜子』だろ! わからないのか!?」
「……ごめん、知らない。もしかして、前に紹介してくれたりとかした?」
先程感じた「嫌な予感」が、背中をサーッと通り過ぎていくのを橘は感じた。ぐるぐる巡る思考の中、遠い意識の冷静な自分が、自然と声を出していた。
「それ貸せ」
橘の様子に圧されてか、桐谷は黙って携帯電話を差し出した。急ぎ、アルバムを見る。橘は探す。小夜子の痕跡を探す。
しかし──、
「さっき撮った写真ってどれだ?」
「それだけど……」
桐谷が指す写真に、写っているのは静音だけ。
小夜子の姿はなかった。
消えたのだ。姿だけでなく。名前も存在も記憶も、痕跡もすべて。
「いったい、何がどうなって」
心臓の音が騒がしい。太鼓の振動と重なって、急き立てるように。
静音が合流したのにも、しばらく気がつけないまま。
「ただいまー! ……恭兄、どうかしたの?」
心配そうに顔を覗き込む静音。それよりも橘の目には、揺れる黄色の水風船が最初に飛び込んだ。
「それ……誰から貰った!」
「え? んーと、知らない子から。向こうは私のこと知ってるっぽかったんだけどね。どうしても思い出せないんだなー、これが」
──静音まで忘れてるのか。
奏一郎も小夜子も消えてしまった。どうして、どうやって。いったい、どこへ?
そこで、橘は射抜かれたような衝撃を受けた。
奏一郎が最後に、自分になんと言ったか。その言葉がじわじわと、いまさらに。血が滲むかのごとく浸食していく。
振り返る笑顔。あの試すような笑顔で。
──「ちゃんと、見つけてくれよ?」──
「……あの野郎!」
考えるより先に、橘は走り出していた。
どうしてこんなことを、なんて理由は知らない。
ただし──理由によってはぶん殴る。
どうやって、なんて方法はわからない。
ただし──何はともあれぶん殴る。
そう、心に決めたのだ。
花火の開始を告げるアナウンスが、遠くで反響していた。




