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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第七章:けせるもの ―長月・中旬― 其の四

 

* * *


 真っ白とは言えない、灰白色に塗られたキャンバス。


 黒く塗り潰されていた時と同様に、それは店の壁に立て掛けられた。オレンジ色の灯りに照らされたそれは、どこか薄汚れていて――‟売り物”、“商品”とは決して言い難い。だが、奏一郎にはこれで満足だった。また人の心を一つ、知ることができたのだから――。


「なあ、とーすいくん」

 声をかけると、店先に並べられていた銀色の水筒が、自らの手足を出現させる。いつものように仁王立ちになり、次には偉そうに腕を組んだ。

「なんだ、旦那?」

「どうして、人は無理して笑うのか……僕にはやっぱりよくわからないや」


 残念そうにそれだけ言って俯く奏一郎に対し、とーすいはふうと溜め息を吐いた。

「……あのなあ、旦那。これはあくまで、俺様の予想だけどな?」

「うん」

「人ってのはな。必ずしも独りで生きているわけじゃねえ。周りに何人も人がいるんだ……取り囲まれるように。良い意味でも、悪い意味でも」

 とーすいの言に、奏一郎は黙って耳を傾ける。その乾いた碧眼は、いつになく真剣な気迫を帯びていた。

「それってな、怖いことでもあるんだぞ。いつ敵になるかもわからないんだ、周りの誰もが。……だが、そんな奴らを相手にするのに、剣は必要か?」


 何も無い天井を仰いでから、奏一郎はゆっくりと首を横に振った。とーすいは続ける。

「そう、答えは“否”だ。味方も傷つけず、特に敵を攻撃するわけでもない。そうすれば、自分が誰かに傷つけられることもない。……盾なんだよ、笑顔ってのは」

 神妙な面持ちのまま、とーすいは口を閉じた。

「……それってもしかして、とても“悲しい”ことなんじゃないのか?」

「まあな。見てて、痛々しい気持ちにはなるわな……」

「……僕が理解できないわけだ」

 そう言って、自嘲気味に奏一郎は笑みをこぼした。


「……あ。そろそろ、さよの迎えに行ってくるから、お留守番よろしくな」

 悪戯っぽく笑う彼に、とーすいは憤慨する。

「俺様は水筒に戻るのに、エネルギーが要るんだぞ! さっきも言ったけどな! いちいちそんなことで呼ぶなよな!?」

「今日はもう“お客様”も来ないし、ずっとその姿のままでいいんじゃないか?」

 論理的な台詞に、彼は一度舌打ちすると不貞腐れたように横たわった。彼に果たして舌があるのかはわからないが――彼を見て、奏一郎はふっと笑う。


「じゃあ、行ってくる……」

「そ、奏一郎さーん」

 またもや上擦る声。


 見ると、左手に紙袋を提げた小夜子が店先に立っていた。覚束ない足取り。どこか疲労感が漂う表情。


* * *


 奏一郎はにこにこしながら、

「おかえり、さよ。はい、『ただいま』って言おうねー」

 と、挨拶をねだる。

「た、ただいまです……。あ、あの。静音ちゃんは……?」

「もう帰ったぞ、たったさっきな」

「……え~っ! 帰っちゃったんですかあっ!?」

 悲哀の入り混じる小夜子の空しい叫びにも、彼は涼しい顔だ。


「行きは迷わなかったのに帰り道に迷うとは……やはり、さよは“ドジっこ”たるに相応しいな」

 その、一見ふざけているような台詞にも、小夜子の心臓はぎゅっと引き締まる。


 ――……何で、知ってるの。私が、”帰り道に迷った”って。


 小夜子の足が止まったことに気づかないのか、彼は微笑みながら話を続ける。

「いやー。それにしてもさよ、僕はもしかしたらダメな大人なのかもしれないな」

「……え……な、何でですか?」

「今日一日で、二人もの女性を泣かせてしまった……」

「ええ!?」


 一人は今朝、ここを訪れてくれた千絵、もう一人は、言わずもがな静音である。が、当然小夜子はそんなことを知らない。


「し、し、し、静音ちゃんに何をしたんですかぁ!?」

 胸座を掴み、彼の上体を激しく揺らせる。それでも余裕の笑みを崩しはしない。奏一郎とはそういう男なのだ。

「何もしてないぞー。僕は、嘘は吐かないぞ?」

「……ほ、本当ですか?」

 たしかに彼から、嘘を吐かれたことはない……と思う小夜子。はぐらかされたことなら何度もあるが。


「恋愛の相談に乗っていただけだ」

 猜疑の目を、小夜子はぱちくりさせる。と同時に、ぱっと着物から手を離した。

「れ、恋愛? ……静音ちゃん、好きな人いたんだ……」


 ――……し、知らなかった。私って……友達のことすらよくわかってなかったんだ。


 俯く彼女に、奏一郎は微笑みかける。

「友達だから言えないことだってあるんだろう。気にするな」

「……はい……」


 ――そうだよね。あっちが話してくれるのを待とう……。


「さ、中に入ろう。夕食の準備はできてるぞ」

「はい。……んー……“恋愛”かあ。よく……わからないなぁ……」

 溜め息混じりに、小夜子はぽつりと呟く。それはただの独り言だった、のだけれど。


「……私は……好きな人ができたこともないからなぁ……」


 言いながら、奏一郎を追い越して玄関に足を踏み入れた。

 途端に、夕食の馨しい匂いがして、表情が綻ぶ。空腹に疲労も重なって、小夜子はもう眠たい気分だ。

「うわあ、いい匂いですね! 奏一郎さんってやっぱりお料理上手……」

「さよ」

 言葉を遮るのは、低い声。

「本当に……?」

「え?」


 立ち止まり振り返ると、奏一郎は顔をこちらに寄せていた。

 

 目の前には、驚くくらい綺麗な碧い目。

 晴れ空を切り取ってそのまま張りつけたような、澄んでいて、まるで宝石のような――。こんなに近くで見たのは、きっと初めてだろう。

 真剣な表情を彼は浮かべているのかもしれないが――あまりに顔が近すぎて、焦点が合わない。


 緩やかに、口を開く彼。呟くような低い声が耳元で囁かれ、それは静かに、鼓膜を震わせた――。


「……本当に、恋をしたことはないの……?」

「……いきゃああああーっ!」


 断末魔のような叫びと共に、小夜子は素早く後退した。背中に冷たい押し入れを感じる。それでも、全身の血液が躍るようにどくどくと音を立てて、体温を上げる。今この瞬間に、全身の血が顔に集まったような心地がした。


 一方の奏一郎は笑う。にへらと、呑気に笑う。

「なんだー。さよの嘘つきー。やっぱり好きな人いるんじゃないか。恋の質問するだけで、真っ赤になっちゃうんだから」


 小夜子は、心臓の高鳴りを無視できない。彼の言うとおり、顔も赤く、熱くなっているに違いない。落ち着いてなんかいられない。声が裏返っていることなど気にしていられない。


「て、いうかっ……な、な、何するんですかぁっ!?」

「え。僕、何かした?」

 きょとんとした表情は、幼い子供を思わせた。小夜子は愕然とする。


 ――……な、何を考えてるのか、本当にこの人は……!?


「……何してる」


 突如として店内に響く、奏一郎とは別の低い声。小夜子が振り返るとそこには、仕事帰りなのだろうか……スーツ姿の橘がいた。

「たちのきくん! やあ、仕事帰りかい? わざわざ立ち寄ってくれるなんて、嬉しいなあ」

 奏一郎は言葉通り、表情をぱっと明るくさせて嬉しそうだ。声の調子が高く、歌うように橘を迎え入れている。


「で? 何かご用か?」

「……いや、その……」

 どういうわけだか頬を朱に染めた小夜子をちらりと見ると、橘は奏一郎の襟を掴み、外へと連行する。その間、小夜子は心臓の落ち着きを取り戻す時間が与えられたのだった。


 とーすいが呆れたように、腰を抜かした彼女に言い放つ。

「……ウブだな、お前」


* * *


「一つ言っておくぞ、奏一郎」

 誰に遠慮してか声を落とす橘。一方の襟を掴まれた奏一郎はにへらと笑う。

「うわあ……呼び捨て、嬉しいなあ」

「そういう話は今はしていない!」

 ぴしゃりと言い放たれ、彼は唇を尖らせた。子供のような彼に構わず、橘は続ける。


「……いいか? お前は成人男子で、彼女は未成年だ。本来ならば……下宿とは言え、共に生活することすら犯罪になるかならないか、わからないレベルだ。そのことは、ちゃんと自覚しておくんだぞ!」

「……?」

 首を傾げる奏一郎。そして次には顎に手をやり、のどかに月夜を見上げ始める。

「……うーん……。たちのきくんの言っていること、よくわからないなあ」

「は? お前……」

「だって、さ。十六や十七なんて、大昔じゃ結婚していてもおかしくない年齢なのに……。一緒に生活しているだけで犯罪なんて言われても、しっくり来ないんだよなぁ……」

 しみじみと言う彼に、橘は青ざめる。この瞬間、彼は思い知ったのである。この世の常識と言うものが、悉く奏一郎には通用しないのだと。


「そ……奏一郎、おまえなっ」

「大丈夫だよ」

 毅然とした声が、まっすぐな碧い目が、橘を黙らせる。


「僕は、彼女に手出ししたりしないから。……ね?」

 細められた碧い目。

 橘は、彼の瞳の奥に――やはり何かが隠されているように思えて仕方が無かった。何が、と問われても確信めいたものは何一つ得られないけれど。その隠されたものがいつか――望まぬ形で知らされることになる、そんな予感もしていた。


 その瞳すら瞼の裏に隠して、奏一郎は笑みを浮かべるのだった。


「だから安心してな?」

「あ、『安心』?」

 橘が眉を顰めると、きょとんとした目で、奏一郎は彼を見据える。

「たちのきくん、さよのこと気になってるんだろう?」


 風が吹く。

 真夏を忘れかけて、涼しさを含んだ風が二人の間をすり抜ける。


「……はああぁぁ!?」

 そんな風に乗せられた橘の声は、遥か彼方にまで響き渡った。彼は本気で驚いているようだ。いつもの切れ長の目を珍しく丸くし、ぽかんと口が開いている。

 しかし奏一郎にとって、そんなことはどうでもいいらしい。饒舌な喋りをすらすら続ける。

「だからわざわざ仕事帰りに、そんなことを言いに来たんだろう? どうでもいいと思っている子に、そんな親切にしないでしょう? いくらたちのきくんとは言え、ねえ」


 小夜子のそれに勝るとも劣らない、急速に朱に染まる、橘の頬。

 信じられなかったのだ。忠告するつもりでここに来たのに、まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだ。

「そ、そういう不埒なことを言うお前だから、俺は彼女のことが心配なんだッ!」

「ふふ。そうかー。ふーん? へぇー? それだけー?」

 くすくす笑いが収まらないのか、こちらに背を向けて震える肩。橘は小突きたい衝動に駆られた。


* * * 


 橘は頭を抱えた。頬が火照りすぎて、なのだろうが、本人は自覚していないらしい。

「……俺は、きちんと注意をしたからな。もう帰るからな……!」

「ああ、また来るといい。いつでも待ってるぞー?」

 ふらつく彼の後姿を、感慨深い表情で奏一郎は見送る。


「……なかなか、自分の思うようには消せないんだよ、たちのきくん。……人の想いというのは。……存在を、否定することすら難しいんだ」


* * *


「……そ、奏一郎さん?」

 玄関口からひょっこりと、桃色の顔を出す小夜子。こうして出て来られたのは、やっと心臓が落ち着きを取り戻し始めたからなのだが、彼が視界に入ると心臓は再び踊りだす。


 ぐぐっと、拳で胸を押さえた。


「あ、あの。橘さん、どうしたんですか? 私、挨拶もしないで……失礼だったんじゃ」

「ん? いやあ、『秋は恋愛の季節だよな』って話をしていただけだ。僕に用があったみたいだったから、まあいいんじゃないか?」

 心底楽しそうに、奏一郎は笑う。それを見て、心臓が再び大きく揺れ出すのを小夜子は自覚しなければならなかった。


 その初めての感覚に呑まれてしまう所為か。


 和菓子屋の男性から教わったことについて、訊こうか訊くまいか、思い留まってしまう。


 しかし――問うてみる価値はあるのかもしれない。ごくりと息を呑んでから口を開く。


「……そ、奏一郎さん。失礼なこと、訊きますよ」

「ん? 失礼だと分かった上で訊くのか?」


 冗談めかしく笑う彼。でも、もうそんなことに惑わされたりしない。

「……奏一郎さんは、本当は何者なんですか!?」


 周りに街灯が無くとも、奏一郎の碧眼ははっきりと見えていた。

 やがて、彼は口元を押さえ。自然と漏れ出てしまったかのように、小さく笑みをこぼすのだった。

「……ふ」

「な……、なんで笑ってるんですか?」

「はは。悪い、悪い。……じゃあ、前にも言ったこと、もう一度言うぞ?」


 口元を押さえていた手が離れると――子供のような笑みは消え、そこには見覚えのある酷薄な笑みがあった。悪寒が走るような、闇夜から生まれたような冷たい笑みだ――。


「……『僕は、人間だよ』。……『そういうことにしといてくれ、今は』」


 夜風が、小夜子の首筋を撫でる。鳥肌が立ったのはそれのせいか、もしくは――。


「……全ては、そういうことだよ」


 彼が再び子供のような笑みに戻り、小夜子も久々に自分の呼吸ができた気がした。緊張感が解けたような、やはり解けていないような。


 ――……やっぱり……“人間じゃない”ってこと、か……。


 ほとんど確信を持って発言したこととは言え、本人の口から改めて言われてしまうと否が応にも実感が湧いてしまう。足元が、ぐらぐらする。不安定な足場に立ち尽くしてしまったかのような感覚さえ、覚える。が、


「……怖くなった? 僕のこと」


 伏し目がちに問う彼の目が、弱々しく光るので。うっすらと浮かべられた微笑みも、どこか自信なさげで。困ったような表情が、どこかあどけなくて――。


「……怖くなんかないですよ!」


 こんな弱々しく笑う人を、誰が『怖い』と言えるだろう。


「……怖くなんか、ないです」


 少しだけ、声は震えてしまったけれど。


 奏一郎には、そんな風に勘違いしてほしくなかった。

 何の不安も焦燥もなくいつまでも、いつものように、屈託なく笑ってほしい……。強く、そう思った。

 思わずには、いられなかった。


「さよ」


 顔を上げるのと同時に、頭に感じる、奏一郎の大きな手のひら。それは優しく、それこそ猫にするみたいに――ぽんぽんと、撫でてきた。


「……ありがとうね」


 目をゆっくりと細めて。

 口角を上げて。

 ふわふわと、髪を風になびかせて。


 あまりにも、綺麗で。綺麗すぎて。

 瞬きをした次の瞬間には、消えてしまいそう。


 そんな儚げな彼に――……抱きついて、しまいたくなった。


 小夜子は、初めて彼に触れられた箇所が、そこだけ熱をおびたように痺れる感覚を覚えた。

 普段は意識しない心臓が、どくどくとその存在を主張し始める――。


 ――……熱い。もう、秋になるっていうのに。

 ……ああ、今日一日、いろいろあったけれど。見たかったのはきっと、この笑顔だったんだ……。



* * * 



 夜――。


 奏一郎は、店のチェアに悠然と腰かけていた。電気も点けていないこの空間は完全なる闇と化し、彼もまた、この時ばかりはそれに同化していた。


 壁にかかったあのキャンバスを、その碧い眼でじっと見つめている。


 真っ暗闇で、見えないはずであろうものを。

 それでも、ふとした瞬間にふっと笑って――、

「……素敵な絵になったな」

 とだけ呟いて、彼は自室へと帰っていった。


 灰白色のキャンバスに浮かぶのは――……机に並んだ、二つのケーキ。

《第七章:けせるもの 終》


次章、第八章:まもるもの

湿気の残る空気を残して。季節は夏から秋へと向かいます。


☆ここまで読んでくださり、ありがとうございます

☆またひとつ。物語の、一つの区切りとなりました

☆面白いと感じていただけたなら、↓で評価していただけると嬉しいです

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